狭岡神社|奈良|藤原不比等ゆかりの神社

狭岡神社は、奈良市法蓮町にある神社。

一条通りの北にある小高い丘の上に鎮座する、延喜式神名帳に記載される「大和国添上郡 狭岡神社八座」の論社となっている古社である。

この丘には藤原不比等の邸宅があったとも、もっと古くは、垂仁天皇の皇后となった狭穂比売命の実家があった場所だとも言われており、歴史ロマンあふれるスポットとなっている。

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狭岡神社神社について

狭岡神社の概要

  • 所在地    奈良県奈良市法蓮町609−1
  • 電話番号   
  • 主祭神    天神八神
  • 社格     式内社(論社)
  • 公式HP     なし

狭岡神社  アクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄奈良線「新大宮駅」徒歩18分

車でのアクセス・駐車場

  • アクセスは容易
  • 駐車場なし

公に言うわけにはいかないが、、、

一条通りにあるディスカウントスーパー「プライスカット」の駐車場に停めさせていただくのがよいのではなかろうか。そこからだと徒歩5分。

必ず何か買い物をして頂きたい。でないと礼に失する。

狭岡神社の創建

神社由緒によると、、、

創建は霊亀2年(715)。藤原不比等が国家鎮護・藤原氏繁栄のために、朝廷の許可をもらい自分の邸宅「佐保殿」の丘に天神八座を奉祀して崇拝したのが始まり。

不比等の邸宅は、今の法華寺周辺一帯にあったとするのが一般的。「狭岡神社が不比等の邸宅の丘上に、、、」となれば、不比等の邸宅は恐ろしく広大なものだったということになろう。

その後、佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神と称される時代を経て、今の狭岡神社となった。

ここでいう「天神」は、不比等が祀った「天神八座」の天神であると考える。天満宮の天神ではないはずだ。

藤原不比等

大化の改新でお馴染みの「中臣鎌足」の次男。天智天皇から藤原の姓を賜ったのが鎌足で、それを受け継いだのが不比等。

不比等の子孫は藤原姓を名乗り太政官の官職に就くことができたが、不比等の兄弟とその子孫は藤原姓を名乗ることが出来ず中臣として祭祀を担当した。「政治の藤原、祭祀の中臣」の始まり。

この異例な出世は、不比等が天智天皇の御落胤だったからだ、、、という説があるが、賛否の分かれるところである。

狭岡神社の祭神

神社由緒によれば「天神八座」が祀られていて、その実体は、若山咋之神・若年之神・若沙那売之神・弥豆麻岐之神夏高津日之神・秋比売之神・久々年之神・久々紀若室葛根之神の八柱の神々としている。

以下、そのプロフィールを簡単にご紹介しよう。

  • 若山咋わかやまくい之神・・・山を司る神。山から下りてくる田の神。
  • 若年わかとし之神・・・穀物を司る神。苗の神。
  • 若沙那売わかさなめ之神・・・田植女の神格化。田植えを司る神。
  • 弥豆麻岐みずまき之神・・・灌漑を司る神。
  • 夏高津日なつたかつひ之神・・・真夏の日照を司る神。
  • 秋比売あきひめ之神・・・秋の収穫を司る神。
  • 久々年くくとし之神・・・豊穣を司る神。稲架掛けされた稲の精霊。
  • 久々紀若室葛根くくきわかむろつなね之神・・・新嘗祭用に建てた新室の神格化。

これらの8柱は古事記に登場し、大年神の系譜に登場する。

<祭神系統図>をご覧頂きたい。

このように、元をたどれば伊弉諾・伊弉冉に辿り着くから天津神であると言えなくもないが、須佐之男命は高天原から追放され出雲国に土着したために天津神から国津神となった。

すなわち、それ以降の系譜上の神は国津神と認識されるわけだ。であれば、この8柱の神は天神ではないということになるのである。

不比等が祀った天神八座とは、、、

真実は歴史の彼方にある。我々には知るすべもない。

狭岡神社のご利益

狭岡神社のご利益は、

8柱の神々の神格からして「五穀豊穣」であることは間違いない。

また、後述するが、菅原道真公も祀られているによって「学業成就」のご利益も頂けるはずだ。

さらには、藤原氏ゆかりの神社であるからして、「出世開運」「家運隆盛」を祈願するのもよかろうと感ずる。

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狭岡神社 参拝記録

狭岡神社は、奈良県屈指の進学校「県立奈良高校」の西隣に位置する。

周辺道路は狭いため路駐は不可能。神社に駐車場は無い。コインパーキングを探すも最寄りのパーキングからは徒歩で10分。

というわけで、商業施設の駐車場を探すことになる。

うまい具合に徒歩5分程度のところに「プライスカット」というスーパーがあったので、そこに停めさせていただこうではないか。

弁当と飲み物とお菓子を購入することで、心理的義理を果たしておくことは忘れるべからず。

ここからは、北に真っすぐ歩くのみ。プライスカットでカップラーメンを購入した奈良高校の学生さんの群れと一緒に歩く。

社頭

三差路の分岐点に鳥居があり、神域への入り口が口を開けていた。

手水盤

久しぶりに、コロナ禍を意識していない通常の手水に出会った。手水で手口を洗う一連の所作は「神社参拝の儀式の一つ」と考える私としては、やっぱり柄杓ですくうスタイルが良い。

