護王神社|亥年に参拝したい神社No1!! 足腰の守護神!スポーツアスリートの神様なり!

2016年7月7日

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護王神社は、京都市中京区、京都御苑の西側面「蛤御門」の前あたりに鎮座する神社。社格は、明治以降「別格官幣社」に格付けされ、戦後はは「別表神社」に指定されるという、霊験あらたかな神社である。

護王神社という名称からもお分かりの通り、王(皇室)を護る神が祀られている。だから我々市民には関係ない神社だ、と判断するのは早計であろう。

こちらの神様は、足腰を守る神様としても有名なのだ。なので、お年寄りはもとより、各種スポーツアスリートも参拝に訪れる賑やかな神社だ。

足腰を守る神社である由縁は後程ご紹介しよう。

さて、こちらの神社では、亥(イノシシ)が神の使いとされている。境内のそこかしこに「イノシシ」のモニュメントが。

亥年には、是非とも参拝したい神社といえよう。

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護王神社について

護王神社 概要

  • 所在地   京都府京都市上京区 下長者町下ル桜鶴円町385 烏丸通り
  • 電話番号  075-441-5458
  • 祭神   和気清麻呂、広虫姫命
  • 創建年      不明
  • 社格   別格官幣社・別表神社
  • 公式HP   

護王神社 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 京都地下鉄烏丸線「丸太町駅」徒歩7分

駐車場

  • あり(無料) 境外の壁沿いに駐車スペースあり。

護王神社の創建

もともとは、高尾山神護寺の境内に和気清麻呂公命を祀り「護法善神」と呼ばれたものが始まり。その年代は不明だという。幕末以降、尊王から王政復古の機運の中、皇統を守った功績が評価されるようになる。

まずは、幕末の1851年。孝明天皇より和気清麻呂公に「護王大明神」の神号と「正一位」という最高位の神階が贈られた。

続いて、明治に入って1874年。「護王神社」と改称するとともに、「別格官幣社」の社格が与えられる。

さらに1886年。明治天皇の勅命により、現在地の蛤御門前に遷座された。

戦後は、神社庁が指定する「別表神社」に名を連ねるという、あまたある日本国の神社の中において特別な神社という位置づけとなっている。

護王神社の主祭神

主祭神は、「和気清麻呂公命」わけきよまろこう)と、姉の「和気広虫姫命」(わけのひろむしひめ)。配神に、「藤原百川公命」と「路豊永卿命」。

和気清麻呂公は、奈良時代末から平安時代初にかけての官人である。正義感あふれる立派な実務官僚であったときく。また、姉の広虫姫命は、実に慈悲深いお方であったらしい。

さて、ここから「清麻呂公」と「広虫姫命」の功績や人となりを述べたいと思う。

がしかし長くなるので、すっ飛ばしていただいても一向にかまわないのだが、

まさしくこれらが、「いのしし神社」こと「護王神社」のご利益につながるのであるからして、知らずに参拝するより、知って参拝するほうが頂けるご利益も大きいのではないだろうかと思う次第である。

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[su_spoiler title="和気清麻呂公と広虫姫の
功績とひととなり" style="fancy" icon="arrow-circle-1″ class="pup"]

和気清麻呂 宇佐八幡神託事件

時は奈良時代、称徳天皇(女帝)のころ。弓削の道鏡という僧が天皇の寵愛を受け、権力を欲しいままにしていた。

その道教が、こともあろうか称徳天皇の崇敬厚い宇佐八幡宮の神官と共謀して自ら天皇に成ろうと画策したという事件だ。

内容は、、、

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769年、大宰府の主神で宇佐八幡の神官であった「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげあそまろ)」が、宇佐八幡神の神託として、「弓削の道鏡を天皇にしたら、国家は安泰になる」旨を称徳天皇(女帝)に伝えてきた。

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もちろん虚偽である。

道鏡を寵愛している称徳天皇はこれを信じ、宇佐八幡に確認の使者を送る。その使者というのが、われらが和気清麻呂公である。

和気清麻呂公は八幡宮に到着し、改めて神託を伺うに、、、大神が現れて曰く

我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。

(日本は建国以来、主従のわきまえというものがある。臣下の者が主君になるなどもってのほか。世継ぎは皇室から立てなさい。そのような道理のわからぬ者は、すみやかに排除せよ!)

