四天王寺|大阪|四天王寺は巧妙に隠された神社であった。

2016年6月27日

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四天王寺は、大阪市天王寺区にある寺院である。

かつては天台宗に属していた時期もあったというが、もともとは特定の宗派に偏しない八宗兼学の寺であったこと、日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であることから、1946年に「和宗」の総本山として独立した。

創建当時の四天王寺は、現在の寺院が果たしている「仏の教えを説くことで民衆を救済する」という機能だけでなく、民衆を救済する他の様々な機能を持ち合わせており、まさに聖徳太子の慈悲の心を具現化した施設であったと考える。

ちなみに、このブログで寺院を紹介するのは初めてのことである。それほどに強烈な衝撃があったのだと、まずは申し上げておこう。さらに言うと、ここは神社でもあると確信したからでもある。

では、順を追ってご紹介申し上げていこうと思う。

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四天王寺について

四天王寺 概要

  • 所在地   大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
  • 電話番号  06-6771-0066
  • ご本尊  救世観音菩薩
  • 創建年      593年
  • 寺格   総本山
  • 公式HP   

四天王寺 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 地下鉄「四天王寺夕陽丘前」徒歩5分
  • JR大阪環状線・阪和線・大和路線「天王寺駅」徒歩10分
  • 地下鉄御堂筋線「天王寺駅」徒歩12分

駐車場

  • あり(コインパーキング) 南大門横

いろんな意味において、西門近くのコインパーキングに駐車した方がいいと思う。

四天王寺の創立

四天王寺は、聖徳太子が建立した七大寺院のひとつとされている。

創建の経緯は、、、

蘇我馬子と物部守屋の戦いに、蘇我勢の一員として参戦した当時14歳の聖徳太子。

八尾市の渋川(東大阪の衣摺説もあり)にある守屋の拠点に攻めかかるが、戦上手の守屋勢の前に三度の退却を余儀なくされる。

後方部隊にいた太子はこの状況を見て、『この戦に勝利した暁には、四天王を祀る寺院を建立しよう。よって我らに御仏の守護を!』と、手彫りの四天王に祈願する。

そうすると、一本の矢が木の上にいた守屋に命中。これによって蘇我&太子連合軍の勝利となった。太子は約束の通りに、難波の荒陵(あらはか)に、四天王寺を建立することとした。

というわけで、西暦593年、上町台地の根元にあった荒陵(あらはか・古墳跡)に、四天王を祀る四天王寺の建立が開始された。

と日本書紀に記述されている。

異説として、、、

実はその6年前、玉造にあったと伝わる「守屋の邸宅」を攻め滅ぼした跡地に御堂が建立されたのが四天王寺の始まりという説がある。

元四天王寺」なるものが存在したという説だ。その元四天王寺の後継を主張するのが、鵲森宮玉造稲荷神社である。

これは平安時代後期の絵図とされるのも。画像の左側が北となる。「石山」とは現在の大阪城天守閣がある場所。

石山の東に「天王寺跡」とある。今の大阪城ホールや野球場あたりだろうか。天王時跡の南に用明天王社・鵲森宮と並んでいる。そのさらに南に玉造稲荷があるはずだが描かれていない。白龍池が目印となる。

いずれにしても、この地図の存在が元四天王寺存在説の根拠の一つなのだろう。

ちなみに、石山の南に亀池があり、その畔に生玉社が描かれている。その亀池は大阪城の外堀になり、生玉社は生國魂神社御旅所跡の石碑として残っている。
また、熊野一之王子は四天王寺七宮の一つである堀越神社の境内に遷座して今も祀られている。

さて、鵲森宮と玉造稲荷神社のどちらが元四天王寺かは判明していないが、”どちらの「元四天王寺」も今は神社であることは誠に興味深い。今回の参拝の目的はそこにあるのである。「四天王寺と神社」がテーマなのである。

四天王の御本尊

本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)である。建立当時は四天王が本尊であったが、平安時代救世観音菩薩が祀られるようになったという。

救世とは「人々を世の苦しみから救うこと」。そもそも観世音菩薩は、広く世界を観察して人々を救済してくれる菩薩。なので、救世がすなわち観音なのである。よって、救世観音菩薩が観世音菩薩の正統の姿であると言われている。

個人的には、聖徳太子が目指したであろう日本のありようには、四天王よりも救世観音菩薩の方が似つかわしいと感ずる。

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四天王寺 参拝記録

大鳥居と西門(極楽門)

