御霊神社|奈良|ならまちに鎮座する ”縁結び” の決定版

御霊神社は、奈良県奈良市薬師堂町に鎮座する神社。
ここは、古い町並みが残る「ならまち」エリアのど真ん中。周辺には「ならまち格子の家」や「ならまち資料館」などの観光・見学スポットも多数ある。
境内は狭いのだが、立派な社殿の存在感に圧倒され、狭さを感じさせない。また、いくつかある境内社も綺麗に整えられていて、清潔感を感じるいい神社である。
昨今は、境内社「出世稲荷」に縁結びのご利益があるとのことで有名だ。
がしかし、この境内に足を踏み入れる以上、本来の御霊神社としての歴史も理解した上で参拝する必要があると考えるのは、私だけであろうか。
なお、御霊神社は各地に存在するため、ここでは便宜上「ならまち御霊神社」とする。
ならまち御霊神社について
ならまち御霊神社 概要
- 所在地 奈良市薬師堂町24番地
- 電話番号 0742-23-5609
- 主祭神 井上皇后・他戸親王・事代主神 他
- 創建年 延暦19年(800年)
- 社格 村社
- 公式HP https://naramachigoryojinja.amebaownd.com/
ならまち御霊神社のアクセス
MAP
最寄り駅
- JR万葉まほろば線「京終駅」 徒歩10分
- 近鉄奈良線「近鉄奈良駅」 徒歩15分
- JR大和路線「奈良駅」 徒歩20分
ちなみに、近隣の観光スポットからだと、、、
- 元興寺・・・徒歩5分
- 猿沢池・・・徒歩7分
- 興福寺・・・徒歩11分
- 氷室神社・・・徒歩18分
- 東大寺南大門・・・徒歩25分
- 春日大社本殿・・・徒歩27分
車でのアクセス・駐車場
- 神社周辺の道路は極狭。
- 駐車場なし。
近隣のコインパーキングをご利用をお勧めする。
ならまち御霊神社の創建と歴史
御霊社造営計画
784年、桓武天皇は奈良仏教勢力の影響力を嫌って長岡京に遷都した。しかし、天災・疫病・不幸ごとが重なり、794年に平安京に遷都。
しかし、なお疫病は治まらず、、、
これらを怨霊による祟りであると考えた桓武天皇は、怨霊鎮魂のための御霊神社造営を計画した。
そんな中、南都(旧都周辺)には、上ツ道・中ツ道・下ツ道に、そえぞれ御霊社を造営することとなった。
- 上ツ道・・・崇道天皇社(祭神:早良親王)
- 下ツ道・・・他戸御霊社(祭神:他戸親王)
- 中ツ道・・・井上御霊社(祭神:井上内親王)←当社の前身
これら三名様の略歴は祭神紹介の部に委ねるとして、三名様とも、桓武天皇の皇位継承や立太子にまつわる陰謀の中で、無実の罪を着せられ非業の死を遂げた皇族の方々である。
井上御霊社の創建
800年、井上内親王が非業の死(暗殺とも)を遂げた場所である大和国宇智郡(五條市)に建立された御霊神社(霊安廃寺)から、井上内親王の御魂を勧請。
元興寺南大門前に社殿を造営して、井上御霊社が創建された。
旧鎮座地である元興寺南大門前とは、現鎮座地から少し南の井上町の高林寺あたりだというが、地元の人は元興寺郵便局あたりだと言う。
私にはわからない。
遷宮
1451年、土一揆によって元興寺が焼き討ちされた。その時、井上御霊社も焼失。元興寺復興の際に現在地に遷宮した。
興福寺大乗院の日記によると、元興寺御霊社という社名で1483年9月13日に登場するから、焼き討ち間もなく復興したのだろう。
また、このころには、祭神も増えていたようで、「八所御霊を祀る」と記された古文書も残る。
ならまち御霊神社 本殿の祭神
本殿には、 井上皇后、他戸親王、事代主神が主祭神として祀られている。
井上皇后と他戸親王
井上皇后=井上内親王は、45代聖武天皇の第一皇女。23年間、斎王として伊勢に下向したのち、弟の死去によって宮中に戻る。
のちに38代天智天皇の孫の白壁王の后となり、他戸親王を生む。
その白壁王が49代天皇に即位したことで、井上内親王は皇后となり、子の他戸親王は皇太子となった。
ここまではよかった。
ところが、夫である光仁天皇を呪詛したなどという、とんでもない嫌疑が掛けられ、皇后から下ろされ、他戸親王も皇太子から下ろされた。
