将門塚|東京千代田区|日本三大怨霊の一人である将門公は、関東一円を守護する神でもある。

2019年6月24日

東京都千代田区大手町、皇居大手門の少し北。高層ビルが立ち並ぶビジネス街の一角に、まるで洞窟の様にポッカリと口を開いた、少し薄暗い空間が存在する。

そこに、平将門公の首塚「将門塚」がある。

神田明神に祀られる、関東地方の守護神となった「将門公」であるが、その実、日本三大怨霊の一人とされる、極めて恐ろしい「祟り神」でもある。

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将門塚について

日本三大怨霊

崇徳天皇、平将門公、菅原道真公をもって、日本三大怨霊とよぶ。

どの怨霊もその起源は平安時代に遡る。天皇の後継闘争や、時の権力者の排他的陰謀によって、陥れられ、憤死した人たちである。

よって、祟りの鉾先は天皇家であり貴族であるのだが、そこは恐ろしい祟り神である。我々民間人も、神前においては、著しく礼を失するようなふるまいを固く慎むべきである。

そのために引き起こされた悲劇のいくつかを後ほどご紹介しよう。

平将門公

平安中期(900年代前半)に活躍した関東地方の豪族である。父は鎮守府将軍「平良将」。平安京初代天皇「桓武天皇」の5世孫という名門の血筋を引く。今の千葉県佐倉市の出身ではないかと言われている。

15歳の頃に京に出仕。中央の登用システムに疑問を抱き、関東に帰ることになる。失望したシステムとは、「家系主義と収賄」いわゆる「コネとカネ」であったであろうことは想像に難くない。

その後、平将門の乱を引き起こすわけだが、これを京都で出世できなかったことの恨みをはらすためなどと期されている文献もあるが、それはないだろう。

一族の争いの調停を頼まれる中で、武門に長けていたがために次第に争いの中心に入ってしまい、引くに引けなくなったのではないだろうか。

極めて正義感の強い男だったと思う。弱きを助け強きを挫く、親分肌。

一族の争いまでならよかったのだが、「悪者」となれば相手を選ばず誅する性格。こともあろうか国府を落としてしまう。国府は中央の出先機関であり、朝廷側の人間である。

すなわち、朝廷に刃を向けてしまったのだ。ここで遂に朝敵となってしまうのである。こうなると仕方がない。自らを「新皇」と称して、関東に独立国を立ち上げるに至る。

これもやむを得ない選択だったのだろう。

当然ながら朝廷側は将門征伐軍を組織し関東へと派兵する。しかし戦上手な将門には歯が立たない。

そこで寺社に調伏の祈祷を行わせた。その中に後の成田山新勝寺の本尊となる「不動明王」がある。成田山新勝寺はこの祈祷が開山の由来である。

さて、将門最後の戦である。風上をとった将門勢は矢戦を選択。風に乗せて雨のように矢を射かけ、朝廷軍を圧倒する。勝ちが見えたところで、余裕で自陣に引き上げることにした。その時である。急に風向きが変わり風下となってしまったではないか。

敵は息を吹き返したように、矢を射かけてきた。一度退却しかけた軍は、すぐには臨戦態勢をとれないものだ。押されに押されて、とうとう1本の流れ矢が将門公の額に命中。あえなく討ち死にした。

この話、蘇我氏&聖徳太子軍と物部守屋公の戦に似てはしないだろうか。。。

将門塚の創建

打ち取られた将門の首は今日の都へと運ばれ、鴨川の七条河原にさらされた。その首は何か月たっても腐らず、ある夜、自らの胴体を求めて東の方角に飛び去ったという。

そしてその首は「武蔵国豊嶋郡芝崎村」(現:大手前)に飛来したとされる。

この地には、古くから「神田ノ宮」(現:神田明神)が鎮座されており、その傍らに塚が築かれ、縁のある者たちの手により埋葬された。石室が設けてあったようである。

しかし、それ以降、この地の住民は怨霊に苦しめられたという。

1307年、他阿真教が「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、首塚に板碑を建立。さらに、天台宗日輪寺を時宗に改宗。時を同じくして将門公は「神田ノ宮(神田明神)」に相殿神として祀られる。

