倭姫宮|三重|天照大神の御杖代にして神宮祭祀の創始者「倭姫命」を祀る別宮。

2017年1月13日

倭姫宮(やまとひめのみや)は、14ある別宮のうちの一つで、外宮の真東で内宮の真北に位置する倉田山の山中に鎮座する。

明治天皇の神宮行幸の際、車で参拝できる道路を作ることになり、この倉田山を切り開いて「御幸通り」を開通させた。

その後、倉田山周辺には「神宮徴古館」や「神宮皇學館」が建設され、伊勢の文教地区の位置づけになっていったという、そんな場所である。

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倭姫宮について

倭姫宮 概要

倭姫宮 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄鳥羽線「五十鈴川駅」徒歩7分

駐車場

  • あり(無料)

倭姫宮の祭神

こちらには倭姫命の一柱のみが祀られている。


倭姫命は、垂仁天皇の皇女であり、天皇の命を受けて天照大御神の御杖代となり、天照大御神を祀るにふさわしい場所を探して各地を転々とし、やっとのことで伊勢の地にたどり着いた姫である。


そして、現在の神宮における様々な祭や儀式の基礎を作った人物でもある、まさに、伊勢神宮創建の一番の功労者と言えよう。

実はこの姫は日本武尊の叔母にあたり、日本武尊の東国平定の際に三、種の神器の一つ「草薙の劔」を与えた人でもある。

ちなみに、その草薙の劔は尾張の「熱田神宮」にご神体、いや祭神として祀らている。そして熱田の地にいた渡会氏が伊勢の地を治めることとなる。

倭姫命、日本武尊、尾張氏、渡会氏、そして海部氏。沸々と興味が沸き立ってくるではないか。

倭姫宮の創建

というような、偉大な倭姫命であるにもかかわらず、倭姫命を祀る神社が無かったのである。

そんな中、明治に入って、外宮が鎮座する宇治山田の民間から「倭姫命を祀る宮を創建すべし」との運動が起こり、行政を巻き込んでの嘆願が行われた。帝国議会の承認を得て、1921年(大正10年)に、晴れて創建となった。

倉田山に創建した理由は、倉田山に隣接する間の山(あいのやま)に尾上御陵(おべごりょう)と呼ばれる小さな古墳があり、この尾上御陵を倭姫命の陵墓とする伝承があるからである。

倭姫宮のご利益

神道には、仏教やキリスト教やイスラム教などの宗教と異なり、経典というものがない。「天照大神の教え」とか「素戔嗚尊の教え」とか、聞いたことが無いのである。

しかし、「倭姫命の教え」というものが存在するのである

次の通り。これをご利益と考えたい。

倭姫命御杖代奉賛会の公式HPより引用させていただく。

人は天下の神物なり。心神を傷ましむことなかれ。
神は垂るるに祈祷をもって先となし、冥は加うるに正直をもって本となせり。
神を祭るの礼は、清浄をもって先となし、真信をもって宗となす。

黒心なくして、丹心をもちて、
清く潔く斎り慎しみ、左の物を右に移さず、
右の物を左に移さずして、左を左とし右を右とし、
左に帰り右に回る事も、万事違う事なくして、大神に仕え奉る。
元を元とし、本を本とする故なり。

私のような薄学な者にとっては、なかなかもって難解な言葉である。

あえて解説は見ないようにしよう。何度も繰り返して読んでみよう。いつか、理解できる日が来ることを信じて。。。

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天照大御神の巡行

ここで、改めて天照大御神が各地を巡って伊勢の地に辿り着いたその軌跡をたどってみよう。

始まりは、、、

崇神天皇6年、崇神天皇はそれまで三輪山麓の皇居内で祀っていた「天照大御神」と「倭大国魂神」を、その神威を畏れて宮中から出すことにした。

天照大御神は「豊鍬入姫命」、倭大国魂神は「渟名城入姫命」にと、二人の皇女(娘)にそれぞれの大神を託した。

倭大国魂神を託された渟名城入姫命は、ほどなく髪が抜け落ちるほどに衰弱して祀ることができなくなったため、市磯長尾市に祀らせた。これが現在の「大和神社」の創建である。

一方、天照大神は豊鍬入姫命によって「笠縫邑」で祀られる。(大神神社摂社である「檜原神社」比定されている。)

