大阪天満宮|「通り抜け参拝」がおすすめ!学業合格祈願のパワースポットの決定版!
大阪市北区天神橋2丁目に鎮座する、学問の神様「大阪天満宮」は、日本三大天満宮の一つとして数えられることもある日本有数の天満宮である。数えられることもあるという微妙な表現の理由は、、、
大阪天満宮の祭り「天神祭」は「鱧料理]と並んで、大阪の夏の風物詩。船渡御、奉納花火、夜店、ビアガーデン。大盛り上がりである。昨今は、「ギャルみこし」なる催しも開催され、ワッショイワッショイの黄色い掛け声が天神橋筋商店街にこだまする。なかなかのものである。
実はこの祭も冠がついているらしく、 「祇園祭」「神田祭」と 並んで日本三大祭の一つらしい。
大阪天満宮について
大阪天満宮 概要
- 所在地 大阪府大阪市北区天神橋2丁目1−8
- 電話番号 06-6353-0025
- 主祭神 天満大自在天神
- 創建年 949年
- 社格 府社・別表神社
- 公式HP https://osakatemmangu.or.jp/
大阪天満宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- 地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」徒歩5分
- JR東西線「大阪天満宮駅」徒歩3分
駐車場
- あり(無料)
大阪天満宮の創建
少し遠回りな紹介になってしまうが、お許しいただきたい。
天満宮創建以前
もともと、この場所には「大将軍社」という神社が祀られていた。
西暦650年というから大化の改新から4年後のこと。孝徳天皇による難波長柄豊崎宮の造営に際して北西の守りとして創建された神社である。かなりの古社だ。そして、南森町の地名はこの大将軍の森が由来とされてる。
道真公 大将軍社に参拝
時は流れ、西暦901年。菅原道真公が左遷人事により福岡の大宰府に向かう旅の途中で、この大将軍社に参拝。旅の無事を祈願されたという。
道真公の祟り
2年後の西暦903年。道真公が大宰府にて没したあと、疫病や日照り、醍醐天皇の皇子たちの相次ぐ急死、さらには落雷による火災が相次いで発生。「道真公の祟り」とささやかれた。
西暦923年。朝廷は祟りを鎮めるべく、道真公の罪(冤罪なのだが)を許し正二位を贈る。
西暦930年。宮廷の清涼殿に落雷。多くの死傷者が出た。これを清涼殿落雷事件と呼ぶ。死亡者の中には大宰府における道真公の監視役を務めていた藤原清貫が含まれていたことや、落雷の3か月後に醍醐天皇が崩御したことなどから、「道真公の祟り」説は決定的となった。
北野天満宮創建
そして西暦947年、怨霊を「雷神」と見立て、古来より平安京の北西の鎮守として「火雷神」が祀られていた場所に壮大な社殿が創建された。
後年、この社殿に「北野天満宮」の称号が与えられるのである。
大阪天満宮創建
北野天満宮創建から30年後の西暦979年。先ほどの「大将軍社」の前に一夜にして7本の松が生え、夜ごとに光り輝くという噂が都に広まる。
これを聞いた村上天皇の勅命により、大将軍社に道真公を合祀し、のちにこの地に社殿を造営し道真公を格別に祀った。これが、大阪天満宮の創建である。
大阪天満宮の祭神
もう言うまでも無かろうが、菅原道真公である。
菅原道真公
道真公は、地方豪族の出身であり、中央においても学校の先生のような家柄であったにもかかわらず政治の世界で右大臣にまで昇格した、とんでもない超秀才である。これは藤原氏の出身者が右大臣になるのとはわけが違うのだ。
コネも何もない、まさしく裸一貫、自らの頭脳のみで勝ち取った出世であった。
それだけに当然これを疎ましく思う人々もいたわけで、左大臣「藤原時平」によって無実の罪を着せられて左遷されてしまうのである。
大阪天満宮のご利益
これも言うまでも無かろうが、学問の神様として祀られている。
