大阪城|上町台地の先端は大阪最強のパワースポットだ! 

2017年5月8日

大阪城は、大阪府大阪市中央区大阪城1−1にある日本最大級の城郭である。

現在の天守閣は昭和6年に再建されたもの。高さ54.8m。5層8階の独立型天守で、4層までは「白壁」で「徳川大阪城」をモデルに、最上階は「黒壁」に金細工が映える「豊臣大阪城」をモデルに設計されている。

再建された天守の中では最古のものと聞く。

青空にそそり立つ天守は、天下に号令するにふさわしい威容をもち、強烈なパワーを放つ、まさに天下統一のシンボルである。

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大阪城の地理

上町台地と上町断層パワースポット

上古の大阪平野は河内湾と呼ぶ内海であった。外海と河内湾を隔てるように、南北に細く長く伸びた、大阪市唯一の陸地が上町台地であった。

大阪城の場所は、その「上町台地」の北先端に位置する。すぐ南には、日本最初の本格的な宮殿「難波宮跡」がある。

▼難波宮跡

そしてこの台地の西縁に沿って南は仁徳天皇稜まで伸びる「上町断層」が走っている。

大阪城の場所は、「上町断層」と、台地の東縁に走るもう1本の断層とに挟まれた特別な場所である。もう一か所、ここと同じように、2本の断層に挟まれた特別な場所がある。「住吉大社」だ。

古来より、この上町台地は、北の箕面山からの気の流れ道「龍脈」とされ、大阪城の場所は「龍穴」であると言われている。まさにパワースポットだ。

西日本最大の要衝パワスポットスポッ

古墳時代の後半になると、淀川と大和川によって流れ込む大量の土砂によって陸地面積が増加し、河内湾は次第に小さくなり淡水化して河内湖となり、河内潟となり、新開池と深野池を残すのみとなる。

そのころの大和川は現在のような真西に流れる流路ではなく、南河内からの石川・東除川・西除川を合流しながら、現在の平野川・長瀬川・玉串川・楠根川など幾筋もに分かれ、河内平野を北上し、そのすべてが大阪城あたりで淀川に合流していた。

大阪城のある場所は、大阪を流れるすべての川が集まる場所だったのである。

瀬戸内海から西日本全域さらには大陸への海路の玄関口であり、淀川からは京都・丹後を望み、大和川の分流を使うことで河内全域を押さえつつ、大和国全域へもアクセス可能。

西日本の最大の要衝であった。織田信長がここに拘ったのも頷けるというものだ。

パワースポット「大阪城」

このように、北に箕面の山々、南に上町台地が広がり、東に平野川と生駒山脈、西は淡路島に守られながらも山陽道と瀬戸内海路が広がる。風水的にも最適な場所である。

だからこそ、大阪城の場所は古代より特別な場所と認識されていたのだろう。

  • ヒギハヤヒ尊が降臨した場所として「磐船神社」が鎮座。
  • 国土の守護神、万物生成の神である「生国魂神社」が鎮座。
  • 神功皇后上陸の地。住居の守護神「坐摩神社」が鎮座。
  • 「難波宮」造営の地。
  • 「高津宮」が鎮座。
  • 守屋の邸宅に「元四天王寺」が建立された。
  • 「熊野一之王子」が鎮座
  • 「石山本願寺」が建立された。信長の攻撃に耐え抜いた。
  • 戦略上、信長がどうしても欲しかった場所であった。
  • 豊臣秀吉が「大阪城」を築城し、日本の中心とした。
  • 徳川秀忠が「大阪城」を再建して、西日本の統括とした。
  • 「大阪府合同庁舎」など大阪府行政の中心地である。

高層ビルに遮られた大阪城パワースポット

最近の大阪は元気がないといわれる。その理由の一つとして、「大阪城の北側に”大阪ビジネスパーク”とう高層ビル群が建設されたためではないか」と真しやかに囁かれている。そう。龍脈を高いビルの壁で遮ってしまったからだと。。。

