御田八幡神社|三田|勝運の神と出世の神。ビジネス戦士が訪れたい神社である。
御田八幡神社は、東京都港区三田に鎮座する、約1300年の歴史を誇る古社で、延喜式神名帳に掲載されている「式内小社・薭田神社」の論社に上がる。
亀塚公園のある丘陵地帯から、かつての海岸線を通る東海道(第一京浜)へと急激に落ちる崖の中腹に鎮座している。
しかるに、ここだけが東京都港区のイメージとはかけ離れた自然豊かなエリアとなっていて、境内のベンチで読書や休憩する人たちが散見される、まさに都会のオアシスだ。
御田八幡神社について
御田八幡神社 概要
- 所在地 東京都港区三田3-7-16
- 電話番号 03-3451-4687
- 主祭神 誉田別命
- 創建年 709年
- 社格 式内社(論)・郷社
- 公式HP http://mitahachiman.net/index.html
MAP
最寄り駅
- JR山手線「田町駅」徒歩10分
- 地下鉄浅草線・三田線「三田駅」徒歩8分
- 地下鉄浅草線「泉岳寺」徒歩5分
御田八幡神社の祭神
誉田別命
15代応神天皇である。歴史家の中では「実在する可能性が高い最初の天皇」などと言われている。私としては、実在したかしなかったかは、さほど重要なことではないのだが。
両親は14代仲哀天皇と神功皇后。しかし、仲哀天皇の崩御と応神天皇の誕生との時間的整合性について議論あり、仲哀天皇の御子ではないという説がある。
もっと言えば、大臣である武内宿禰との間の子ではないかなどと、下衆なことをいう輩までいるが、そんなことは放っておこう。
誉田「ほむた」=鞆(とも)は、弓で矢を射るときに腕にはめる武具。
生まれた時から腕に「ほむた」のような盛り上がりがあったことから、「ほむたわけ」と命名されたとか。
生まれながらにして「武」の神であったと言われる由縁である。
武内宿禰命
記紀によると、12代景行天皇からはじまり、16代仁徳天皇までの、なんと5代にわたって仕えた大臣である。
推定300歳を超える、とんでもない大長寿ということになる。役職名なのでは?とか、実在しない天皇に仕えた実在しない大臣だ!などと、いろいろと推察されているが、私は、そんなことは構わないのである。
300歳の方が神秘的でいいと思うのである。
歴史上最初の「沙庭」において、神が懸った神功皇后から神託を聞き取る役目(審神者)を担当した神秘的な人だからである。
武内宿禰の子息たちは、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など、上古に活躍した錚々たる氏族の祖となる、これまたとんでもない権力者でもある。
天児屋根命
美声の持ち主で、天の岩戸神話では天照大神を誘い出す祝詞を奏上。いわば、神職の祖神とも言える存在。
祭祀氏族である中臣氏(藤原氏)の祖神とされる。
本来は春日神社などの藤原氏の氏神社に祀られるべき神である。こちらに祀られている経緯はわからない。春日信仰が盛んな頃に勧請されたか、近隣からの合祀だろうか。
御田八幡神社の創建
709年(和銅2年)というから、平城京遷都の1年前、古事記完成の3年前のこと。
牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神として創祀されたのが始まりといい、延喜式内「薭田神社」と伝わる。
綱八幡として遷座
その後、1011年(寛弘8年)すなわち紫式部や和泉式部が活躍したころのこと。
武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座。嵯峨源氏「渡辺一党」の氏神として尊崇された。渡辺党と言えば「渡辺綱」ゆえに「綱八幡」と称されたという。
たしか、渡辺綱(わたなべのつな)は武蔵国箕田(みた)の出身で、「箕田綱」を名乗っていた時期があったはずだ。
「綱」自身は京へ上ったが、その箕田一族すなわち渡辺一族がこのあたりに本拠を構えたのだろう。
再びの遷座から近代へ
江戸初期の1619年(元和5年)、快尊が占いによって現社地を指定し社殿の造営を開始。寛永五年(1628)8月に遷座した。
明治2年9月、式内に見える「稗田神社」の社号を称したが、明治7年1月に三田八幡神社と改称。さらに、明治30年4月には「三田」を旧名であるところの「御田」に復して「御田八幡神社」と称号するに至る。
御田八幡神社のご利益
誉田別命のご神徳より、武運長久のご利益を頂く。
そして、武内宿禰命からは、やはり健康長寿であろう。また学業向上のご利益も頂けよう。
天児屋根命からは、発展発達系のご利益、すなわち、商売繁盛、出世開運のご利益を期待したい。
御田八幡神社 参拝記録
今日は芝浦で新規の商談だ。初めて山手線の田町駅で下車した。新規商談がある時は、出来るだけ氏神様を参拝し、ご挨拶申し上げることにしている。
気のせいかもしれないが、そのほうが商談がうまくいくのである。
芝浦の氏神様が御田八幡神社であることを知った私は、はやる心を押さえつつ第一京浜を歩くのである。
品川方面に向かって歩いていくと、鳥居が見えてきた。
御田八幡神社の鳥居と社標
鳥居をくぐると、周囲の喧騒もウソのよな静けさである。
御田八幡神社の石段
緑に囲まれた中、神前へと進む石段がある。正面が男坂で、右側の折れ曲がった石段が女坂。
一段一段、登るごとに静けさが増す。
御田八幡神社の拝殿
木造の拝殿である。拝殿の後ろは森。本当にここは港区なのだろうか。。。
正面から撮影すると、磨き上げられた硝子に、私がきれいに映り込む。よって斜めからの撮影となった。
二拝二拍手一拝。背中から風が吹いてくる。神社の風は神聖だ。神の息なのである。
御田八幡神社 末社2社
拝殿の左手に、末社が2社あるようで、鳥居が二基(朱色と白木)並んでいる。
五光稲荷神社と御嶽神社
鳥居は別々なのだが、社殿は合殿。珍しい。
左が「五光稲荷神社」。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまの神)。食物を司る神で、五穀豊穣や商売繁盛を願い人々の信仰を集める。
右が「御嶽神社」。祭神はというと、おそらくは、国常立尊・大己貴命・少彦名命。あるいは、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神も祀られていようか。
怪しい祠
この御嶽神社と本殿の間の奥に、朽ちかけた鳥居、多数の狐が並べられた石祠があった。おそらくは稲荷社だろう。
あまりにも暗く陰気な、そしてその空気が祠の回りを渦を巻いているような、なんとも言えない雰囲気があり、近づくことが出来なかった。
もちろん、撮影なども出来るはずもなく。出来れば、発見したくなかった。。。
たま~に、このように、境内にありながらも管理されず、撤去もされずに放置されているような祠を見ることがある。いったいこれは、どういうシステムなのだろうか。。。
お滝
拝殿前へと上る石段の脇に、お滝が設置されていた。江戸時代の絵図にも描かれているため、昔からあるようだ。
こちらも、あまり清掃されていないようで、枯れ草などが滝口の網に引っかかっていたり、池の底には黒いヘドロが。。。
しかし、金魚や亀が気持ちよさそうに泳いでいるので、それはそれで良しなのだ。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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