漢國神社|奈良|境内社の林神社は日本唯一の饅頭の神様
漢國神社は奈良市漢国町にある神社で、飛鳥時代に創建された古社である。
お庭のように整えられた境内に祀られる「林神社」には、日本初の饅頭を作った帰化人「林浄因」と、日本古来の菓祖神「田道間守」が祀られていて、例祭の「饅頭まつり」には全国の菓子職人が饅頭を奉納し、参拝者には菓子と抹茶が振舞われるという。
漢國神社について
漢國神社の概要
- 所在地 奈良県奈良市漢国町二番地
- 電話番号 0742-22-0612
- 主祭神 大物主命、大己貴命、少彦名命
- 社格 式内小社(論)、県社
- 公式HP https://kangou-jinja.jp/
漢國神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄奈良線「近鉄奈良駅」徒歩5分
車でのアクセス・駐車場
- アクセスは容易
- 駐車場あり(無料)
鳥居をくぐって神門前へ。神門前の左右に参拝者用駐車場あり。
漢國神社の祭神
主祭神は、 大物主命、大己貴命、少彦名命 の三柱。
この構成は日本最古の神社ともいわれる大神神社の御祭神と同じ。
大物主命
大物主命は日本神話に登場する神。三輪山に鎮まる神。
日本書紀の一書では大物主命は大己貴命の和魂であるとし、出雲国造神賀詞でも 大己貴命の和魂 であるとしている。
大穴牟遅神(大己貴命)と少彦名神は、国造りを行っていた。ところが道半ばにして少彦名神が常世国に去ってしまった。そこに大物主神が海を照らしながらやって来て、三輪山に祀ることを条件に 大大穴牟遅神(大己貴命) の国造りに協力した。
(古事記より)
大己貴命
大己貴命は、日本神話に登場する国津神。
日本書紀本文では素戔嗚尊の子、日本書紀一書では素戔嗚尊の6世孫。古事記における須佐之男命の系譜でも6世孫となっているが、素戔嗚尊の娘婿としても登場する。
いずれにしても、少彦名命や大物主命の協力を得て日本国の基礎を作った大いなる神である。
しかし、その作った国は高天原の天津神に獲られてしまう。それが出雲の国譲りと呼ばれる神話である。
高天原から派遣された「建御雷之男神」が大国主神に国譲りを迫る。大国主神は息子たちの意向を聞いて決めることとした。息子のひとり「八重言代主神」は承知した。もうひとりの息子「建御名方神」は抵抗したが「建御雷之男神」に負けて、信濃の諏訪に逃げた。ここに大国主神は天津神に国を譲ることとなる。ただし、出雲に天高く聳え立つ神殿を作って、自分を祀ることを条件として。
(古事記より)
少彦名命
日本神話に登場する神。
古事記では神産巣日神の子、日本書紀では高皇産霊尊の子。いずれにしても最も尊い神とされる造化三神の子となっている。
大国主神が出雲の美保岬に居られた時のこと。白波の中から天之羅摩船に乗って、蛾蝶の皮で作った衣をまとった神がやって来た。久延比古(案山子)が「あの方は神産巣日神の子の少名比古那神だ」と言ったので神産巣日神に聞いてみると「小さいので自分の指の間からこぼれ落ちた子」だという。 少名比古那神は大穴牟遅神と兄弟の契りを交わして国造りを行った。しかし道半ばで常世国に去ってしまった。
(古事記より)
漢國神社の創建
社伝によると、以下の通り。
推古天皇元年(593年)に、勅命により大神君 の白堤という人が園神を祀ったのが創建。その後、養老元年(717年)に、藤原不比等公が韓神二座を相殿として祀った。
平安京宮内省内に園神と韓神を祀る社があったが、平安京への遷都以前にこちらから勧請されたものであるという説がある。
さらに、大倭神杜註進状によると、
宮内省に祀られる園神一座とは大物主命で、韓神二座とは大己貴命と少彦名命である。素戔嗚尊の子孫であるからして疫神である。
としている。
園神と韓神を祀る神社であるがゆえに園韓神社と号していたこともあったが、園が國に、韓が漢に転じて漢國神社となったといわれている。
漢國神社のご利益
当社に祀られる三柱のご神徳は実に幅広い。
第一に、国家経営・国家安寧が挙げられよう。これは家内安全にも結びつく。
次に、病気平癒であろう。素戔嗚尊の子孫である大己貴命と、医薬・まじないの神である少彦名命に由来する。
さらには、縁結び。大己貴命(大国主命)は、恋愛・仕事などあらゆる縁を結ぶ神として有名だ。
そして、子宝・安産・子育て。大国主命には多くの妻があり多くの子がいるが故のご神徳である。
もっと言うと、海運招福・商売繁盛だ。大国主命は七福神の構成員であるところの大黒天と習合したからである。
まだある。交通安全もご神徳の一つとして挙げておこう。金刀比羅宮に祀られる大物主命は瀬戸内海の海上交通の神であるからして。
漢國神社 参拝記録
近鉄奈良駅のバスターミナルの西角に「高天」という交差点があり、ここを南北に走る道路を「やすらぎの道」という。交通量が多く、あまり安らげる道ではない。
