添御縣坐神社|奈良|歌姫街道に鎮座する道の神
添御県坐神社(そうのみあがたにますじんじゃ)は、奈良県奈良市歌姫町にある神社。平城宮から北へと伸びる、かつての奈良と京都を結ぶいくつかの街道の一つ「歌姫街道」沿いに鎮座する。
この歌姫の里は、平城山(ならやま)と呼ばれる山地の一角にあり、大和国と山城国の国境に位置する。
この平城山の北側の川は北に流れ木津川を経て淀川に合流する。南側は南へ流れ大和川に合流する。すなわち平城山丘陵は、淀川水系と大和川水系の分水嶺なのだ。
開発が規制されていることから、古い町並みと田園風景が残るエリアだ。
平城宮跡にお越しになられたら、是非とも歌姫の里にも立ち寄って頂きたいと思う。
添御県坐神社について
添御県坐神社 概要
- 所在地 奈良県奈良市歌姫町999
- 電話番号 0739-22-5075
- 主祭神 須佐之男命
- 創建年 不詳
- 社格 式内大社(論社)
- 公式HP なし
添御県坐神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄奈良線・京都線「大和西大寺」から歌姫町行のバスで終点「歌姫町」下車すぐ。
駐車場
- あり?微妙、、、(無料)
添御県坐神社の祭神
添御県坐神社の祭神は、須佐之男命。配神として櫛稲田姫命と武乳速命が祀られる。
須佐之男命
伊邪那岐神が禊祓いをしたときに、鼻を濯いで現れた神。天照大御神や月読命の弟である。
生まれつき粗暴な性格で、伊邪那岐命から追放を言い渡される。高の原でも悪さをしたため、怒った天照大御神が岩戸に籠ってしまった神話は「岩戸隠れ」としてよく知られている。
また、八岐大蛇(やまたのおろち)と戦った英雄としても知られる。
このように強い神であることから、中世には牛頭天王と同一神とみなされ(習合)、祇園信仰と相まって疫病除けの神として、全国津々浦々の村々に祀られていくことになる。
当社も、江戸時代には牛頭天王社と称されていたという。
このような牛頭天王社は、元々から須佐之男命を祀っていたかどうかは関係なく、明治に入り神仏分離政策の中で、悉く須佐之男命に神名を変更していったらしい。
櫛稲田姫之命
須佐之男命の后。八岐大蛇退治で助けられた姫だ。
きっと、当社の櫛稲田姫命も、江戸時代までは牛頭天王の妻である波利采女の神名で祀られていて、同じく明治に入り神仏分離によって、櫛稲田姫命に神名を変更したのだろう。
武乳速命(たけちばや)
記紀をはじめとする史書に武乳速命の神名はない。似たような神名として武乳遺命(たけちごり)がある。とはいえ、同一がどうかはわからない。
ちなみに、武乳速命が武乳遺命だとすると、添御県主の祖神となる。というか、そうでないとここに祀られる意味がないのであるからして、武乳速命は武乳遺命なのだろうと考えるのが自然だ。
いずれにしても、添御県坐神社という神社名からして、創建当初の主祭神は武乳速命だったと思われる。
そこに、祇園信仰の流行に乗って牛頭天王を祀るようになり、主従逆転して牛頭天王社となり、明治時代に須佐之男命に改名され、神社名も元に戻したということなのだろう。
添御県坐神社の創建
創建年代は定かではない。
添県主が祖神(武乳速命)を祀ったのが始まりと思われる。延喜式神名帳に記載あるため、延喜年間以前から存在することは間違いないところだ。
添御県とは、古代に大和盆地内に設置された朝廷の6つの御県(直轄地)の一つ。
倭の六縣・御縣六座
御縣とは、飛鳥時代に設置された朝廷の直轄地のこと。大和国内に6つの御縣があった。ゆえに「倭の六縣」と称される。
これらの御縣には、甘菜や辛菜を天皇に献上する役割が与えられていたようだ。
祈年祭(としごいのまつり)祝詞(抜粋)
御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布と御名は白して、此の六つの御縣に生ひ出づる甘菜・辛菜を持ち參來て、 皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、 皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ
そして、それぞれの縣には縣主がいて、縣の守護神が祀られていた。それを御縣六座という。
6縣のおよその場所と御縣坐神社は次の通り
