伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」
京都市は伏見区。全国3万社以上もある稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社。
式内社の「名神大社」で、「二十二社」に選定された、古くから「その霊験絶大なり」といわれた神社である。いわば、国家が認めたパワースポットである。
現在でも、初詣参拝者数で関西No1であり、全国でも5本の指に入る。また、「外国人観光客が訪れたい日本の観光スポット」でも1位を獲得するなど、文句無しの超人気スポットである。
「人の集まるところ、すなわちパワースポットである」という持論を持つ私としては、うなずける結果なのである。
伏見稲荷大社について
伏見稲荷大社 概要
- 所在地 京都府京都市伏見区深草藪之内町68
- 電話番号 075-641-7331
- 祭神 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神
- 創建年 不明
- 社格 名神大社、二十二社、官幣大社
- 公式HP http://inari.jp/
伏見稲荷大社 アクセス
MAP
最寄り駅
- JR奈良線 「稲荷駅」徒歩3分
- 京阪本線 「伏見稲荷駅」徒歩5分
駐車場
- あり。
土日はまずもって満車。周辺道路の道幅狭く人多し。コインパーキング少なく、あっても小規模。
となれば、一駅離れた場所に駐車して、電車で行かれることをお勧めする。
伏見稲荷大社の創建
聖なる山「稲荷山」
伏見稲荷大社は、稲荷山の西麓にある。
稲荷山は、京都東山三十六峰の南端に位置する山で、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰という三つのピークを持ち、山そのものが神として崇拝されてきたいわゆる「聖なる山」である。
ではなぜ、稲荷山が聖なる山なのか。
下の図をご覧いただきたい。
稲荷山山頂から西麓にかけて多くの古墳があるのがわかる。(黒い●や■は古墳を表す)。
特に、三つの峰にも円墳や前方後円墳があることがわかる。これらは4世紀の造営らしい。
というわけで、4世紀に深草を本拠とした古代豪族の首長を稲荷山の山頂に埋葬したのが、稲荷山信仰の源流と言えるのではなかろうか。
秦氏の氏神
そんな稲荷山だからこそ、神が祀られることとなる。
社伝によると、
稲荷大神のご鎮座は、和銅4年(711年)の2月で、秦伊呂具にるもの
だとのこと。これは、山城国風土記「伊奈利の社」の条の伝承にその根拠を求めたものだろう。
秦の伊侶具は、稲の束を高く積み上げるほど裕福であった。ある日、大きな餅を的にして矢で射たら、餅は白鳥になって飛びさってしまった。食べ物を粗末にしたことを反省して飛び去った山に向かうと白鳥が稲を生んだ。そこを「稲成り」と呼び、社の名となった。(山城国風土記逸文より)
とある。
秦氏に伝わる「秦氏の氏神としての伊奈利社」の創祇伝承と言えよう。
東寺との連携
山城国風土記「伊奈利の社」伝承とは別に、それから約100年後の出来事として、全く異なる伝承がある。
東寺に伝わる「稲荷大明神流記」によると、
弘仁7年(816年)、空海は中国留学中に拝した神と紀伊田辺で再会した。神は空海に自分の弟子になるよう提案した。すると空海は「自分には密教を広めたいという願いがある。あなた様にはその仏法を守護して頂きたい」と逆提案。空海と神は盟約を結んだ。
弘仁14年(823年)4月、約束の通り、神が稲を担いで東寺にやってきた。喜んだ空海は、東寺の材木を切り出す山を稲荷山と定め、そこに神を祀った。これが今の稲荷社である。(稲荷大明神流記)
そして、こちらも東寺に伝わる「稲荷大明神縁起」には、風土記逸文の「秦氏の伊奈利」伝承との間にある100年の差を埋めるが如き伝承もある。
和銅年間から当山麓に住む者あり、100年もの間、昼は田を耕し夜は薪を求める仕事をしていた。顔は龍のようで、頭の上には光を放つものあり、夜でも明るかった。人々はこれを竜頭太と名付けた。また姓を荷田と名付けた。それは稲を背負っていたからである。弘仁のころ弘法大師がこの山で修行をしていたとき、その翁がやってきて「私はこの山の神である。仏法を守護したいと願っていた。真言を教えてくれ。さすればこの山を譲り渡そう」と言った。弘法大師は山を譲り受けたあと、稲荷明神をこの地に勧請した。
秦氏の氏神であった伊奈利社が東寺と手を組むことで、朝廷から幣帛を受ける国家的大社へと変化していくことになる。その始まりと言えよう。そういう意味では第二の創建と言えようか。
社家のひとつ荷田氏の出自と稲荷社への係わりが記されていることも興味深いところだ。
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