堀越神社|大阪天王寺|一生に一度の願いを!ご神木を取り巻く三つの社から強力なパワーを頂こう!
堀越神社は、大阪市天王寺区の茶臼山に鎮座する神社。
聖徳太子が四天王寺建立にあたり、周囲に配置した七宮の一つに数えられる古社である。
堀越神社は「一願成就」で有名な神社だが、見逃してはいけないのが、パワースポットのご神木と、その周辺の末社。また、可愛いお守りもたくさん。こちらも大注目だ。
では、ご紹介していこう。
堀越神社について
堀越神社の創建
推古天皇の御代。摂政であった聖徳太子により、四天王寺を鎮守する七宮の一つとして、茶臼山に創建されたと伝わる。
南側には美しい堀があり、その堀を渡って参拝するため、「堀越さん」と呼ばれるようになったとか。
現在も、茶臼山の南から美術館へ渡る橋と、その堀の跡が河底池として残っている。
▼堀越神社裏手の茶臼山と大阪市立美術館の境にある、堀(河底池)と和気橋
堀越神社の主祭神
主祭神に崇峻天皇を祀り、配神に、小手姫皇后、蜂子皇子、錦代皇女を祀る。
天皇とその家族なのだが、これがなかなかに不幸な人生を送った人々なのである。
崇峻天皇
第32代の天皇。推古天皇の弟で、聖徳太子の叔父にあたる。
蘇我馬子の推挙によって即位した天皇で、蘇我馬子VS物部守屋の権力闘争の際は、もちろん蘇我氏側についた。
その後も実権は馬子が握ったまま。しかも蘇我馬子の横暴はなはだしく、除名しようと試みたが反撃にあい、最終的には蘇我氏により暗殺されたという天皇である。
小手姫皇后
崇峻天皇の后。
崇峻天皇からの寵愛が薄れたことを恨んだ小手姫皇后は、献上された猪を見て言った天皇の独り言を、蘇我馬子に密告したと日本書記に記載されている。
その独り言とは、、、
「いつかこの猪の首を切るが如く、私が嫌いな奴の首も切ってやろう」
これを聞いた蘇我馬子は警戒感を強め、やがて天皇殺しへと発展していったということである。
崇峻天皇の死後、小手姫皇后は娘の錦代皇女を連れて、息子の蜂子皇子を追うべく東北へ向かう。しかし錦代皇女が途中で死去されたため、福島県の川俣あたりに落ち着き、そこで養蚕を広めたという。
蜂子皇子
崇俊天皇の御子。
父である崇峻天皇が臣下に殺された蜂子皇子は、聖徳太子に匿われて東北へ落ち延びた。
その後、出羽三山の山岳宗教の祖となられたと聞く。
錦代皇女
崇峻天皇と小手姫皇后の娘。蜂子皇子は兄。
堀越神社の立地
この茶臼山は、南北に長い上町台地のほぼ中央に位置する。すぐ西側が崖となっていて、そこには上町断層が走る。
上町半島という見方をすれば半島の根元あたりに当たり、その半島の先端に難波宮があった。
▼難波宮跡
箕面の山々から流れ出る気が大阪城や難波宮に溜まり、さらに台地に沿って流れ出しここで再び溜まる。そして台地の終点である住吉大社に向かって坂道を駆け下りるが如く流れ出すさまを想像した。
それもあってか、大阪冬の陣では徳川家康の本陣、翌年の夏の陣では真田幸村の本陣が、茶臼山の頂上に設営された。
このように、地理的優位性が高いと言える。すなわち、パワースポットである。
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堀越神社のご利益
古くから「堀越さんは、一生に一度の願いを聞いてくださる」という言い伝えがあり、昨今は各種メディアにも取り上げられ、老若男女が途切れることなく参拝している。
摂社の茶臼山稲荷は、その当時は茶臼山の頂上に祀られていたらしい。
本陣壊滅の危機を救っていただいたということで家康によって現在地に移され、家康以降、代々の大阪城代からの信仰が厚かったと言われてる。勝負の神様、起死回生の神様である。
では、次のページで詳しくご紹介していこうと思う。
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