- 曽布(添)縣・・・奈良市・生駒市・・・添御縣坐神社(論社2社)
- 山辺縣・・・天理市あたり・・・山邊御縣坐神社(論社2社)
- 磯城縣・・・桜井市あたり・・・磯城御縣坐神社
- 高市縣・・・橿原市今井町あたり・・・高市御縣坐神社
- 十市縣・・・橿原市北部・・・十市御縣坐神社
- 葛城縣・・・葛城市から御所市・・・葛木御縣神社
このように、添縣の御縣坐神社と山辺縣の御縣坐神社については、それぞれ論社が2社ずつある。
- 奈良市歌姫町の添御縣坐神社と、奈良市三碓町の添御縣坐神社。
- 天理市西井戸堂町の山邊御縣坐神社と、天理市別所町の山邊御縣座神社。
645年(大化元年)に、それぞれに使者がたてられて、戸籍調査と石高調査が行われたという記録が残る。
とはいえ、添県主の姓が与えられたのが奈良時代のことであるからして、奈良時代の創建なのだろう。
もう一つの添御県坐神社
がしかし前述の通り、論社がもう一社あるからややこしい。同じ奈良市の富雄川沿いの三碓の丘に鎮座する「添御県坐神社」だ。
三碓の添御県坐神社、歌姫の添御県坐神社のどちらが式内社なのか。
多くの資料は三碓を推している。だからそうなのかもしれない。私は、どちらでもいいと思っている。
しかし、どちらかに決めろと言われれば、次の理由から歌姫の添御県坐神社を式内社に推したい。
- 歌姫は添御県の中心部の北に位置する。(添上と添下の接点)
- 歌姫は分水地点であるからして、水分の神などの神祀りに相応しい場所。
- 歌姫は山城と大和の国境であるからして、疫病除けの神などを祀るに相応しい場所。
- 歌姫町字御県山が旧地名。
六県と六座マップ
添上郡と添下郡を合わせて添県、式上郡と式下郡を合わせて磯城県、葛上郡と葛下郡を合わせて葛城県、というような考え方で県域を囲ってみた。
本来の御縣がこんな広範囲だとは考えにくい。それぞれの御縣坐神社の周辺部のみだったと考える。
添御県坐神社のご利益
水に縁の深い場所であるがゆえに、元々は水神を祀る聖地だった可能性がある。よって五穀豊穣のご利益を頂ける。
もちろん、忘れてはならないのが、主祭神であるところの須佐之男命(牛頭天王)のご神徳による、厄災除け、疫病除けのご利益だ。
さらに、天下の大秀才である長屋王や菅原道真が旅の安全を祈願したという故事に因んで、学業成就と旅行安全のご利益を頂こうではないか。
添御県坐神社の参拝記録
平城京跡のど真ん中を南北に貫く「みやと通り」これを北へ北へと進む。次第に道幅が細くなる。いよいよ歌姫街道だ。
途中、道路は巨木と祠を避けるように左右に分かれる。ここを過ぎるともうすぐだ。
かつて、この地点には倉本総業という反社会的勢力の拠点があった。高級外車がズラリと並ぶ光景が圧巻だったのを覚えている。
さて、いよいよ、すれ違いもままならない道幅となってくる。対向車をかわしつつ進む。
駐車場
緩やかが昇り坂を登り終えたところで、左側に平城公民館歌姫分館と小さなお堂がある。そこに駐車させていただくのが最もスムーズだと思う。
私は咎められることはなかったが、責任は負えない。各自の自己責任でお願いしたい。
神社境内の側面(この道路に面している)に、つめつめで2台停められるかな?という程度の空きスペースがあるので、そこに停めてもいいだろう。
社頭
こちらが、社頭の風景。何かが足りない。そう。鳥居がないのである。
よく見ると、鳥居が横たわっているではないか。
鳥居は横たわっているものの、ここから延びる内参道は、石灯篭が整然と並んでいて美しい。
いよいよ、ここから神域へと入る。
本殿
とても小さな本殿だ。少なからず拍子抜けである。
比べてはいけないのだが、三碓の方が立派だった、、、
二拝二拍手一拝。
伝承によると、もともと本殿は東向き(街道を向いていた)だったらしい。郡山藩主の参勤交代の際、神前を通るのが畏れ多いとして南向きに改められたとも。
弁財天
かつてここに弁財天を祀る祠があったのだろうか。「弁財天」と刻まれた石柱のみがひっそりと、、、
すぐとなりには池があった。この池とセットで弁財天社があったのかもしれない。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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