難波宮跡 都会の真ん中に超癒し空間が存在した!風が吹き抜ける「古代宮殿」

2019年6月10日

難波宮跡は、上町台地の北端、大阪城の南に位置する宮殿跡である。

難波宮は長らくその存在が疑問視されていた。かつては陸軍用地であったり、現在では府の官庁やオフィスが立ち並ぶ地域であるがゆえに、遺跡調査は困難を極めたようである。現在も、ビルの建設の合間をぬって発掘が続けられている。

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難波宮について

パワースポット難波宮

この上町台地北部は、古くは難波高津宮から始まり、難波宮、生国魂神社、中世には石山本願寺、豊臣大阪城、徳川大阪城、現在ではOBPや大阪府合同庁舎などが立ち並ぶ、いわば日本の政治、経済、文化の中心として発展してきた地域である。もしかすると、饒速日尊もこの地に降臨したのかも知れない。。。

それは外港という要所を抱えていたというだけでなく、土地そのものに強力なパワーがあるからなのではないだろうか。

古代難波宮

古墳時代。瀬戸内海航路の東の起点であり、島国日本の表玄関であった難波の地には、倭国王の王宮が存在したといわれており、仁徳天皇が難波高津宮(たかつのみや)を造営したのが難波宮の始まりであるとの伝承がある。

前期難波宮

飛鳥時代。645年の乙巳の変ののち、中大兄皇子の発案で652年に完成。孝徳天皇が遷都した。ここで大化の改新が行われたという。日本初の本格的な宮殿であった。しかし当時はまだ、掘立派柱造りで草葺の屋根であったらしい。

孝徳天皇崩御後、都は飛鳥に移ったが、683年に天武天皇は、難波宮を副都として、津国(つのくに=難波)を摂(掌握)する職という意味の「摂津職(せっつしき)」を置いた。朝廷の直轄地ということである。摂津の国とはそいう意味なのだ。

それほど、難波の港湾機能は朝廷にとって重要であったのだということだ。しかし、686年に全焼してしまったらしい。

後期難波宮

奈良時代。726年、聖武天皇が平城京の副都として造営。離宮という位置づけになろう。

礎石建で瓦葺屋根であったらしい。744年には恭仁京から難波へ正式に遷都されたが、その翌年745年には、平城京へ再び遷都された。

その際も、難波宮は外交を中心とした副都の役割を持ち、この地は大いに栄えたという。桓武天皇による長岡京への遷都ののち、難波宮は解体され、793年に「摂津職(せっつしき)」が廃止されるをもって、副都の役割を終えた。

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難波宮跡 訪問記録

上町台地北部の探索もいよいよ最終局面にさしかかってきた。天王寺から馬場町までパワースポットを徒歩で訪問するという、なかなかの工程である。

難波宮跡公園にたどり着いたときには足は棒のよう。しかも湿気の多い梅雨の晴れ間である。疲れないはずはないのである。

しかしここに着くと、疲れは吹っ飛ぶ。阪神高速を走るたびに見えるこの宮跡に一度は訪れたいと思っていたのである。やっと夢がかなうのである。

緑の公園に入る。と、先ほどまでの暑さはどこへ?実に爽やかな風が吹き抜けているではないか。公園のどこを歩いても風が吹いているのである。しかし、喉が渇いた。

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この公園、愛想もくそもない。売店があるわけでもなく、自販機があるわけでもなく。公衆トイレの水道しかないではないか。。。

大極殿の基段に登ってみた。すばらしく気持ちがいい。風がさらに強く吹き抜ける。

北方向には大阪城が見える。(画像の右上に小さく)

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南方向を望むと、緑の芝生のように見えるが実は雑草の広大な公園。実に気持ちがいいのである。

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気持ちいいのであるが、のどの乾きが限界に達しそうなので、今日のところは退散するのである。