岡ミサンザイ古墳|仲哀天皇陵|世界文化遺産
岡ミサンザイ古墳は、大阪府藤井寺市にある前方後円墳。
世界文化遺産に登録された、羽曳野市・藤井寺市・松原市にかけて散在する古墳群であるところの「古市古墳群」の中でも、応神天皇陵・仲姫命陵に次ぐ大きさ。全国でも16位の大きさという。
被葬者は明らかになっていないが、宮内庁は14代仲哀天皇陵として管理している。
岡ミサンザイ古墳について
岡ミサンザイ古墳 概要
- 所在地 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目12−16
- 主祭神 仲哀天皇(伝)
- 創建年 5世紀末
岡ミサンザイ古墳 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄南大阪線「藤井寺駅」徒歩20分
駐車場
- なし
岡ミサンザイ古墳の造営年代
葺石がないこと、横穴式石室を持つこと、出土した埴輪などから、5世紀末頃(古墳時代中期)の造営と推定されるらしい。
岡ミサンザイ古墳の規模
- 墳丘長・・・245メートル
- 後円部
- 直径:150メートル
- 高さ:20メートル
- 前方部
- 幅:180メートル
- 高さ:16.6メートル
岡ミサンザイ古墳の被葬者
仲哀天皇説の妥当性は?
古事記によると、仲哀天皇の御陵は「河内国の恵我之長江」とあり、日本書紀には「長野陵」とある。さらに延喜式には「河内国志紀郡の恵我長野西陵」とある。
これらが前提にあってのことであろう。
幕末の戸田氏による山稜修補においても、ここを仲哀天皇陵に治定した。
それを踏襲する形で、宮内庁も14代仲哀天皇陵に治定したのだが、、、
科学の発展に伴い造営時期の推定精度が高まった現代、この古墳の造営時期は5世紀末と判明した。
ところが仲哀天皇は、西暦200年頃の崩御と推定される。造営時期と合わないのだ。
もちろん、一旦、下関の豊浦宮で喪(もがり)を行い埋葬され、しかるのちに巨大古墳を造営して埋葬しなおしたということも考えられようが、その”しかるのち”が300年後というのは非現実的であろう。
さらに、そもそも仲哀天皇の実在性はかなり薄いという。
雄略天皇説
さて、5世紀末頃に造営された古墳は、5世紀前期のものと比べて、かなり小規模なものが多いらしいが、岡ミサンザイ古墳は5世紀末造営の古墳の中では突出した規模を誇るという。
すなわち、5世紀末頃の強大な大王の古墳である可能性が高く、21代雄略天皇が被葬者ではないかとする説が有力視されている。
雄略天皇は実在性が高く、5世紀末に活躍した天皇なので時期的にも合うからだ。
21代雄略天皇は、中国の歴史書に登場する「倭の五王」の最後の王「倭武王」と同一とも言われているほど、強大な権力を持った天皇であった可能性が高いから、巨大古墳に埋葬されるに値する大王である、とうことだ。
倭の五王とは、、、
古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武をいう。これを日本の歴代天皇に当てはめる試みがなされ、一般的には次の通りとなるらしい。
- 「讃」→17代履中天皇
- 「珍」→18代反正天皇
- 「済」→19代允恭天皇
- 「興」→20代安康天皇
- 「武」→21代雄略天皇
岡ミサンザイ古墳 訪問記録
近鉄南大阪線の藤井寺駅から南方向に、葛井寺→辛国神社→岡ミサンザイ古墳の順に並んでいる。この順に歩くと、1.4kmほどの行程である。
拝所前まで車で入ることは出来ない。駐車場もない。
古墳の西南角の手前にコインパーキングがあるので、そちらを利用されることをお勧めする。
さて、コインパーキングに駐車して、酒屋さんの角を東に入って歩いていく。
すると、前方部の西南角に出る。
先ほどの航空写真をご覧いただいてもお分かりの通り、周濠の幅が広い。
しばらく玉砂利の道を歩くと、ほどなく拝所が見えてくる。
拝所の様子
ここが前方部の中央だ。
訪れる人はほとんどいない。
時折、散歩のご老人が通り過ぎるが、彼らには日常の風景なのだろう。見向きもしない。
「仲哀天皇恵我長野西陵」と刻まれた文字が虚しく見えるのは気のせいだろうか。。。
二拝二拍手一拝。
宮内庁がキチンと管理してくれているので、非常に美しく保たれている。
東面
前方部の南東角である。周濠の先、遠くにうっすらと生駒山が見える。その右側、赤い屋根の上に見えるのは高安山。
高安山の方が高く見える。中河内から見ると、生駒山の方が圧倒的に高く見えるのだが、見る場所が違うと見え方も違うのだ。
高安山に神聖さを見た古代人の気持ちが少しわかったような気がする。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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