湯島天満宮|東京文京区|聖なる丘に鎮座する学問・スポーツ・勝負の神を祀る「湯島天神」は、江戸屈指の古社であった。

2017年7月28日

東京都文京区湯島に鎮座する「湯島天満宮」は、古くは学者・文人の崇敬を受け、現在では多くの受験生や修学旅行生で賑わう、江戸・東京を代表する天満宮である。

通称は「湯島天神」。

江戸城の北東に位置し、鎮座する丘からは、南には江戸の総鎮守・江戸城の鬼門の鎮守で名高い「神田明神」をも眼下に見下ろす。

正月の仕事始めには、千代田区のビジネスマンが神田明神と湯島天満宮に参拝する習わしがあるとかないとか。

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湯島天満宮(湯島天神)について

湯島天神 概要

  • 所在地   〒113-0034 東京都文京区湯島3丁目30−1
  • 電話番号  03-3836-0753
  • 主祭神   菅原道真公・天之手力雄命
  • 創建年     雄略天皇2年(伝)
  • 社格   府社・別表神社
  • 公式HP      http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm

湯島天神 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 地下鉄千代田線「湯島駅」徒歩5分
  • 地下鉄銀座線「広小路駅」徒歩10分

駐車場

  • あり

湯島天満宮(湯島天神)の創建

社伝に、

雄略天皇の勅命によって「天手力雄命」を祀ったのが始まり。雄略天皇2年(458年)の創建

と伝わるとある。

出雲系氏族の入植によって「神田神社」が現在の大手町あたりに創建されたのが730年というから、湯島天神の458年は江戸屈指の古社ということになろうか。

その後1355年、南北朝時代に地域住民の懇願により「菅原道真公」を勧請して合祀した

という。この時点をもって創建とする説もある。

長らく「湯島神社」と称していただ、平成13年に「湯島天満宮」に改称した。

湯島天満宮(湯島天神)の祭神

本殿に「菅原道真公」を祀り、本殿裏の戸隠神社に「天之手力雄命」を祀り、この2柱の神を湯島天神の祭神としている。

縁起には「天之手力雄命」が上位に記載されているので、戸隠神社は湯島天神の奥宮という位置づけと考え、必ず参拝されたし。

菅原道真公

平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様といわれる所以だ。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷。ほどなく死去した悲運の人である。

死を前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたという。この時点で神となったのだろう。

その怨念は凄まじく「祟り神」となった。「日本三大怨霊」の一人とされているほどである。(他、崇徳天皇・平将門公)

後に、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建され、全国に天神信仰として広がった。

現在ではすっかり「学問の神様」として昇華されたとされる。

ちなみに、北野天満宮や大阪天満宮には多くの摂末社があり、冤罪にて非業の死を遂げた平安時代の皇族・貴族=「御霊」を祀っているが、こちらには無い。江戸に御霊は関係ないとうことだろうか。。。

天之手力雄命

呼んで字の如し。「天神の中で最も力の強い男神」で、こちらの摂社「戸隠神社」に祀られている。もちろん、信州の戸隠神社の奥宮に祀られている神である。

岩戸隠れ神話に登場する。天照大神が隠れた岩戸のそばに隠れ、天照大神が少し戸を開けた時を狙いすまして、大神の手をつかんで引きずり出したという、まさに腕力の神である。

