筑土神社|九段下|将門公の首桶がご神体とは!関東を守り続ける神を祀る神社。

2018年10月20日

筑土神社は、東京都千代田区九段北、靖国神社の東、九段下駅前のビルの谷間にある神社である。

東京都心にはビルに挟まれた神社が多い。そしてそんな神社の多くは、そこだけが「喧噪を離れた別世界」、あるいは「緑豊かな都会のオアシス」を目指しているように感じる。

しかし筑土神社は、そのような都心の神社の在り方を超越してしまっている。

社叢もなく土もほぼなく、都会の風景に組み込まれている。であるにもかかわらず、間違いなく日本の神社の雰囲気を醸し出しているのである。素晴らしいと感ずる。

広告

筑土神社について

筑土神社 概要

  • 所在地   東京都千代田区九段北1-14-21
  • 電話番号  03-3261-3365
  • 主祭神   邇邇芸命、平将門公、菅原道真公
  • 創建年      940年
  • 社格   村社
  • 公式HP     http://www.tsukudo.jp/

MAP

アクセス

  • 各線「九段下駅」徒歩1分
  • 都営三田線「神保町」徒歩7分
  • 各線「飯田橋駅」徒歩10分
  • 駐車場は無し

筑土神社の祭神

現在は、邇邇芸命を主祭神とし、配神として平将門公菅原道真公を祀る。

創建当初はというと、もちろん、創建から近代に至るまで平将門公唯一柱を祀る神社であった

天津彦火邇邇芸命

天照大神の孫神。天津神の主催神の孫であるからして「天孫」と呼ばれる。高千穂の峰に天降った「天孫降臨」神話でおなじみの神である。

この邇邇芸命の子が彦火火出見尊、その子が鵜草葺不合命、そして、その子が狭野尊。狭野尊が九州から大和に東征して初代神武天皇となる。

平将門公

桓武天皇の系統から興った平一門の一人。東関東を本拠とした父の遺領争いから関東地方全域に広がる抗争となり、武勇に優れた将門公がこれを平定。

当時の藤原氏一族の権勢に嫌気がさしていた他の勢力も取り込みながら大勢力となる。

朝廷からの独立を目指して「新皇」と名乗った。そのため朝敵となり、940年、藤原秀郷率いる討伐軍に討たれた。

京でさらされていた級首が、関東まで飛んで行ったという逸話がある。そして、その首を埋めた場所が津久戸。現在の大手町にある将門首塚であるとするのだ。

関東地方に多く祀られる。

朝廷から見れば朝敵だが、関東武者からすると大英雄であり、そのご加護を頂きたいと願うのは必定であろう。

菅原道真公

将門公よりも50年ほど前の政治家にして学者。土師氏の流れを持ち、学問の一族であった菅原氏に生まれた。幼少のころから秀才との評判であったらしい。

藤原一族全盛時代に、自らの実力と才覚で台頭し右大臣にまで上り詰めた大秀才である。

であるがゆえに嫉まれる。讒言にあって、冤罪ながら左遷となる。都から遠く離れた九州太宰府への人事異動となった。実質、流罪である。

失意の内に太宰府にて死去。死して天満大自在天神と化し、都に数々の災いをもたらす怨霊となった。

北野天満宮を創建して天満天神を祀ることで怨霊を鎮めることとなった。後年、道真公の足跡に天満宮・天神社が次々と創建され、全国的規模の天神信仰に発展していく。

筑土神社の創建

940年、京に晒されていた級首を誰かがこっそり持ち帰り祀ったのが始まりという。(飛来したという逸話と違い、現実味がある。)当時は津久戸明神と称されたようだ。

それからおよそ500年後の1457年。完成した江戸城に太田道灌が入城。

太田道灌は、日枝神社や神田明神など現在も残る神社を、江戸城の周囲に勧請したり遷宮したりした。江戸城守護のためだ。

この津久戸明神も遷宮された神社の一つ。田安(九段坂下)に遷座され田安明神と称されるようになった。

江戸時代に入った1616年(元和2年)。徳川秀忠による江戸城拡大のため、田安から筑土八幡神社の隣に、またしても遷座。筑土明神と呼ばれる。

江戸から明治に入った1874年。皇国史観において、かつて朝敵とされた将門公に替わって、万世一系の祖神とされる天孫「邇邇芸命」が主祭神に据えられる。

昭和の1945年。東京大空襲で全焼。この時に将門公の首桶肖像画なども焼失してしまったという。しかしそれまでは、確かにここに1000年以上も存在したというからスゴイ。

戦後の1954年。現在地にあった世継稲荷神社の境内に遷宮し今に至る。

筑土神社のご利益

本来の主祭神「将門公」のご神徳にあやかって、武運長久・必勝祈願・勝運向上のご利益を頂こうではないか。

スポンサーリンク

筑土神社 参拝記録

靖国神社から神保町方面に向かって、靖国通りの坂道を下る。

すると道路沿いに地下鉄の出入り口が見える。歩道を挟んだ向かい側、地下駐輪場へのエレベーターを見つけることが出来るだろう。

この奥に筑土神社がある。

歩いていくと、この通り。本殿の裏側となる。周囲のビルに同化している。植えられている樹木も「社叢」という雰囲気ではない。巨大ビルの「緑地帯」のイメージだ。

筑土神社の本殿

見上げるほどに高い本殿だ。ここから神域へと入る。しかし、一旦、境内を突っ切って表に出よう。

筑土神社の鳥居

ビルの1階に鳥居が設けられている。

こうして撮影を行っている間も、下校するJCやJK達が鳥居に吸い込まれていく。どうやら九段下駅への近道のようだ。

筑土神社の手水舎

毎度のことではあるが、必ず手口を漱いで身を清めてから参拝頂きたい。

筑土神社の拝殿

重厚この上ない。これは何造と呼ぶのだろうか。東京大神宮に似た様式だが、、、

妻入りと言えば住吉造り。直線的な屋根も住吉造りの特徴と言えよう。

結局はよくわからないのだが、唐破風がついているのが珍しい。筑土造りと呼ぼう。

と、唐破風を眺めていると、面白いものが乗っているのに気が付くだろう。

おそらくは「鳳凰」。伝説の霊鳥だ。

二拝二拍手一拝。

世継稲荷神社

拝殿の右から奥に進むと「世継稲荷」が鎮座している。かつては松平家の屋敷神。筑土神社が遷座されてくる前から、ここに祀られていた稲荷社である。

祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。食物を司る神である。一般的には商売繁盛・家運隆盛のご利益を求めて信仰されているが、

こちらは、子宝・安産にご利益ありという。

世継稲荷の奥に、小さな祠があった。こちらも稲荷社のようだ。どこか近隣から遷座されたのだろう。

力石

およそ100kgと200kgの力石が置かれている。江戸時代、若者たちの力比べに使っていた。

健康増進体力強化、そして病気平癒を願って、この石に触れると良いと聞く。

本殿裏

裏参道から退出するとき、本殿裏の奥にちょっとしたスペースがあった。木で作られた鹿が可愛い。

最後に

将門公の首桶が祀られていたというから、いかに恐ろし気な場所だろうと思っていたが、あにはからんや、実に清々しい空気に満ち溢れた神社であった。

東京大神宮や靖国神社も徒歩圏内にある。併せて訪問されてはいかがだろうか。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

スポンサーリンク