山邊御縣坐神社|奈良|天理市西井戸堂町
山邊御縣坐神社は、朝廷に菜などを治めるために設置された直轄地「山邊御縣」の守護神として祀られたであろう神社。
延喜式神名帳に記載ある式内大社だ。
しかし、その比定社は確定されておらず、天理市の西井戸堂町大門と、同じく天理市の別所町県谷の2か所に論社がある。
山邊御縣坐神社について
山辺御縣坐神社の概要
- 所在地 奈良県天理市西井戸堂町339
- 電話番号
- 主祭神 建真利尼命
- 創建年 不詳
- 社格 式内大社・村社
- 公式HP なし
山辺御縣坐神社のアクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄天理線「前裁駅」徒歩25分ぐらい
駐車場
- なし
倭の六県・御縣六座
飛鳥時代に設置された朝廷の直轄地で、大和国内に6つの御縣があった。ゆえに「倭の六県」と称される。
これらの御縣は、甘菜や辛菜を天皇に献上する役割が与えられていたようだ。
そしてそれぞれの県には県主がいて、県の守護神が祀られていた。それを御縣六座という。
祈年祭(としごいのまつり)祝詞(抜粋)
御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布と御名は白して、此の六つの御縣に生ひ出づる甘菜・辛菜を持ち參來て、 皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、 皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ
6県のおよその場所と御縣坐神社は次の通り
- 曽布(添)県・・・奈良市・生駒市・・・添御縣坐神社(論社2社)
- 山辺県・・・天理市あたり・・・山邊御縣坐神社(論社2社)
- 磯城県・・・桜井市あたり・・・磯城御縣坐神社
- 高市県・・・橿原市今井町あたり・・・高市御縣坐神社
- 十市県・・・橿原市北部・・・十市御縣坐神社
- 葛城県・・・葛城市から御所市・・・葛木御縣神社
このように、添県の御縣坐神社と山辺県の御縣坐神社については、それぞれ論社が2社ずつある。
- 奈良市歌姫町の添御縣坐神社と、奈良市三碓町の添御縣坐神社。
- 天理市西井戸堂町の山邊御縣坐神社と、天理市別所町の山邊御縣座神社。
山邊御縣坐神社の祭神
西井戸堂町、別所町ともに、現在の祭神は建麻利尼命(たけまりねのみこと)。
建麻利尼命は、先代旧事本紀の天孫本紀によると「饒速日尊の6世孫、石作連・桑田連・山邊県主等の祖」であるからして、当社は、創建当時の山邊県主がその祖神を祀ったと考えるのが当然至極と感ずるが、そうとも言えないらしい。
江戸中期の「神名帳考証」では「建麻利尼命が祭神。旧事紀が言うに山邊縣主の祖。」とある。
しかし、明治9年に完成したといわれる「特選神名牒」には「祭神は豊宇気毘売命。建麻利尼命と言われているが、何の根拠があるのか疑わしい。豊宇気毘売命であるべき!」というような乱暴極まりない記載がある。いったい何に怒っているのだろう。江戸と明治の境目で、「建麻利尼命」であってはならない何らかの事情が発生したのだろうか。
ところが、明治12年の神社明細帳によると、「祭神は建麻利尼命」になっている。
そして、大正3年の大和志料では「山邊御縣神を祭る」とある。実にシンプルかつ包括的な結論付けと言えよう。
西井戸堂の山邊御縣坐神社 参拝記録
天理市の中西部。近鉄天理線の前裁駅の横を南北に通る県道51号線は、古代の幹線道路「中ツ道」に相当する。
その県道51号線を前裁駅から1.5Kmほど南下したあたりの道沿いに長い石塀が見える。その石塀の向こうが山邊御縣坐神社&観音堂だ。
駐車場は無い。社頭の片隅に駐車する他なかろう。
この鳥居の手前右横の端っこに駐車させてもらった。
鳥居から見える正面の建造物は「観音堂」。かつてここには「妙観寺」という寺院があり、関白藤原道長が金峯山詣の途中で宿泊したほど隆盛を誇っていたというのが自慢だ。
この観音堂は井戸に上に建てられたため井戸堂とも呼ばれ、当地の地名の由来となっている。また、この井戸を、万葉集に登場する「山辺の御井」とする説もある。
当社は、その鎮守神といったところか。
江戸時代、当社は「白山大権現」と称されていたらしい。それは観音堂のご本尊「十一面観音観音」の垂迹神が白山大権現だからだろう。
拝殿
唐破風付きの入母屋造の拝殿。久々の唐破風造だ。アクセントが効いて、建物全体を美しく引き締めて見せる。
二拝二拍手一拝。
本殿
本殿域の瑞垣内にも社標が立っている。「こここそが山邊御縣坐神社であーる。」と言わんばかりだ。
そして、この本殿にも超肉厚の唐破風が付いている。これは珍しいのではないだろうか。。。
境内社
目視した境内社は瑞垣内の2社のみ。本殿の左右に鎮座している。
説明書きがないので、祭神は不明である。
最後に 論社の主張
西井戸堂町の山邊御縣坐神社が論社となっている理由は、
西井戸堂町にアカタ、合場町に北田部・南田部、吉田町にミクリ、富堂町に三宅、東井戸堂町にアカタの小字や、田町・田井之庄町・田部町があり、この一帯に山辺御県が存在した可能性が大きい。
境内案内板より
アカタは縣、ミクリは御厨、三宅は屯倉、それ以外は田を連想させ、御縣につながるということだろう。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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