さらに、夫の姉である難波内親王を呪詛で殺害したとの嫌疑が掛かかった。
これによって、とうとう井上内親王と他戸皇子の母子は、皇族から庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉された。
そして、その幽閉先で母子は同じ日に急死したのである。皇后になって、落とされて、亡くなるまで、わずか3年の出来事だった。
母子が同じ日に亡くなるとは他殺と見て間違いない。
他戸皇子の代わりに立太子されたのが山部親王。他ならぬ桓武天皇であることは言うまでもなかろう。
事代主神
事代主神は、葛城の古豪である賀茂一族の氏神にして、なぜか出雲の神でもあり、皇室の守護神として宮中にも祀られ、さらには恵比寿神にも習合するという、とても不思議な、そして得体のしれない神である。
この神が、御霊を鎮める神社に祀られている理由は、、、
元興寺焼失以前に、元興寺の鎮守神として境内に祀られていたからだろう。元興寺古絵図に事代主神社が描かれている。
西神殿の祭神
本殿の西側にある神殿には、伊豫親王、橘逸勢、文屋宮田麿が祀られている。元々は怨霊である。
伊豫親王
桓武天皇の第3皇子。
本人にそんな気はないのに、異母兄の平城天皇に対して謀反を起こすよう藤原宗成から勧められ、いつしかその首謀者にされてしまい、飛鳥の川原寺に幽閉された。その後、母親とともに自殺。怨霊となったとされる。
橘逸勢
皇位継承争いに巻き込まれて危機的状況に陥りそうになっている皇太子に仕えていた人。その皇太子を守るために、皇太子を東国に遷すことを画策したが、それが露見して謀反とみなされ、伊豆へ流罪となった。しかも「橘」から「非人」に改姓させらて、、、伊豆へ赴く途中で病死し、怨霊となった。
文屋宮田麿
筑前守に任ぜられ赴任。解任された後も筑前に残り、新羅と交易をしていたような記録が残る。密貿易?どのような理由かは定かではないが、従者の告発により逮捕され、伊豆へ流罪となった。宮田麿の国際交易力の拡大が、藤原氏の既得権益を脅かすようになったために排除されたように見る向きが多い。
東神殿の祭神
本殿の東にある神殿には、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人が祀られている。こちらも、元々は怨霊。
早良親王
光仁天皇の皇子。であるからして桓武天皇の同母弟となる。桓武天皇が即位した時、桓武天皇の皇子が幼少だったため、早良親王が立太子された。
がしかし、藤原種継暗殺事件に巻き込まれて立太子は廃されて幽閉された。無実を訴えて断食して10日後、淡路へ流される途中で死去。
藤原広嗣
奈良時代の貴族。血気盛んな性格なようで、親族を誹謗したことから太宰府へ左遷される。
それでも血気盛んな広嗣は、左遷先の太宰府から、今度は反藤原勢力の中心人物である近衛師団長的存在の吉備真備が天災・厄災の元凶であるから追放するべきと上奏した。時の右大臣で、吉備真備を重用していた橘諸兄が、この上奏を謀叛であると判断した。
血気盛んな広嗣は、太宰府の手勢に隼人や熊襲を加えた1万を超える兵力にて挙兵。しかし朝廷軍に敗れて処刑された。
藤原大夫人
本名は藤原吉子。怨霊鎮めのために藤原大夫人と尊称で呼ばれる。前述の伊豫親王の母親。伊豫親王とともに幽閉先で自殺した。
御霊信仰
このように、こちらに祀られている神々は、政敵から無実の罪を着せられて亡くなった人々ばかりである。
しかし、怨霊を封じ込めるための社ではない。
”怨霊は神として崇め祀ることで守護神に変化する” すなわち ”怨霊を御霊に昇華させる” という考え方に基づく信仰「御霊信仰」なのだ。
当神社は、そのような神社であることを忘れてはならないのである。
ならまち御霊神社 参拝記録
ならまち御霊神社の周辺の道路は入り組んでおり、駐車場もない。したがって、少し離れた場所に駐車して、徒歩でアプローチすることになる。
私の場合は、ならまち交番の隣にある「鹿の舟」という飲食施設の駐車場に停めた。