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天王寺駅から谷町筋を北へと歩く。途中に「一願成就」でお馴染みの「堀越神社」、大阪の夏の陣で真田幸村公が陣を敷いたという「茶臼山」がある。寄り道するのが良かろうと思う。

さて、四天王寺に向かおう。

堀越神社から少し坂道を上ると、大きな交差点の右手に大きな石の鳥居が見えてくる。鳥居越しに、西門(極楽門)と五重塔が見える。のがなんとも不思議な光景だ。

寺院なのに鳥居である。神仏習合の名残であろう、そんなに珍しいことでもなかろうと思った。調べると創建当初は木製の鳥居だったとのこと。

んっ?創建当時から鳥居があったということ?仏教伝来時からすでに、神と仏は同体という観念があったということを示す資料であろう。

さてと。四天王寺の伽藍は広大で、多くの施設が立ち並んでいるため、一つ一つ紹介はできない。私が興味をもった施設のみ紹介することにする。ご容赦いただきたい。

おすすめ! 阿弥陀堂

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なぜか、魅かれた阿弥陀堂。上がらせてもらって、真言を唱え、しばし黙禱を捧げる。体が浮き上がるような感覚がある。心地よい。是非訪れていただきたいスポットである。

神社パワースポットの巡礼をはじめてから、このような体の変化というのかシグナルというのか、五感へのアプローチに敏感になったようだ。そして、驚くこともなくなってきた。

ちなみに、熊野本宮によると、阿弥陀仏は須佐之男尊の本地仏である。

いつまでも座っていたいのだが、先に進もう。

熊野権現礼拝石

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熊野三山への遥拝所である。四天王寺の南大門と仁王門の間にある。四天王寺の創建当時、熊野三山はもちろん存在したが、熊野信仰は平安時代に盛んにおこなわれるようになったので、創建当時から遥拝石があったかどうかは定かではない。ちなみに、熊野本宮大社の主祭神である家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)は須佐之男尊であるといわれている。

伊勢神宮遥拝石

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伊勢神宮への遥拝所である。東門の内側にある。こちらはもっと新しく、おそらく明治に入ってから設置されたのではないだろうか。江戸時代の絵図には存在しないのである。

ちなみに、伊勢神宮の内宮、天照大神は太陽神(男神)であり、それは須佐之男尊はであるという異説中の異説もあることはある。

牛王社尊

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ちょうど中心伽藍の北西に位置する、鬼門を守る位置にあるお堂である。

四天王寺造営の際に資材を運んでいた牛が、伽藍の完成とともに石神となった。その巨石が地中に埋まっているらしい。祠の中には牛の石像が安置されている。

実際は牛頭天王を祀っているとも言われているが、牛頭天王とは須佐之男尊でもある。創建当初から、四天王寺の中心伽藍の鬼門に「須佐之男尊」が祀られていたということになろう。これは非常に興味深い。

絶対におすすめ!聖霊院太子殿エリア

中央伽藍の東隣に、純和風な雰囲気の庭園が整備された一角がある。

聖霊院太子殿

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聖徳太子を祀る「聖霊院太子殿」がある。四天王寺の多くの施設は朱塗りであるが、こちらは朱塗りのコンクリート造りではなく木造である。前殿と奥殿に別れており、常時参詣できるのは前殿のみである。奥殿は法隆寺の夢殿に似ている。

前殿に上がらせて頂く。格子の向こう側のさらに奥、太子像であろうか、暗闇の中に立像のシルエットだけが目に映える。香り豊かな線香が焚かれている。妙に素直な気持ちになっていく。しばし黙禱。心の中で般若心経を唱える。すばらしく安らぐ。これこそが、「癒し」なのだろう。

このまま眠りに落ちていきたい衝動に駆られながら、黙禱を終えて目を開くと、目の前に別世界が広がっていた。先ほどまでの暗闇が嘘のように明るく輝いているではないか。目を疑って、誰かが明りをつけたのではないかと周囲を確認をした程である。

まぁ、冷静に考えると、目を閉じていたために視覚が暗さに慣れただけの話なのだが、あたかも霊力によるものであるかのような錯覚に陥るほど、神秘的な空間であった。

この時思うのである。むしろ感じると言ったほうがいいだろうか。この太子殿こそが四天王寺の真髄であると。ところが、この後、もっと衝撃的なものを発見することになろうとは。。。

