玉造稲荷神社|家内安全・縁結び・夫婦円満・金運・商売繁盛!上町台地に存在する聖地だ!

2017年1月16日

玉造稲荷神社は、大阪市中央区玉造にある神社である。かつてこの地域一帯には、勾玉を製造する難波玉造部が住居していたがゆえに玉造という地名になったと聞く。

大阪城本丸から南に1km。当時、ここは大阪城の三の丸であった。さらに500m南下したところには、真田丸跡や宰相山公園がある。

当社の東と南側は急峻な崖になっていたらしい。江戸期に東横堀川の土砂を大量に運んで緩斜面にしたが、正面の鳥居付近にはその痕跡が残っている。

ということは断層があるはずだ。調べてみるとやはり。。。上町台地の東側に南北に通る断層の崖上にひっかるように鎮座していることがわかった。

よって、おそらくは太古の昔、ここ玉造稲荷神社のある場所は河内湖に面した高台、すなわち灯台のような立地であったと思われる。

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玉造稲荷神社について

玉造稲荷神社 概要

  • 所在地   大阪府大阪市中央区玉造2丁目3−8
  • 電話番号  06-6941-3821
  • 主祭神  宇迦之御魂神
  • 創建年     伝・垂仁天皇18年
  • 社格   府社
  • 公式HP    https://www.inari.or.jp/

玉造稲荷神社 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR・地下鉄「森ノ宮駅」徒歩10分
  • JR・地下鉄「玉造駅」徒歩12分

駐車場

  • あり(無料) 境内の西側から進入。工場の駐車場の奥にあり。

玉造稲荷神社の創建

社伝によると、

垂仁天皇18年(紀元前12年)の創祀という。当初は「比売社」と呼ばれていた。

比売は「下照比売命」のことか、「豊受姫命」のことなのか。はたまた「宇迦之御魂大神」だったのか。。。

しかし、あまり宇迦之御魂大神を「比売」とは表現しないと思われるし、、、

2つの元四天王寺

さて、時は流れて、蘇我氏VS物部氏の争乱の際には、蘇我氏軍に所属していた聖徳太子が、物部軍最後の砦である難波邸を攻めるべくここに布陣

そして戦勝祈願を行う。なんと、崇仏派とされている聖徳太子が、神道の神に祈願したのだ。そして戦勝後、この地に観音堂を建立したという。

これを元四天王寺とする説がある。

同じく元四天王寺を主張する神社がある。鵲森宮だ。当社から北東に400mの地点、JR森ノ宮駅近くに鎮座する。

そして、この2社は一体だったとする説も。さらには元四天王寺=神社も含めて、広大な神宮であったとも。なんとも、ややこしい。

四天王寺の正面は南向きであるが、鳥居が西向きに存在する。玉造稲荷神社も南向きの社殿であるが西側にも鳥居を設けていた。鵲森宮も同様である。

また、四天王寺と玉造稲荷神社には亀池があり、鵲森宮には亀の井がある。

そして、玉造稲荷神社と鵲森宮の稲荷社の祭神は、どりらもかつては五幸稲荷大明神と言われ、さらにいずれも伏見稲荷大社の分霊ではなくそれ以前の稲荷大神であるとしている。

ここまでの一致があるだろうか。

私の妄想が始まる。

河内国渋川の物部宗家本拠を撃破した蘇我軍は、物部最後の砦である河内湖畔の「守屋の宮」に迫った。蘇我軍の一員である聖徳太子は小高い丘にある「比売社」の境内に陣を敷く。「守屋の宮」を見下ろす絶好の軍事拠点である。

ここで「比売神」に戦勝祈願を行う。栗の白木の箸から枝葉が生えてきた!吉兆じゃ!

一斉に丘を駆け下り「守屋の宮」を襲う。物部勢は既に総大将の守屋公を失っており、さほどの抵抗力も残っていなかった。ほどなく戦は終わる。

聖徳太子は、戦勝成就御礼と敵味方の戦没者を祀るための神社を創建することにした。

「守屋の宮」(もりやのみや)には「森の宮」(もりのみや)を新たに創建。戦勝祈願の祭祀を行った当社と「森の宮」の間に、後に元四天王寺と呼ばれる壮大な神宮を創建するのである。。。城南公園あたりだろうか。。。

