穴師坐兵主神社|奈良|纏向の守護神から製鉄の神へ
穴師坐兵主神社は、奈良県桜井市穴師に鎮座する古社。延喜式神名帳に記載ある式内社の中において名神大社・大社・小社に格付けされる3社が集結した、特別に霊験あらたかな神社である。
奈良盆地の南東部にあった古代祭祀都市「纏向」の東端の高台に位置する。纏向都市を見渡すのには絶好のロケーションと言えよう。
そのような立地なので、ここへ至る道すがらにもいくつかの遺跡や伝承地がある。古代史好きにとっては、なかなかもって楽しい所である。
なかでも相撲神社は、我国の国技であるところの「相撲の発祥の地」といわれている。合わせてご参拝頂きたいと思う。
穴師坐兵主神社について
穴師坐兵主神社 概要
- 所在地 奈良県桜井市大字穴師493
- 電話番号 0744-42-6420
- 主祭神 兵主神・若御魂神・大兵主神
- 創建年 崇神60年(伝)・垂仁2年(伝)
- 社格 名神大社・式内大社・式内小社・県社
- 公式HP なし
穴師坐兵主神社のアクセス
MAP
最寄り駅
- JRまほろば線「巻向駅」 徒歩25分~30分
駐車場
- 駐車場あり(3台程度)
- 道幅狭し。
穴師坐兵主神社の成り立ち
まずは、社名の読み方であるが、穴師坐兵主神社は「あなしにます ひょうずじんじゃ」と読む。
もともとは3つの式内社だったものが、応仁の乱で社殿が焼失したため、一か所に合祀された。
穴師坐兵主神社(名神大社)
創建年代は定かではないが、当社の社伝では、崇神天皇60年とも垂仁天皇2年とも。倭姫命が天皇の御膳の守護神として兵主明神を祀ったのが始まりという。中世には「上社」と呼ばれていたらしい。
滋賀の兵主大社の社伝には、景行天皇が八千矛神を大和国の穴師に祀り兵主大神として崇拝していたが、近江の高穴穂宮への遷都に伴い遷座したと伝えている。
さて、その鎮座地は弓月ヶ嶽にあったとされるが、その弓月ヶ嶽がどこなのかははっきりしない。候補地としては、
- 穴師山・・・現鎮座地の後方に聳える山頂が尖った山
- 竜王山・・・現鎮座地の北東2.3km。ここらの平地から見ると一番高く見える山
- 巻向山・・・現鎮座地の東2.6km。三輪山の奥にある山
この中で、私が最も惹かれるのが穴師山。その理由としては、
- 箸墓古墳・現鎮座地・穴師山が一直線に並ぶ。
- その直線は箸墓古墳の正中を貫く。
- その直線はほぼ夏至の日の出方向を指す。
- 頂上の少し下に「ゲシノオオダイラ」と呼ばれる人口的な平地がある。
- 崇神天皇陵(伝)も、その正中線が穴師山を向いている。
- 纏向遺跡の大型建造物も、穴師山を向ている。
というようなことから、穴師山が信仰の対象物であった可能性が極めて高いと考えられ、その山の頂で神祭りが行われていないはずがないと思うからである。
おそらくはゲシノオオダイラが旧鎮座地であろう。
穴師大兵主神社
こちらも創建年代は定かではない。式内社の小社に格付けされているので、合祀3社の中では社格は最も低い。そして、前述の通り、箸墓古墳と穴師山を結ぶ線上に存在する。
というようなことから、山頂の本社を遥拝するための社だったのかもしれないと感ずる。
鎮座地は現鎮座地。すなわち、穴師坐兵主神社と巻向坐若御魂神社が、大兵主神社に合祀された格好である。
巻向坐若御魂神社
こちらは、式内大社である。創建年代も創建由緒も旧鎮座地も定かではないが、一説には巻向山の山中にあったと伝わる。
穴師坐兵主神社の祭神
このような合祀の経緯があるので、祭神は兵主神、若御魂神、大兵主神の三神となる。
兵主神
穴師坐兵主神社(上社)の祭神で、現社殿では中殿に祀られている。御神体は「鏡」。
倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとの伝承から、その正体は「御食津神」(みけつかみ)であるというが、天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、伊豆戈命(大己貴神)、大倭大国魂神とする説もある。
若御魂神
巻向坐若御魂神社の祭神で、現社殿では右殿に祀られている。御神体は「勾玉」。
その正体は、稲田姫命とされるが、和久産巣日神のことであるとする説もある。
大兵主神
大兵主神社の祭神で、現社殿では左殿に祀られている。御神体は「剣」。
その正体は、八千矛神か。素戔嗚尊、天鈿女命、天日槍命などの説がある。
兵主神って何?