奈良交通バスの田中町バス停前だ。お値段は30分100円。極めてリーズナブル。しかも公衆トイレまで完備されている。
リーズナブルな駐車料金をご提供いただいているのであるからして、食事は「鹿の舟」で摂って頂きたい。
ここから「鹿の舟」の側面に沿って北上すると、最初の四辻の左角に「高林寺」の山門が見える。
高林寺

このあたりが、ならまち御霊神社の旧鎮座地候補の一つ。井上町と元興寺町の境目だ。
ならまち格子の家

高林寺から北へ30m。右手に見えるのが「ならまち格子の家」。
これは、奈良町の伝統的な町家を再現したもので、外観だけでなく屋内も再現されていて、もちろん中に入って見学することも可能。しかも無料。嬉しい限りである。
元興寺郵便局

格子の家から北上すること80m。左手に郵便局がある。コンクリート造りではあるが、レトロな雰囲気を醸し出している、味のある郵便局だ。
ここあたりが、ならまち御霊神社の旧鎮座地候補の2つめ。
地元の人は、この区画の北側面を東西に走る道路が何かを避けるようにくねっているのは、そこに南大門があったからだと証言するのだが、、、
ならまち御霊神社の社頭

立派な社標と存在感のある鳥居。見事である。
神門の両サイドを固める狛犬の足に紐が括りつけてあった。

これは、江戸時代から始まった願掛け「足止め祈願」である。家出人や悪い所へ行く人の足止め祈願、子供の神隠し除けに、狛犬の足を結んだらしい。
昨今では、縁結び・客のつなぎ止めなどを願う人も括って行かれるとのこと。
今がいかに平和であるか、祈願の内容の変化から感じとることが出来る。
祓戸社

神門をくぐり、手水で手口を濯いだらば、まずは祓戸社へ。心身を清めてくれる神々が祀られている。
こちらを参拝した後に本殿へ進むのが、参拝の流儀である。
こちらの祭神は、祓戸四柱大神と、市杵嶋比賣神。
市杵嶋姫神は、天照大神と素戔嗚尊が誓約をして生んだ三柱の女神の中の一柱。素戔嗚尊の持ち物から生まれたので素戔嗚尊の子とされる。同時に生まれた女神と併せて「宗像三女神」と称される。
祓戸四柱大神は、瀬織津比咩・速開都比咩・気吹戸主・速佐須良比咩の四柱。
神道において毎年6月末日と12月末日に行われる大祓の神事で奏上される祝詞「大祓詞」に登場する神々。諸々の禍事・罪・穢れを祓ってくれる神々だ。
神社参拝の際は、必ず祓戸社の有無を確認しようではないか。
拝殿

舞殿の機能も兼ねるハイブリッド型拝殿か。
二礼二拍手一礼。
本殿

一間社春日造桧皮葺の本殿。
この本殿の東西の神殿がある。
西神殿

前述の通り、西神殿には、伊豫親王、橘逸勢、文屋宮田麿が祀られている。
ご利益は、家内安全・会社繁栄と書かれてあった。
東神殿

前述の通り、こちらには早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人が祀られている。
ご利益は、、、旅行安全・交通安全と書かれてある。
若宮社

本殿瑞垣の東側外に、若宮社がある。
こちらの祭神は天神。正式神名は天満大自在天神。すなわち菅原道真公である。
雷神の性質を持つことから天変地異などの厄災からの守護、冤罪を晴らしたことから無実の罪を晴らしてくれる神、書道や和歌に優れていたことから諸道上達の神などとして崇敬された。
学問の神としてのご神徳がメインに押し出されてきたのは江戸時代あたりからと聞く。
さあ、天神様が日本三大怨霊に数えられる超強力な怨霊であることを心に刻みつつ参拝しようではないか。
ちなみに、他の2怨霊は、崇徳天皇と平将門公だ。
水蛭子社

若宮の前にある小祠は、水蛭子社。祭神は蛭子大神と書かれてあった。古事記の蛭子命であろう。
古事記によると、蛭子命は伊邪那岐と伊邪那美の最初の子だが、不具の子だったため、葦船に乗せて海に流したという。
後世、民間信仰の神だった「エビス」と習合して、海の神、豊漁の神、商売繁盛の神として信仰を集める。
出世稲荷社

最後に、祓戸社の隣に鎮座する出世稲荷神社をご紹介しよう。
ならまち御霊神社に参拝される方々の多くは、こちらへの参拝をメインにしておられることと思う。ならまちの縁結びの神様として有名だからだ。
この出世稲荷神社は、昭和27年に京都の出世稲荷神社から勧請されたもの。
ちなみに、京都の出世稲荷神社は、豊臣秀吉が京に造営した聚楽第で祀っていた稲荷神社。豊臣秀吉の出世にあやかって後陽成天皇が出世稲荷と名付けたという。
出世稲荷の祭神
祭神は、京都の出世稲荷と同じく、大己貴命 ・倉稲魂命 ・猿田彦命 ・天鈿女命 ・保食命 である。
大己貴命
大国主命の別名とされる。大国主命は出雲大社に鎮まり、毎年10月には全国の神々が出雲大社に集合して縁結びの相談を行うと言われている。いわば、全国縁結び会議の主催者と言えよう。
倉稲魂命
全国の稲荷神社に祀られる食物を司る神。日本書記では倉稲魂神で、古事記では宇迦之御魂神と書く。
保食命
倉稲魂命と同じような神格を持つ食物の神で、体から様々な食べ物を出すことが出来る。
猿田彦命
導きの神。天孫降臨の際に、天と地の中間地点で待ち受けて天孫を高千穂峰へと道案内した国津神。
天鈿女命
その猿田彦命が天孫が降臨する道に立っているのかを詰問した天津神。その後、猿田彦命を結婚した。
出世稲荷で縁結び?
そもそもは、秀吉の出世にあやかって出世のご利益を求めたはずなのに、、、
しかし、祀られている祭神の顔ぶれからすると、確かに縁結びの方が似つかわしいと私も思う。
具体的には、大己貴命の縁結びパワーと、猿田彦命と天鈿女命が夫婦神であること。
縁結びの神社として信仰されるようになったことに違和感はない。
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