こういう勝手な想像が楽しいのだ。フィクションである。悪しからず。

玉造稲荷神社の祭神

主祭神は、宇迦之御魂大神。配神に、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を祀る。

宇迦之御魂大神(うがのみたま)

素戔嗚尊と、大山祇大神の娘である神大市比売との間に生まれた御子にして、大歳神の妹とされる。食物を司る神稲荷大神とも呼ばれる。後年、保食神・オオゲツヒメ神・豊受大神など、他の食物を司る神と同一神とされるようになった。

伏見稲荷大社の主祭神として有名であるが、秦氏の氏神である伏見稲荷大社の創建以前から祀られているため、江戸期には五幸稲荷大明神と呼ばれ「元稲荷」と称された。

下照姫命(したてるひめ)

記紀あるいは本紀によると、総じて大国主命と多紀理毘売命の間に生まれた娘とされている。多紀理毘売命は宗像三神の一柱である。国や家庭、事業の安泰を司る神として祀られている。

様々な説があるようだ。

記紀は、卑弥呼を原像として、天上界では天照として描き下界においては下照姫としたという説。市杵島姫、罔象女神などの水の神とする説などなど。

稚日女命(わかひるめ)

天照大神の妹とも、天照大神の幼名とも。神名は「若く瑞々しい日の女神」という意味である。神戸の生田神社の祭神である。身体の創生ならびに精神の安定を司る神としよう。

月読命(つくよみ)

三貴子のうちの一人。三貴子とは伊弉諾尊が黄泉の国から帰還したときの「禊祓」で最後に生まれた三柱の神で、天照大神が姉、素戔嗚尊が弟にあたる。

月を司る神・暦の神とされる。記紀にはあまり登場しない、どちらかというと馴染みのない神である。古くから生活に密着した神として崇敬されてきたらしい。

軻偶突智命(かぐつち)

火産霊(ほむすび)とも言われる。火の神である。伊弉諾尊と伊弉冉尊の神産み神話の終盤、この軻偶突智命を産んだ時に陰部に大やけどを負い、これが原因で伊弉冉命は死んでしまう。

金銀財宝の守護、金運、招福、鎮火、防火の神として、また縁結び夫婦和合にもご利益がある

玉造稲荷神社のご利益

稲荷神社のご利益と言えば、商売繁昌・事業発展・家内安泰・子孫繁栄である。

豊臣秀吉は大阪城築城にあたり、由緒正しき「生國魂神社」や「坐摩神社」など宮中においても重要視されていた大社を城外に遷座させているにもかかわらず、この玉造稲荷神社は城内三の丸に留め置いているのだ。

商業の発展とともに豊臣家は栄えるが、後継者問題いわゆる子宝に悩む豊臣秀吉が、この玉造稲荷神社のご利益を頂こうと厚く信仰したというのも納得である。

あた、博多の下照姫神社では縁結びの神として祀られている。

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玉造稲荷神社 参拝記録

電車でアプローチされる場合は、地下鉄鶴見緑地線の玉造駅が最も近いと思う。JR森之宮駅からでもさほど遠くはないだろう。

森ノ宮駅から、鵲森宮を参拝したのちに玉造稲荷神社を参拝し、その後に真田丸や三光神社を訪問されるのが良いかと思う。

車でアプローチされる場合は、玉造通りにあるロイヤルホームセンターのある交差点を西に入り道なりに進めば、玉造稲荷神社の南側で出るだろう。

ここで駐車場が気になる所かと思う。南側の正面玄関を通り過ぎ、境内沿いに西側に回り込もう。道際に看板が立っているので、そこから進入する。

一般企業の倉庫のような雰囲気なので、少し心配になるのだが大丈夫だ。奥に駐車場がある。無料だ。屋根付きの駐車場もあるが、おそらく一般企業の駐車場と思われるので、そこには止めないでおいた方が無難であろう。

玉造岡と書かれてある。古代、ここは玉造部が居住していた地域であったため「玉造岡」と名付けられたという。ことは前述したような気がする。。。

拝殿

1月6日の午後2時は、こんな感じ。夕方の雰囲気である。中の画像は無いが、絢爛豪華かつ荘厳な雰囲気を醸し出している。太閤さんの影響だろうか。

吽形の狛犬のそばに、勾玉が設えてある。

子宝のパワースポット なで子持ち勾玉

石柱の上に、勾玉の形をした石がある。これに触れながら祈願すると、「子孫繁栄」「子授け」「芸能向上」にご利益があるとされている。実は、勾玉は「胎児」の姿に似ている。ゆえに、子授け・子孫繁栄としての信仰を集めることになったのだそう。