宇佐神宮HPより

帰京し、称徳天皇にありのままを報告すると、天皇は激怒。

姓名を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に変えられ、足の腱を切られて鹿児島に流される。37歳のことである。

その鹿児島までの道のりは、不自由な足では大変厳しいもの。精根尽き果てたころ、道鏡によって差し向けられた刺客に襲われるのである。

絶体絶命のピンチ。清麻呂公は死を覚悟する。

しかしその時、一天にわかにかき曇り、天地が揺さぶるが如き雷鳴轟き、300頭の猪の大群が現れ、清麻呂公一行を守ったのである。

さらに、宇佐八幡に詣でたところ、道鏡に傷つけられた足もすっかり回復

その翌年、称徳天皇が崩御したことにより、道鏡も失脚。清麻呂公は中央に復帰することになる。

このように、和気清麻呂公は、道教の策略から皇室を守ったわけである。その後も平安京の造営や治水政策など、その類い稀なる実務能力を遺憾なく発揮した。

▼和気清麻呂公が河内平野の治水事業として掘ったという運河の跡とされる「河底池(ちゃぶいけ)」と「和気橋」。堀越神社の裏手「茶臼山古墳」から撮影。

和気広虫姫命 日本初の孤児院

宇佐八幡神託事件が勃発する前のお話である。

清麻呂の姉、和気広虫姫は11歳から宮中に仕える女官であった。

仕えたのは、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた娘、阿部内親王。後の孝謙天皇である。

そしてそして、孝謙天皇は一旦上皇に就いたのち再び「称徳天皇」として即位するのであるが。

さて、広虫は持ち前の利発さと素直さで、女帝にいたく気にいられた。ちなみに、この女帝、一生独身であったらしい。(だから道教のような輩と、、、)

朝廷の実権を握っていた藤原仲麻呂と女帝とは、懇ろな関係?だったかどうかは定かではないが、徐々に自分の意に沿わなくなった仲麻呂を疎ましく思い始める。

そこに付け込んだ道教。

政権争いが勃発する。「孝謙天皇&道教」対「藤原仲麻呂」、藤原仲麻呂の乱である。

負けた仲麻呂派関係者の375人の死罪を命じる上皇に、広虫は、藤原仲麻呂以外の者たちの助命を求めた。この嘆願は受け入れられ、仲麻呂以下一族34名以外の関係者は死罪を免れた。広虫がいかに女帝の信頼を得ていたかがわかる。

そしてこのとき広虫は、孤児となった子供たちを自らの手で育てることとした。なんとその人数は83名。これが日本初の孤児院と言われる由縁である。

その後、宇佐八幡神託事件が起こり、清麻呂公と同じく「別部狭虫」に名を変えられ、都から追放となるのだが、孝謙天皇あらため称徳天皇が崩御したのち、都に呼び戻されるのである。

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「いのしし神社」護王神社のご利益

以上の逸話を知ったうえで、神前で祈ろうではないか。自然と、今日あるを感謝する気持ちが芽生えてくるはずである。

神様もそれを感じてくれるはずだ。

厄除け・災難よけ

清麻呂公が国難(道鏡事件)を未然に防いだことに因んで、さまざまな厄災を除いて頂ける

足腰の健康と病気平癒

前述の通り、当主祭神が猪の大群に救われたことに因み、猪を神の使いとし、足腰の守護神として、足腰の怪我や病気の平癒、また陸上競技などのアスリートたちからの信仰を集めている。