守屋の祠

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太子殿の奥殿の東隣に、朱塗りの祠がひっそりと隠れるように鎮座されている。これが「守屋の祠」である。祭神は、物部守屋大連弓削小連中臣勝海連

  • 物部守屋公はご存知だろうから割愛する。
  • 弓削小連とは、守屋公の子だと思われる。守屋公は一族の弓削氏の出身である。
  • 中臣勝海連は中臣鎌足の子。中臣氏は物部氏と同じく神道を奉じる氏族である。守屋の挙兵に呼応して、蘇我氏を呪う呪詛を行ったが「守屋死す」の報を受けて降参。しかし殺されてしまった。

凄まじい怨念を持っているはずの守屋を自らの懐に祠を設けて祀っているのは何故か。

そして、あとで気が付くのだが、この場所は「聖霊院太子殿奥殿」の隣(となり)ではなく「聖霊院太子殿奥殿」のさらに奥(おく)なのだ。

(境内図を見ると、「いや隣でしょ!」と思われるだろが、これについては最後ご説明しよう。)

四天王寺は寺院と神社の2重構造?

四天王寺は、もちろん仏教施設なのだが、大鳥居・鬼門の牛王尊・伊勢と熊野の遥拝所、そして「守屋の祠」など、神社的な要素も多く存在する。

たしかに神仏習合により神社に仏像が安置されていた事例は多い。あるいは神社の境内に神宮寺を建立するのは当然のことであった。寺院に鳥居があるなんてことも、よくあることでもあろう。

しかし、以下のように、混然一体となった事例は珍しいのではなかろうか。

まずは、伽藍の配置を確認する。

四天王寺の正門は、西門(極楽門)と南大門のどちらがふさわしいか。もちろん南大門だ。南大門、中門(仁王門)、塔、金堂、講堂の順に南北一列にならぶ「四天王寺伽藍」と言わる様式だ。日本史で習った。

しかし、画像を左横から見ると、西門(極楽門)も正門のように見えないだろうか。

さらに、重要施設をつなげてみると、、、

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大鳥居 ⇒ 極楽門 ⇒ 西重門 ⇒ 東重門 ⇒ 猫門 ⇒ 太子殿奥殿 ⇒ 守屋の祠が、一直線に並ぶのである。(赤のライン)そして東重門、猫門、奥殿、守屋の祠は、通常は閉じられている。

これは、「一の鳥居、二の鳥居、拝殿、内玉垣門、本殿、奥宮と並び、内玉垣門から以降の施設の扉は閉じられている」という神社の構造に極めて似ていると思うのである。

そう考えると、守屋の祠が奥宮に相当するのである。さきほど「守屋の祠は、奥の奥」と申し上げたのは、このことである。

ちなみに、南北・東西・鬼門の3つのラインが交差する地点(印)には、「転法輪石」が存在する。これが何を意味するのかは分からないが。

四天王寺は、寺院と神社の二重構造

このようにしてみると、四天王寺は寺院と神社の二重構造であることがわかる。だとするならば、何故、二重構造にしたのだろうか。もちろん、その遺志を受け継いだ人々の手によって作り上げられたものであはあるが、聖徳太子の本意は、神道と仏教の共存共栄にあったのではないだろうか。

日本書紀に記されている十七条憲法のひとつに「篤く三宝を敬うべし。三宝とは、仏、法、僧なり」とある。一方、偽書の烙印を押された「聖徳太子五憲法」に記されている十七条憲法には、「篤く三法を敬うべし。三法とは、儒・仏・神なり」とある。

三法とは「仏・法・僧」ではなく、「儒教・仏教・神道」だというのだ。

私は、先の配置を見た時、少なくとも聖徳太子は、四天王寺あるいは国家を物部守屋の怨霊から守るために、仏とともに神の力をも活用したと感じた。活用というよりは、守屋をはじめとする三柱の怨霊を神として祀ることで怨霊鎮めとしたということになろう。

ちなみに、「四天王寺七宮」と称される神社がある。四天王寺を取り囲むように配置された7つの神社だ。となれば、四天王寺の内部に仕組んだ神道の力だけでなく、七つの神社で取り囲んでしまうという鉄壁の布陣を敷いたわけだ。

この「四天王寺と七宮の関係」については、さらに詳しく記事にするが、それを紐解いていく中で明らかになる事実は、神道と仏教の共存共栄などという悠長なものではないのである、、、

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