阿形の狛犬の手前には、絵馬掛けがある。

縁結びのパワースポット 恋キツネ

二匹の、おそらくは男女のキツネが顔を寄せ合っており、真ん中がハート型にくりぬかれている斬新なデザイン。

ご祭神の一柱「軻偶突智命」は火の神である。またの名を「火産霊神」(ほむすび)という。

炎のように燃え上がる恋。そして「結ばれる」のだ。さらに、キツネはペアになると一生その相手を変えない動物らしい。私は変えたのだが。。。それはどうでもよい。

縁結び、恋愛成就、夫婦円満のご利益がある。

失礼ながら絵馬の裏をいくつか拝見させていただいた。なかなか微笑ましい内容が書かれてある。うーん。おじさんは、こういうのを読んで昔を懐かしみ、癒されるのである。

ちなみに、ここから伊勢の神宮まで約170kmのようである。何故、こんな表示があるのろうか。実は、この玉造稲荷神社は、大阪以西の人々の伊勢参りの起点となっていたのだとのこと。

玉造稲荷神社の末社

厳島神社

画像が汚くて申し訳ない。こちらが厳島神社である。祭神は「市杵島姫命」という女神である。

市杵島姫命

素戔嗚尊と天照大神の誓約で生まれた三女神の長女である。大変な美人で弁財天と習合した女神だ。航海あるいは陸上交通安全の神とされたり、芸能の神美容の神としても信仰を集めている。

この神社は池の上にある。この池を「白龍池」という。白龍が観音さんを乗せて現れた池らしい。雨乞いに霊験あらたかとされる。そして、この池が別名「亀池」らしいのだ。

この社の前に立つと身震いし、緊張感が走る。他の末社とは異なる独特な雰囲気を持った末社だ。

さて、隣に鎮座するのが「万慶稲荷神社」「新山稲荷神社」である。

万慶稲荷神社・新山稲荷神社

万慶稲荷神社(まんけんいなりじんじゃ)

手前の社が、万慶稲荷神社だ。

徳川時代の大坂城内各屋敷に祀られていた多くの稲荷神を、当神社境内に一社に集め、享保年間に遷座された。

祭神は宇迦之御魂神(うがのみたまのおおかみ)である。

新山稲荷神社(しんやまいなりじんじゃ)

寛政11年、当時の大坂城代・松平輝和候により祀られていた社である。城代屋敷であった天王寺区清水谷東之町(現:大阪府立清水谷高校)に鎮座していたが、明治40年こちらに遷座合祀することになった。

こちらも、祭神は宇迦之御魂神(うがのみたまのおおかみ)である。

豊臣秀頼公胞衣塚大明神

ここ胞衣塚には、豊臣秀頼公と母・淀殿を結ぶ卵膜・胎盤などの胞衣(えな/よな)が鎮まっている。玉造の地を数々遷座したが、地元の政・財・文化界有志により、大坂城鎮守神である当神社へ鎮座されたらしい。

「子の悩み」や「夜泣き」に霊験あらたかとされる。

縁のひも

鳥居の右に「縁のひも」が、豊臣の家紋「五七の桐」を型どった「縁のひも掛け」に結ばれてある。

「縁」には家族の縁、親子の縁、男女の縁、主従の縁、仕事の縁など様々存在する。

「縁のひも」は豊臣秀頼公に仕えた真田幸村ゆかりの「真田紐」で作られている。そこに願いを書き込み、「縁のひも掛け」に結んで祈願するというわけだ。

秀頼公奉納の鳥居

その横には、上半分の鳥居が。。。大量の火山灰で埋もれてしまった鳥居か、大洪水で土砂に埋まってしまったのか。。。

ではなく、阪神淡路大震災の時に崩れたものを、復元したものらしい。わざわざ復元するほどの価値のあるものなのだろうか。

あるんです。

これは、豊臣秀頼公が奉納した鳥居なのである。大阪の石製鳥居としては四天王寺の鳥居と共に400年以上の歴史がある古いものだ。

最後に

仁徳天皇が造営したとされる難波宮跡から断層に沿ってパワーが流れ込む玉造稲荷神社。比較的小さな境内ではあるが、凝縮された濃密な時間を過ごすことができる、いい場所である。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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