高天交差点から「やすらぎの道」を南へ80mほど歩くと朱色の鳥居が見える。そこが漢國神社への入り口となる。
鳥居
社標が左右に一つずつ建てられている。右側には「県社 漢國神社」とあり、左側には「饅頭の祖神 林神社」とある。
そう。この神社は、饅頭の祖神を祀る境内社「林神社」の方が有名なのだ。後述しよう。
神門と駐車場
鳥居をくぐって進むと神門があり、その手前の左右が参拝者用駐車場となっている。
二の鳥居
樹木の配置や高低差やなどが、ちょっとした日本庭園的な整え方がなされており、「やすらぎ」を感じる境内だ。
拝殿から本殿
華美な装飾など一切ない、実に簡素な拝殿だ。これがまさに日本人が世界に誇る美的感覚。というのは言い過ぎか。
二拝二拍手一拝。
神殿全景
檜皮葺の屋根のうっすらと見える苔の感じが風流な流造の本殿。
拝殿の屋根と本殿の屋根が合体しているところが特徴的。桃山時代の建造で奈良県の有形文化財に指定されている。
境内社
では、拝殿に向かって右側から境内社に参拝しよう。
饅頭の祖神 林神社
テカテカの饅頭が。饅頭の神様が祀られているのが一目瞭然の仕立てとなっているのが「林神社」。
祭神は、林浄因と田道間守の二柱の神。
林浄因
林浄因は、中国は宋の人で、饅頭職人。
日本から元に渡って修行をしていた臨済宗の禅僧が寄宿していた禅寺で、饅頭(肉まんのようなもの?)を作る職人として働いていた 浄因 。その禅僧が日本に帰国する際に一緒に渡来し、奈良に居住。
肉食を禁じられていた日本の禅僧のために、饅頭の中身をアレンジして、小豆などで作った甘い具を詰めたものに仕上げた。これが大評判となり天皇家に献上される銘菓となった。
その後も、天皇家や室町将軍家や戦国大名に献上されるようになった。徳川家康が兜に林家の饅頭を置いて戦勝祈願した話は有名。近世では宮内庁御用達にもなっている。
田道間守
林浄因が中世の菓子職人であるの対して、田道間守は古代の菓子の神である。
12代垂仁天皇の命により、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(橘のこと)」を求めて常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着きその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきたのだが時すでに遅し。天皇は崩御していた。よって、大后に半分の縵4縵・矛4矛を献上し、残りの縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供えて泣き叫んだ。そして泣き死んだ。
古記事より
このように、二柱の神は、古今の甘味に関係する神なのである。
ご利益は、製菓業繁栄と世界平和。お菓子は人の心を幸せにする。これが世界の平和につながる。ということだろうか。
葵神社
林神社の隣が葵神社。
葵神社というネーミングからすると、ご祭神は賀茂の氏神系か徳川家康公のいずれかだと推察されるが、こちらは東照大権現(徳川家康公)がご祭神だと聞く。ご利益は大願成就。
八王子社
本殿の裏を通って、反対側の角に鎮座するのは八王子社。
八王子社と号することから、ご祭神は素戔嗚尊の八柱の御子神となろう。
がしかし別伝として、祭神は宗像三前大神であるだとか、神屋楯姫命(宗像三女神のうちの多岐都比売命と同一神)であるだとかとも伝わる。
神恩奉謝とある。「神様の恵みや恩を感謝し、感謝の気持ちで祈りましょう!」ということだろう。ご利益ではなく、神に祈る心構えが記されているようだ。
謎の社
社名や祭神が案内されていない社が一社。ぱっと見、2柱の神様が祀られているように見える。
今までの神社参拝の経験からすると、この雰囲気からして「神明社」ではなかろうかと感ずる。となれば、天照皇大神と豊受大神が祀られているということになるが、、、
謎は謎のままにしておいたほうが趣があっていい。
源九郎稲荷神社
多くの神社がそうであるように、こちらにも境内社として稲荷神が祀られている。
しかし、単なるお塚信仰的な稲荷社ではないようだ。それは、源九郎と号しているからである。すなわち日本三大稲荷に数えられる大和郡山にある源九郎稲荷神社からの勧請であろうと推察されるからだ。
源九郎義経は、兄である源頼朝が派遣した追討軍との戦で、ある狐に何度も助けられた。よって、その狐に自らの名「源九郎」を与えたという由緒ある稲荷社である。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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