豊臣秀吉は、大阪城築城のために「生国魂神社」「坐摩神社」「高津宮」など、古来よりの神聖なる社を移設した。これが豊臣政権を短命にしたのでは?とも。。。

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大阪城の歴史

かつて大阪は「大坂」と書いた。ここには小高い丘があったためだ。しかし、坂は「土に返る」と読めるので不吉とし、現在の「大阪」に変更したと聞く。

中世の大阪城に関する記述部分のみ、「大坂」と表記させていただく。

石山本願寺時代

先にも述べたが、この場所には石山本願寺が建立された。石山本願寺はもちろん寺院なのだが、その構造はまさしく城そのもの。

堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に「寺内町」が形成されていたと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか摂州第一の名城」と言われるほどになり、「石山本願寺城」「大坂城」とも通称されるようになっていた。

この立地に目を付けた信長勢の攻撃を10年に渡って凌ぎ切ったのは、大坂城のパワーに寄るところも大きかったであろう。

豊臣時代の大坂城

信長亡き後、天下を狙う豊臣秀吉にとっても、この立地は魅力的であった。得意の交渉術で大坂の地を手に入れることに成功した。

1583年、大坂城の築城を開始。黒田官兵衛の縄張りであった。完成後も15年に渡って拡張を図り、難攻不落の巨大な城郭を築き上げた。風水を取り入れ、万全の構えである。

当時の城は一般的に黒壁であった。大坂城も黒壁である。黒い壁に金箔で虎や白鷺が描かれていた。最上階は黄金の茶室。いかにも派手好みの秀吉らしく、豪華絢爛な城であったと伝わる。

大阪が商業の町として飛躍的に発展したのは、まさしく豊臣時代であり、大阪人の奥深くには秀吉の精神が今もなお息づいているのである。

徳川時代の大坂城 パワースポット

大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。その後、1620年、徳川秀忠は徳川将軍家の権力を見せつけるために、豊臣の築いた大坂城を破却し、盛土を施して豊臣大坂城を地中深くに埋め込み、その上に徳川の大阪城を築いた。

天守閣は豊臣時代よりも大きく造られたが、城郭全体としては豊臣時代の4分の1の規模であった。大坂は幕府の直轄地となり、城主は徳川将軍が兼ねたが常駐はせず、譜代大名が城代として選抜され赴任した。

赴任した城代が必ず参拝した神社が、堀越神社の境内摂社「茶臼山稲荷神社」である。

1655年の落雷で天守は焼失し、以降、昭和まで再建されることはなかった。また、明治維新の動乱により、場内の建築物はことごとく焼失した。

このように、徳川の大坂城の地下に豊臣の大坂城が眠っている事実と、大阪人の秀吉を懐かしむ心情と、徳川=江戸への対抗心とが相まって、「プリンセストヨトミ」なる物語が生まれるのである。

近代の大阪城 パワースポット パ ワースポット

明治に入ると、大阪城外堀の東側に大阪砲兵工廠が建設された。アジア最大の武器の製造工場だ。

荒廃した大阪城跡については、昭和に入り天守の復興をはじめとする公園化計画が提案され、昭和6年に「復興天守」が完成した。と同時に本丸には「第4師団司令部庁舎」も竣工。

市民からの募金150万円がつぎ込まれた復興天守は、基本的には徳川時代の天守を模しているが、最上層だけは豊臣時代の様式を採用している。

大阪城は公園施設という側面と、城としての本来の機能である「軍事施設」としての側面を併せ持つことになる。

その間、大阪砲兵工廠は拡張を続け、現在の大坂城ホール、ビジネスパーク、大阪城公園、太陽の広場、市民の森、JR森ノ宮車庫や森ノ宮団地あたりまでの広大な敷地となっていた。

太平洋戦争末期には、米軍の空襲の標的となり大勢の軍人や民間人が犠牲となったときく。