ここから、天照大神を自らの体に宿した豊鍬入姫命の、理想的な鎮座地を求める旅が始まる。

まずは、豊鍬入姫命が御杖代となり、宮中を出て「笠縫邑」に祀られた。

豊鍬入姫命の巡行地

以下、豊鍬入姫命の巡行ルートと滞在年数、そして有力な比定神社を記しておく。

笠縫邑(かさぬいむら)33年奈良県桜井市檜原神社(大神神社)
吉佐宮(よさぐう)4年京都府宮津市眞名井神社(籠神社)
伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)8年奈良県桜井市与喜天満宮
奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)3年和歌山県和歌山市濱宮
名方浜宮(なかたのはまのみや)4年岡山県岡山市伊勢神社
御室嶺上宮(みむろのみねのうえのみや)2年奈良県桜井市高宮神社(大神神社)

ここまでで、50年余り。

豊鍬入姫命は老齢につき、垂仁天皇の皇女「倭姫命」に後を託すことになる。

倭姫命の巡行地

次に、御室嶺上宮を旅だった倭姫命の巡行ルートと滞在年数、そして有力な比定神社を記しておく。

宇多秋宮(うたのあきのみや)4年奈良県宇陀市阿紀神社
宇多佐佐波多宮(うたのささはたのみや)4年奈良県宇陀市篠畑神社
市守宮(いちもりのみや)2年三重県名張市宇流富志禰神社
穴穂宮(あなほのみや)4年三重県伊賀市神戸神社
敢都美恵神宮(あえとあえのみや)2年三重県伊賀市都美恵神社
甲可日雲宮(こうかひぐものみや)2年滋賀県甲賀市垂水頓宮址
坂田宮(さかたのみや)2年滋賀県米原市坂田神明宮
伊久良河宮(いくらがわのみや)2年岐阜県瑞穂市天神神社
中島宮(なかじまのみや) 愛知県一宮市酒見神社
桑名野代官<くわなののしろのみや>4年三重県桑名市野志里神社
奈其波志忍山宮(なごわしのおしのやまのみや) 三重県亀山市布気皇館太神社
阿佐加乃藤方片樋宮(あさかのふじかたのかたひ)4年三重県津市加良比乃神社
飯野高宮(いいのたかみや)4年三重県松阪市神山神社
佐佐牟江宮<ささむえのみや> 三重県多気郡竹佐々夫江神社
伊蘓宮<いそのみや> 三重県伊勢市磯神社
瀧原宮<たきはらのみや> 三重県度会郡瀧原宮
矢田宮<やたのみや> 三重県伊勢市矢田宮
家田田上宮<やたのたのうえのみや> 三重県伊勢市神宮神田
奈尾之根宮<なおしねのみや> 三重県伊勢市那自売神社(内宮末社)
五十鈴宮<いすずのみや> 三重県伊勢市内宮
※伊雑宮<いざわのみや> 三重県志摩郡伊雑宮

倭姫宮 参拝記録

外宮から内宮へ向かう御幸通りの倉田山の坂道を上り切ったあたりの左手に「皇學館大学」があり、その向かい側すなわち右手に博物館への道がある、まさしくその交差点の角に、ひっそりと鳥居がある。

駐車場は、博物館の駐車場を無料で利用できるはずなのだが、なんと、私が訪れた日は博物館が休館の日。博物館へと入る道路が4分の3ほど鎖で封鎖されているではないか。

でも心配はいらない。その4分の1開いている(車1台分)隙間から中に入ることができる。休館だから当然ながら車は1台も駐車されていない。止め放題である。

博物館の前にも鳥居がある。

本来なら、正面の鳥居に回り込むべきなのだが、今日だけは勘弁いただきたい。5社目の参拝で足がクタクタなのだ。申し訳ないが、ここから神域へと入っていくことにする。

ちなみに、我が妻と子達は車で爆睡中である。

さてと、どうやらこの鳥居は、神殿のすぐ横で同じ高さにあるようだ。階段を上ることもなく、すぐに神殿にたどり着いた。ちょっと拍子抜け。。。

倭姫宮 神殿

神宮特有の神殿である。こちらは女神様ということで、内削ぎの千木に6本(偶数)の鰹木である。皇大神宮と同じだ。

参拝者は私以外に誰もいない。ゆっくりと参拝できる。

二礼二拍手一礼。天津祝詞奏上。二礼二拍手一礼。思わす「お疲れ様でした」と声を出して言ってしまった。

野鳥のさえずりが一際高くなり、前方から風が吹いてくる。神社で起こることは偶然ではない。必然である。これを、どう受け取るかが重要なのである。

どことなく寂しくもあり、暖かくもあり。そんな雰囲気の宮であった。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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