兵主神とは、一般的には弓矢を司る軍神とされる。多くの兵主神社は、大己貴命や素戔嗚尊、あるいは建御雷命や経津主命などを祀っている。まさに軍神。
しかし、兵主神は古事記・日本書紀には出て来ない神であること、中国の「史記」に「蚩尤は八神のうちの兵主神に相当する」と記されていること、などから、渡来系の神であるという説もある。
蚩尤(しゆう)は、石や鉄を食べ、超能力を持ち、勇敢で忍耐強いが、性格は「邪」。凶暴にして貪欲。中国史上初めて反乱を起こしたという。まさに武神。
一方、式内社における兵主神社の分布を見てみると、
- 大和国2社(当社のこと)
- 和泉国2社
- 伊賀国2社
- 伊勢国1社
- 三河国1社
- 若狭国1社
- 近江国3社(2社が湖東、1社が湖北)
- 丹波国1社
- 但馬国9社(出石3社、養父・城崎が2社)
- 因幡国2社
- 播磨国2社
- 壱岐島1社
となる。但馬が多いことがわかる。式外社も含めると、但馬の多さはもっと際立つ。
軍神で、渡来系の神、そして、近江国から但馬国といえば、、、
新羅から播磨に渡来し、近江の湖東から若狭を経て但馬国出石に定着したと伝わる「天日槍」を思い出す。
そんなことから、これら兵主神社は「兵主神:天日槍」を祀っていたのではなかろうか。それが明治維新以降の国家神道思想の下、記紀に登場する軍神的な神々に差し替えられていったのではなかろうか。と考えたくもなるものだが、、、
となると、崇神天皇もしくは垂仁天皇が祀ったとすると「兵主神=御食津神」は、とても異色な存在となる。
景行天皇が祀ったとも伝わるが、景行天皇が天日槍を祀るだろうか。祀るはずはない。景行天皇は天日槍軍団を敵と見なしていたはずだからだ。
そんなこんなで、、、
創建当初は、纏向古代都市の祭りの対象として「農耕神」を祀っていた。そのころは兵主神などという名称ではなかっただろう。
応神天皇の御代以降、すなわち、天日槍系の勢力が大和に入植したころから、兵主神が祀られるようになったのでは?と想像する次第である。
うーん。歯切れ悪し!
穴師坐兵主神社 参拝記録
前置きが、とんでもなく長くなってしまった。過去のことは過去のこと。とは言え、今から向かう場所のことを、ある程度知っておくことも無駄ではあるまい。
というわけで、穴師坐兵主神社に向かうこととする。
ますは、西名阪自動車道の天理ICを降りる。そこから国道169号線を南へと走ろう。この国道169号線の沿線は、名所旧跡がキラ星の如く建ち並ぶ、古代史好き垂涎の道路である。
主な神社旧跡としては、北から、
- 石上神宮・・・記紀にも多く登場する、日本最古級の神宮。
- 大和神社・・・ヤマトの地主神である大国魂大神を祀る古社。
- 黒塚古墳・・・地震が石室内を盗掘から守ったという、奇跡の古墳。
- 崇神天皇陵・・・巨大な前方後円墳
- 景行天皇陵・・・巨大な前方後円墳
- 穴師坐兵主神社・・・崇神天皇創建といわれる日本最古級の神社
- 纏向遺跡・・・弥生時代から古墳時代の大規模集落跡。邪馬台国かも?
