山邊御縣座神社|奈良|天理市別所町
山邊御縣坐神社は、朝廷に菜などを治めるために設置された直轄地「山邊御縣」の守護神として祀られたであろう神社。
延喜式神名帳に記載ある式内大社だ。
しかし、その比定社は確定されておらず、天理市の西井戸堂町大門と、同じく天理市の別所町県谷の2か所に論社がある。
この記事の前半部分は、西井戸堂町の山邊御縣坐神社の記事と全く同じなので、そちらをお読み頂いた方は、すっ飛ばしていただいて結構かと思います!
山邊御縣坐神社について
山邊御縣座神社の概要
- 所在地 奈良県天理市別所町726
- 電話番号
- 主祭神 建真利尼命
- 社格 式内大社・村社
- 公式HP なし
山辺御縣座神社のアクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄天理線「天理駅」徒歩30分ぐらい
- 天理駅からバスに乗車「別所」下車10分
駐車場
- なし(駐車スペースはふんだんにあり)
倭の六県・御縣六座
飛鳥時代に設置された朝廷の直轄地で、大和国内に6つの御縣があった。ゆえに「倭の六県」と称される。
これらの御縣は、甘菜や辛菜を天皇に献上する役割が与えられていたようだ。
そしてそれぞれの県には県主がいて、県の守護神が祀られていた。それを御縣六座という。
祈年祭(としごいのまつり)祝詞(抜粋) 御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布と御名は白して、此の六つの御縣に生ひ出づる甘菜・辛菜を持ち參來て、 皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、 皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ |
6県のおよその場所と御縣坐神社は次の通り
- 曽布(添)県・・・奈良市・生駒市・・・添御縣坐神社(論社2社)
- 山辺県・・・天理市あたり・・・山邊御縣坐神社(論社2社)
- 磯城県・・・桜井市あたり・・・磯城御縣坐神社
- 高市県・・・橿原市今井町あたり・・・高市御縣坐神社
- 十市県・・・橿原市北部・・・十市御縣坐神社
- 葛城県・・・葛城市から御所市・・・葛木御縣神社
このように、添県の御縣坐神社と山辺県の御縣坐神社については、それぞれ論社が2社ずつある。
- 奈良市歌姫町の添御縣坐神社と、奈良市三碓町の添御縣坐神社。
- 天理市西井戸堂町の山邊御縣坐神社と、天理市別所町の山邊御縣座神社。
山邊御縣坐神社の祭神
西井戸堂町、別所町ともに、現在の祭神は建麻利尼命(たけまりねのみこと)。
建麻利尼命は、先代旧事本紀の天孫本紀によると「饒速日尊の6世孫、石作連・桑田連・山邊県主等の祖」であるからして、当社は、創建当時の山邊県主がその祖神を祀ったと考えるのが当然至極と感ずるが、そうとも言えないらしい。
江戸中期の「神名帳考証」では「建麻利尼命が祭神。旧事紀が言うに山邊縣主の祖。」とある。
しかし、明治9年に完成したといわれる「特選神名牒」には「祭神は豊宇気毘売命。建麻利尼命と言われているが、何の根拠があるのか疑わしい。豊宇気毘売命であるべき!」というような乱暴極まりない記載がある。いったい何に怒っているのだろう。江戸と明治の境目で、「建麻利尼命」であってはならない何らかの事情が発生したのだろうか。
ところが、明治12年の神社明細帳によると、「祭神は建麻利尼命」になっている。
そして、大正3年の大和志料では「山邊御縣神を祭る」とある。実にシンプルかつ包括的な結論付けと言えよう。
別所町の山邊御縣坐神社 参拝記録
天理市の北中部の山沿い。天理教教祖様の墓地の北西の山中に山邊御縣坐神社は鎮座する。
駅から徒歩はなかなか厳しいと思われる。天理駅からバスに乗り「別所」で降りたら徒歩10分弱か。
車で行かれる方はカーナビに従って進むわけだが、途中で極狭の曲がり角があり、田圃に落ちそうな感覚に苛まれるが、大丈夫だ。カーナビに従えば必ず到着できよう。
駐車場は無いが、社頭が大きく開けているので駐車放題である。
社頭
「山邊御縣座神社」との社標がある。「坐」ではなく「座」となっている点に注目。だからどうということは無いが。
ちなみに、鳥居の右をすり抜けてさらに中まで車で進むことも可能だが、それは無粋というものだろう。
初夏の訪問であったが、落ち葉が満載。社殿裏も落ち葉の絨毯でフカフカだったことも付け加えておこう。
二の鳥居
一の鳥居とはグイチな位置に二の鳥居がある。
一の鳥居からここまで何もない。寂れ感がそこはかとなく漂う。奈良の式内社特有の感じである。
拝殿
見よ、この落ち葉の渦を!ムイムイが出てきそうな気配がする。
二拝二拍手一拝。
本殿
飾り気のない小さな社殿。周囲の雰囲気とも相まって、古社感が伝わってくる。
かつては大社だったが、今はもう、忘れられたような神社。そんな神社が奈良にはたくさんあるのだろう。
実はここ、明治まで玉垣内に社殿がなく、玉垣宮と呼ばれていたそうな。そして玉垣内を発掘したところ刀剣・金環などが出土したらしい。また玉垣の外の山側に石組の跡が発見されたという。
これらから推察するに、ここに磐境を築いて背後の尾崎山を配する形式の神祀りが行われていたのではないかと考えられる。
尾崎山には別所大塚古墳という大型の前方後円墳がある。物部氏の首長クラスの古墳ではないかと想像されるという。となれば、その遥拝所だったのかもしれない。
境内社
本殿の向かって左側に、3つの末社が並ぶ。
画像一番右の一際小さな祠が「熊野神社」、その次が「春日神社」、一番手前が「菅原神社」。
別所町の山邊御縣座神社の主張
ここを山邊御縣座神社とする根拠はというと、、、この地の字名が「県谷」だから、、、
えっ!という感じではある。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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