子育ての守護神

広虫姫の慈悲深い人と成りから、「子育ての守護神」としてあがめられている。

喘息封じ

境内にカリンの大木がある。その実効から「喘息封じのご神木」とされている。

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「いのしし神社」護王神社 参拝記録

前置きが長くなってしまった。

京都御苑の西側面のほぼ中央あたり、烏丸通に面して鳥居が建っているのですぐにわかるだろう。駐車場は神社敷地の外周北側に縦列駐車する形で数台分確保されている。

が、ここは京都御苑の駐車場に入れて、京都御苑など周辺のスポットも満喫していただくことをお勧めする。

狛猪

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鳥居の両脇には、狛犬ではなく狛猪が。リアルである。猪のバックに見える森が京都御所。

御千度車

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漆黒の御影石に大祓詞が刻まれている。これを回すと大祓詞を奏上したことになるとされる。便利なものである。

そういえば、四天王寺の極楽門にも、転法輪なるものがあった。

手水舎

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こちらの水口は、やはり予想の通り「猪」である。

大神神社の「蛇」、枚岡神社の「鹿」、恩智神社の「兎」などを見てきた私としては、特段、驚くべきものではない。

しかし、猪の姿勢には「まいった」と申し上げておこう。

拝殿・茅の輪

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神楽殿のようにも見えるが、拝殿である。拝殿手前には、夏越大祓ではおなじみの茅の輪が設営されている。

茅の輪のくぐり方

はらたまへ、きよたまへ、まもたまへ、さきわたまへ」を心の中で奏上しながら、、、
茅の輪の前で一礼。くぐる。
左外側から回って、茅の輪の前で一礼。くぐる。
右外側から回って、茅の輪の前で一礼。くぐる。
左外側から回って、茅の輪の前で一礼。くぐる。
そのまま神前に進んで、二拝二拍手一拝

半年間で溜まった、心の罪、穢れを、茅の輪に移して祓っていただく儀式である。心が軽くなる道理がここにある。

本殿中門

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拝殿の向こう側に本殿の中門があり、こちらでも参拝できる。いや、こちらで参拝するべきであろう。荘厳な構えである。

足萎難儀回復の碑

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本殿に向かって右側の招魂樹(おがたまのき)のそばにある「足萎難儀回復の碑」

足腰の病気やけがの回復を願って多くの人々が祈願する。私は、足形の石の上に乗って、ヒザの痛みを除いていただく祈願をした。

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井戸

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境内で最も気になったのが、この井戸である。先の足型の石に乗っていて発見したのであるが、この石に乗ってカメラを構えるのは、少しく恥ずかしいのである。

位置的には、本殿の横。説明書きはない。よって井戸の名前すらわからないが、妙に気になったので紹介させていただいた。

最後に

こちらの神社は、明治になってこの地に移設されたということもあってか、土地のパワーというものはあまり感じられなかった。私には。

しかし、和気清麻呂公と広虫姫の「正義感」や「慈悲の心」を感じて、自らを省みるいい機会になった。

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番外編

今回の京都訪問で、一つ発見したスポットを紹介しておく。神社ではないので、単独の記事にはしない。

京都御苑の北側には相国寺があり、挟まれるように同志社大学がある。パワースポットに挟まれているのだが。

この同志社大学の構内にある「チャペル」ここが素晴らしくいい「癒し」の気を放っている。京都特有の蒸し暑いうえに、蚊にさされて痒い。まさに不快指数100%であったが、このチャペルの前だけは、違うのだ。涼しいわけではない。不快感がスーっと無くなるのだ。

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窓枠に時折キラっと光るステンドグラスが、美しい。

さて、下賀茂神社、京都御所、二条城、神泉苑、桂離宮。これら京都を代表するパワースポットは、良質な地下水脈上にあるという。このチャペルの地下にも水脈が走っているのだろうか。

また、テーマが見えてきたようだ。

構内には、大学関係者でなくとも自由に入ることができるので、ぜひお立ち寄り頂きたいスポットである。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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