- 箸墓古墳・・・卑弥呼の墳墓かも?といわれる最古級の大王の墳墓
- 三輪山・・・三輪王朝が崇拝した、大物主神が鎮まる聖なる山
- 大神神社・・・その三輪山をご神体とする日本最古級の神社
などなど。もっと南へ行くと、熊野大社や速玉大社までも、、、挙げ出すとキリがない。
そんな169号線を南下し、景行天皇陵を左手に見ながら通り過ぎたところで「辻北」の交差点が見えてくる。合わせて、緑色の「相撲神社」の看板があるから安心だ。
そこを山側に入る。道路幅は少し狭いが案ずることは無い。
垂仁天皇纏向珠城宮跡
田園地帯を進んでいくと、用水路に架かる橋の近くの左側に「垂仁天皇纏向珠城宮跡」の石碑が見えるだろう。
この石碑、どこか別の場所から移設されたものだとか。
さらに進むと、
こちらは「垂仁天皇纏向珠城宮伝承地」とある。
先の石碑も、ここらへんにあったのだろうか。というか、そもそも、纏向珠城宮がここにあったかどうかの確証もないらしいが。
さらに進もう。
左側に公衆トイレがあった。念のために寄って行かれてはいかだろうか。
さらに進むと、少し見晴らしのいい所に出てきた。
纏向日代宮伝承地
こちらは、12代景行天皇が営んだという「纏向日代宮」の伝承地だ。
田圃の緑、山の深緑、そして青空。最高のコントラスト。足元には昔トンボが、、、かつては大阪にもこのような風景がたくさん残っていたのだが、今となっては懐かしさを感じる風景となってしまった。
確かにここからだと、纏向古代都市の全容が手に取るように見たことだろう。宮の場所としては最適と心得る。
鳥居
宮跡からほんの少し登ったところに大鳥居がある。この右横に相撲神社の鳥居があった。後で寄ろう。
社標に刻まれた「大兵主」の「大」の字に違和感を感じた。よく見ると、もともとは「縣社」と刻まれていたものをセメントで埋めて、埋められた「社」の上から「大」を掘り直したようだ。
すなわち、「縣社 兵主神社」と刻まれていたということになる。
”すなわち!”などと、気張っていうほどのことでもないか。
鳥居をくぐって車を進める。ここまで、道路幅は狭いものの対向車もなく難儀することはなかった。
駐車場
100mほど進むと、神社の入り口が見える。
その手前に駐車場がある。3台程度は止めることが出来るだろう。安心して頂きたい。
(上の画像は駐車場の前から撮影したもの。)
訳あって、駐車場の画像を撮ることは出来なかった。というのも、おばあちゃんが椅子に座って休憩していたからだ。肖像権の侵害を犯すわけにはいかないではないか。
おばあちゃんを避けるように車を止めた。
穴師のおばあちゃん
おばあちゃんが、声を掛けてきた。「遠い所から、よう来なさった~。」
私の車のナンバーを見てのことだろう。なかなかの洞察力の持ち主である。
おばあちゃんが、「この神社は、三輪さんより少しだけ古い神社なんよ~。」と続ける。
私は「へー。そうなんですかー。」と答えた。
さらにおばあちゃんは続けて、「この神社は、三輪さんより少しだけ古い神社なんよ~。」
私が「??。へー。そうなんですかー。」
この会話を5回繰り返した。ここまでくると、6回目を期待するのだが、6回目は無かった。
ほんとうに何もなかった。ピタッと会話が終わった。
おばあちゃんは虚空に目を向けていた。会話したことすら忘れてしまったかのように、、、
いやいや、またもや前置きが長くなってしまった。