さて、前置きはこれぐらいにして、、、
参拝記録を通して、境内を紹介していきつつ、パワースポットを紹介したいと思う。
大阪天満宮 参拝記録
天満の天神さんは、3年ぶりぐらいの参拝であろうか。大川の花見がてら、大川沿いの60分パーキングに駐車して、徒歩で参拝したのを思い出す。
今回は、直接、車で乗り入れようと思う。天満宮には無料駐車場があるのだ。40台ぐらいは止められるだろうか。何もイベントがない平日であれば空いているだろう。
この門は蛭子門という。かつてはこの門の正面に蛭子社があったため名付けられたと聞く。境内の南西角にある。
駐車場へは、この門から乗り入れ、正面奥の暗がりの中へ入っていくのだ。初めてだと少し戸惑うが、この記事を読まれたからには大丈夫だろう。もう一度申し上げる。無料である。
万一満車の場合、境内に少しだけ駐車スペースがある。普段はタクシー乗り場のようになっている。
ここも満車になると、仕方がない。門を出て左に曲がり、天満宮正面を右に曲がると大川沿いに出るのでそのあたりに駐車しよう。
南門
大阪天満宮は南向きに鎮座している。この楼門が正面玄関である。重厚な楼門だ。
楼門の天井には、、、彩鮮やかな方位盤が設置されている。
下から見上げることを前提に作られているので、東西南北がちゃんと逆になっている。「ちゃんと逆?」変な言い方だが、本当にちゃんと逆になっているので、方角は正しく表示されている。
また、西の方角「酉」の絵柄が「鶏」ではなく「鳳凰」になっている。
一説には、官公は「鶏」が嫌いらしい。
これは、
太宰府への旅立ちの前、道明寺にいる叔母に遭いに行った菅公の、このままずっと朝が来なければいいのに、、、朝を告げる鶏の鳴き声が恨めしく聞こえる、、、という内容の和歌を詠んだ
という故事によるものだろう。
さて、境内に入ったなら、まず手水舎を探そう。
境内右手に手水舎がある。まずは、こちらで手口を清めるのだ。
こちらの手水舎の水盤には水が張られていない。常時、竹筒から水が出ている。衛生的である。
これで準備は整った。いよいよ本殿へと向かおうではないか。
拝殿
さて、参拝しようではないか。二礼二拍手一礼。清々しい気持ちになれること間違いなしである。
氏子パワーが注入された 本殿
社殿は大塩の乱で一旦焼失した。この社殿は天保14年(1847年)に再建されたもの。当時の流行だった権現造である。
大阪中心部の神社は、太平洋戦争の空襲で社殿が焼かれた。であるからして、坐摩神社・生國魂神社・豊國神社・難波神社・今宮戎など、多くの神社の社殿は鉄筋コンクリート造りである。
太平洋戦争における大阪大空襲の際、このあたりも焼夷弾による被害を受けたはずなのだが、奇跡的に焼けずに残っている。
これは、氏子の人たちが「自分の家が焼けても天神さんだけは焼いたらアカン!」と必死に守ったからとのこと。
このように、大阪天満宮は氏子さんたちの「献身パワー」が注入された神社であることを決して忘れてはならないのである。
受験生必見! 登龍門
拝殿と本殿の境目に「登龍門」がある。
登龍門とは立身出世のための関門を意味する。
龍門とは龍門山を削って作られた流れの早い滝のような河。この急流を鯉が登ろうとするが登れない。そんな中で、登り切った鯉だけが龍となることができる。
といった中国の故事がある。
絶対おすすめ 特別感満載 通り抜け参拝
この登龍門は社殿の東西に設えてあり、なんとなんと通り抜けができる。
合格祈願をされる受験生諸君は是非この登龍門を通り抜けて、受験という急流を突破していただきたいと思う。
登龍門を通り抜けるなんて、この参拝を思いついた人も凄いと思う。
しかして、そのシステムとは。。。
次のページに続く!
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