湯島天満宮(湯島天神)の御利益

学問成就、合格祈願、勝負運の向上。

スポーツに限らず、告白・プロポーズ・面接・プレゼン・宝くじなど、ここ一番勝負したい時に訪れたい。

また、東京の学校を志望する受験生は、地元の天満宮とともに、湯島天満宮にも参拝するのがよいだろう。

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湯島天満宮(湯島天神)参拝記録

湯島天神への最寄駅は千代田線の「湯島駅」である。

しかし今回私は、JR中央線の「御茶ノ水駅」からアプローチした。というのも、湯島聖堂と神田明神も同時に訪れたかったからだ。

神田明神を超えて坂を下り、さらに坂を上る。駅からおよそ15分だろうか。坂の頂上に鳥居が見える。

表鳥居

銅製の鳥居である。社標には「湯島神社」とある。

鳥居をくぐると新域だ。とても明るい境内である。

火伏三社稲荷社

鳥居をくぐったすぐの左手に「火伏三社稲荷社」が鎮座する。

火災が多かった江戸時代には、商人や大名の屋敷内に屋敷神として火災除けの稲荷神を祀っていたようだ。

現在でも、会社や工場の敷地内あるいは屋上に赤い鳥居と社を構えている光景を目にするだろう。あれだ。

ここに鎮座する「火伏三社稲荷社」は、湯島にあった庭瀬藩上屋敷の屋敷神であったらしい。

少し進むと、新旧2体の撫で牛が据えられている。この画像は旧の撫で牛である。

撫でると心願成就するといわれ、受験生が仕切りと撫でる。よって、だんだん原型が分からなくなっていくのである。

道真公と牛

天満宮には必ず「臥牛」の像が設置されている。牛は天神の使いとされる。牛は天神の乗り物とも。

これは、、、

道真公には、特に愛でていた牛がいた。

左遷が決まった夜、突然その牛が姿をくらました。

道真公左遷の旅の途中、政敵「藤原時忠」の刺客に襲われた際、一頭の暴れ牛が飛び出してきて、その刺客を角で刺殺した。なんと、姿をくらましていた愛牛であった。

大宰府まで、その牛を連れていったという。

さていよいよ死期が近づいていることを悟った道真公は、自「私の亡骸は牛の車に乗せ人に引かせずに
その牛の行くところに止めよ。」
と遺言を残して亡くなった。

道真公の亡骸を乗せた牛車を曳いていた愛牛が、ある場所で臥して動かなくなった。

ここを墓所と決めた。現在の大宰府天満宮である。

これが、牛が使い、牛が乗り物の由縁であり、臥牛の像はまさにその象徴なのである。

拝殿

これが、東京には珍しい総檜の権現造りの社殿である。

何が珍しいかというと、東京都の防火地域に建つ純木造建築物だからである。

この社殿は平成7年に改築された。現在の建築基準法では、防火地域では純木造建築物の新築は認められないのだが、万全の防火設備を備え、審議に審議を重ねた結果、純木造が認められたという。

二礼二拍手一礼。

風が吹く。

男坂

湯島天神の東側は結構な高低差があり、このような崖になっている。ここに階段が設けられていて、直線的に作られた階段を「男坂」という。傾斜が御覧の通り急なのである。目がくらむ。

女坂

逆に境内に沿って設置された階段を「女坂」という。こちらは、距離が長い分だけ傾斜が緩やかだ。

境内社

戸隠神社

前述の戸隠神社。主祭神の一柱「天之手力雄命」が祀られている。

こちらが、道真公が合祀される前からこの湯島の地に鎮座していた、いわば湯島の地主神である。

私は、この戸隠神社を湯島天神の奥宮という位置づけで考えている。

本来、戸隠神社として祀るべきものではないような気がするのだが、時代の流れの中で「天之手力雄命」=「戸隠神社」とされたのだろう。

本殿に天之手力雄命と道真公を合祀して、「湯島天神」の名称でいいと思う。「天神」(高天原の神という意味の)と「天神」(天満大自在天神)を祀っているのだから。。。

必ず、参拝していただきたい。

笹塚稲荷神社

朱色の提灯が美しい「笹塚稲荷神社」。

正一位と記されており、神紋「二つ穂包み抱き稲紋」も伏見稲荷大社と同じであるから、祭神は宇迦之御魂神であろうか。伏見稲荷大社からの勧請で、どこかの屋敷神であったのだろうか。

浅草橋にも同じ「笹塚稲荷神社」が今も存在しているが、何か関係があるのだろうか。

浅草橋の笹塚稲荷は「吒枳尼天」をご祭神とする豊川稲荷系の稲荷社であるからして神社ではなく寺院。だから、関係ないのであろう。

「湯島天満宮境内に祀られた時期や経緯はよくわからないんです。」とは、神職さんのお話である。

本殿裏の参拝所

本殿の真裏に参拝所が設けられている。私は裏の参拝所が好きである。得したような気分になれるからだ。

裏口からこっそりお願いするみたいな。

要するにセコイ性格なのである。

本殿

先ほどの裏の参拝所の画像からもわかるように、本殿が大きい。というか高い。

これは、境内の敷地の勾配が、鳥居から本殿に向かって下り勾配になっているからのようだ。

高い鳥居の場所から見た時、見栄えするように拝殿を大きく作る必要があり、その後ろに建つ本殿の屋根はさらに高くなければならないのだ。だから大きいのである。

ご神木

拝殿に向かって左側にドーンとそびえる「ご神木」。ご神木と書かれてあったかどうかは定かではないが、この強烈なフォルムをもつ木であるからして、ご神木であらねばならないのである。

最後に

境内には、素晴らしい庭園が設えてあり、地元民や旅行客が、ベンチに腰掛けてひと時の休息をとっている。

私は絵馬殿に設置されている休憩所で、ポカリスウェットでのどを潤しつつ煙草に火をつけた。天三の火伏三社稲荷の隣で。。。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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