江戸時代、神田明神は神田台を経て現在地に遷座、日輪寺は浅草へと移転したが、それ以降も現在まで神田明神の別当として将門信仰を支えてきた。

一方、首塚はというと、関東大震災によって倒壊。その跡地を整理して大蔵省仮庁舎を建設することになるのだが、、、

将門塚にまつわる伝説

将門塚は、現在でも祟りを畏れて粗末に扱わないよう注意が払われている。その恐ろしい祟りの例をあげると、、、

1923年。関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建のため、首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなった。庁舎内でも多くの職員が怪我をしたという。
「将門塚」を荒らしたための祟りであるという噂が流れ、大蔵省は庁舎を一部撤去して「将門塚」を再建した。

1940年。雷による火災で大蔵省の庁舎が全焼。「首塚をおろそかにしているから」という声が再びあがり、大蔵省は再び将門のための鎮魂祭がおこなわれる。

1945年。戦後になりGHQが駐車場にするべく「将門塚」を取り壊し始めたところ、ブルドーザーが横転し作業員が亡くなったことから工事を中止した。

高度成長期に入ると、、、

1961年。首塚の一部が売却され、その地に建ったビルに入った「日本長期信用銀行」の「将門塚」に面した席に座っていた行員が次々に病気になる事態が発生。
その後、1994年には内幸町本社ビルが完成して転出するも、1998年に経営破たん。2年後の2000年に整理売却され消滅。

1994年。そのあとにプロミスが入居。急成長を遂げるも、2012年に上場廃止し「SMFG」の完全子会社となり「SMBCコンシューマーファイナンス株式会社」と名称変更。プロミスは実質上の消滅。2013年、「SMBCコンシューマーファイナンス株式会社」は、大手町から銀座へ転出。

現在、2016年より行われている再開発の工事中だが、祟りを畏れてか、「将門塚」には手をつけていないようだ。

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将門塚 参拝記録

東京駅から徒歩で15分程度、最寄りの駅は、地下鉄半蔵門線か千代田線の大手町駅だろう。

今回私は、丸の内の「東京国際フォーラム」から徒歩で参拝しようと思う。

かつて、このあたりは日比谷入江。徳川時代に大規模な埋め立てが行われ、大名屋敷が立ち並んだという。

しかしこの場所に「神田ノ宮」があったとするならば、この周辺は古代よりの陸地であったはずだ。などと、考えながら、レンガ造りの三菱一号館美術館を社屋を眺めつつ、東京駅から丸の内を通り抜け大手町へと歩を進める。

 

明治に入ると、大手町は省庁の庁舎が建設され官庁街となる。その一つが先に述べた大蔵省だ。

戦後の15950年代、各省庁は霞が関に集約されたため、大手町の広大な敷地は民間に払い下げとなり、オフィス欺留が乱立。隣の丸の内と並ぶ日本経済の中心へと変貌を遂げていくのだ。

ついた。

2017年現在、再開発が行われているため周囲に高層ビルは無い。日差しを遮るものがない。従って、明るいのである。普通なら三方をオフィスビルに囲まれた薄暗い場所なのだが。。。

保存会の方々のご尽力によって、常に美しく保たれた聖域である。この階段を上る瞬間、背筋に緊張が走るのは何故だろうか。

板碑である。この「南無阿弥佛」の文字は、発掘された他阿真教の板碑の拓本からとったという。

供えられているすべての献花が真新しく、毎日取り換えられているようだ。大切にされている様子が手に取るようにわかる。

さて、階段付近の緊張感から一転し、こちらの塚の前は、そのような雰囲気はない。安心して参拝頂きたい。

 

さて、将門公の祟り。信じる人、信じない人、様々だろう。

そんなことはどうでもよいと思う。このような参拝を、自分自信の生き方を振り返る「機会」にすればいいと思っている。全面的に反省しかないのだが、、、

忙しい毎日。振り返ることもなく前を向いて突き進むのみという日常から少し距離を置いて、関東最強のパワースポットと呼び声高い「将門塚」で、祈りを捧げてみてはいかがだろうか。

祟り神ではない、優しい側面を感じさせてくれるだろう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!