内参道
参道の入り口。鬱蒼とした林の中に、一筋の光の道。この風景は、そそられる。
かぶさってくるのは紅葉か。晩秋には綺麗に彩づくのだろう。
ちなみに、こちらの手水は、少しく使いずらい。使いにくいのではなく、使いたくないという意味だ。虫やら蜘蛛の巣やらで、、、
祓社
まず最初に祀られるは「祓社」(左側の祠)。
由緒ある神社では、祓戸社とか祓社が入り口付近にあることが多い。ここで身に付いた罪や穢れをお祓いいただいた後に本殿へと向かうのが、神社参拝の習わしなのである。禊祓の代わりとなる。
こちらの祓社の祭神は、大禍津日命・大直毘命・神直毘命の三柱だという情報あり。
その右側の祠は不明ながら、「天一社」という情報あり。祭神は鍛冶の祖神「天目一箇命」であろうか。穴師は製鉄・鍛冶集団の居住地だったと言われている。
本殿域
いよいよ、参道を抜けて本殿域へと入る。
拝殿
薄暗かった参道とは異なり、本殿域は燦然と輝く光の世界である。拝殿・本殿の周囲だけ、天に向かってポッカリと口を開けたようだ。
二拝二拍手一拝。天津祝詞。二拝二拍手一拝。
そよ風が吹き、鳥が鳴く。そして優しい雰囲気に包まれる。ここには女神がいらっしゃるような気がしてきた。
本殿
拝殿の向こうに、三つの本殿が並んでいるのが見える。一瞬、連結?と思ったが、よく見ると独立した3社である。
中央が兵主社、右が若御魂社、左が大兵主社。
この画像ではわからないが、流造に千鳥破風をあしらいつつ、軒先に唐破風を仕立てるという、なかなかもって凝った造りだ。
境内社
本殿エリア周囲の林の中に、いくつかの境内社が鎮座している。
まずは、本殿横から。
出雲大神
本殿の右手に鎮座する特徴的な形状の祠は「出雲大神」。かつては「須佐之男社」と号していたようだから、当然ながら祭神は須佐之男命である。
出雲大社の本殿の真裏に、まるで本殿を守護するかのように鎮座する「素鵞社」と同じ建築様式「大社造」となっている。
稲田姫社・須勢理姫社
この出雲大神の左後ろに白壁に囲まれたエリアがあるのが見えるだろう。ここにも境内社が鎮座するらしい。
- 稲田姫社・・・須佐之男命の妻「櫛稲田姫命」を祀る
- 須勢理姫社・・・須佐之男命の娘で、大国主命の正妻である「須勢理姫命」を祀る
水神社、橘神社、稲荷社
出雲大神の後ろの斜面に3つ並ぶ祠は、左から
- 水神社・・・罔象女神か?(祠は倒壊してしまっている?)
- 橘神社・・・祭神は不明。橘は当社の神紋だが、関係あるか?
- 稲荷社・・・倉稲魂神か?
天王社と、もう一社
本殿の向かい側の斜面に2つの祠がある。
こちらが「天王社」。祭神は不明。牛頭天王だろうか。
この天王社の前の高台にもう一社あるのだが、残念ながら祭神はわからなかったが、こちらもタチバナ社であるという情報あり。
タチバナ社が2社。神紋もタチバナ。こうなるとタチバナと当社には、何か関係があるのかもと思い調べると、、、
垂仁天皇の御代、田道間守という人が天皇の命により常世国(おそらく大陸)へ「非時香菓(ときじくのかくのみ)」をとりに行った。その「非時香菓(ときじくのかくのみ)」が「橘」。
その田道間守は、天日槍の玄孫。繋がった。
タチバナ社の祭神はおそらく「田道間守」で、当社の兵主神とは天日槍をを指すのであろう。
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