内参道の石段

緩やかな石段が伸びている。画像で見るより傾斜は緩やか。気持ちのいい風が流れている。

鏡池(姿見池)

手水を使って石段を昇り始めてすぐの左側に狭穂姫伝承の鏡池(姿見池)がある。

狭穂姫とは、垂仁天皇の皇后。実家がここらへんにあったらしく、狭穂姫が鏡替わりに美しい姿を写した池であると伝わる。

狭穂姫伝承地の石碑

さらに少し昇ると、左側に「狭穂姫伝承地」の石碑がある。

ここまで狭穂姫を推されると、狭穂姫にまつわる悲しい話を紹介しないわけにはいくまい。

垂仁天皇4年

狭穂彦王が垂仁天皇の皇后となった妹の狭穂姫に、「お前は、俺と天皇のどちらを愛しているのか」と問うた。狭穂姫は「お兄様です」と答えた。

すると狭穂王は「では俺と一緒に天下を取ろう。俺の為に天皇を殺してくれ」と頼んだ。狭穂姫は、「それはダメです」と思いながらも兄を諫めることが出来なかった。

ある日、天皇が皇后の膝枕で眠っていた。狭穂姫は「今ならできそう、、、」と思ったが決心がつかずに、思わず泣いてしまった。その涙が天皇の顔に落ちて目を覚ました天皇が、泣いている皇后を見てその理由を問うた。狭穂姫は隠すことが出来ずにすべてを話した。

天皇は「お前の罪ではない。気にするな」と言うやいなや、すぐに狭穂彦王の屋敷を攻めさせた。がしかし狭穂彦も稲城を築いて防御したため、なかなか陥落しなかった。

そうこうするうちに、「私が入れば、兄も許されるかも、、、」と思った皇后は、皇子を連れて狭穂彦の屋敷に入ってしまった。

天皇は、皇后と皇子を返すよう説得を試みたが出て来なかったので、やむなく火を放ち城を焼いた。

すると皇后が皇子を抱いて出てきて「私が入れば許されるかもと思いましたが、許されないのですね。ならば私にも罪があるということです。ですから私も死にます」と言って、皇子だけをその場に残して皇后はまた城に戻ってしまった。

その時、城は大きな火柱をあげて崩れ落ち、狭穂彦と狭穂姫は城の中で死んだ。

狭穂彦と狭穂姫が死んだ場所が、このあたりのどこかにあるとうことで、石碑が立てられたと推察する。

天満宮と刻まれた道標

さらに石段を昇ると、正面に道標みちしるべが見えてくる。

この道標は昭和二十年代まで一条通り沿いに置かれていたもの。

「天満宮」と刻まれ、その右に「北へ三丁天神社内」 とある。

記録では、永享7年(1435年)に天満宮が遷宮されたとのことであるからして、

「1435年に、一条通りにあった天満宮が北へ三丁のところにある天神社に遷座した」と解釈してもそさそうだ。

その天満宮は今は本殿の右にある末社に祀られている。

拝殿

舞殿型の拝殿。コロナ禍では珍しく、鈴緒が垂れている。

手水もそうだが、鈴を鳴らす行為も参拝儀式の一部。私としては必須のルーティンなのだ。

二拝二拍手一拝。天津祝詞。。。一陣の風が吹き抜けた。

本殿

朱色が美しい本殿は春日造り。

しかし単なる春日造りではない。

応永三四年(1427)の春日大社式年造替に際して、その第三本殿を当社が20貫文で買ったと記録に残る。

第三本殿とは天児屋根命を祀る神殿である。藤原不比等ゆかりの神社に相応しい。

とはいうものの、さすがに現在の本殿はその時のものではなかろう。

境内社の御紹介

当社の境内社は、本殿瑞垣内に2社。本殿の左右に1社ずつ鎮座する。

四所神社

画像の右に写っている小振りの社が四所神社である。

祭神は、

  • 伊弉諾大神・・・神世七代の七代目。妻の伊弉冉と国生み・神生みを行った男神。
  • 天照大神・・・太陽神にして皇祖神であり、日本の総氏神として伊勢に祭られる女神。
  • 住吉大神・・・伊弉諾の禊祓で生まれた神。底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称。
  • 春日大神・・・春日大社に祀られる、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四神の総称。
  • 天満大神・・・天満大自在天神すなわち菅原道真公の神霊。
  • 八幡大神・・・八幡宮に祀られる応神天皇を必須として比売大神、神功皇后、仲哀天皇などの総称。

ここに祀られている天満大神が、遷座した天満宮の祭神なのであろう。

惣社殿

画像は無し。申し訳ない。

本殿の左に同じような小振りの社が鎮座している。

それが惣社殿。祭神は、、、

  • 地主之神・・・当社地の地主神か。
  • 金山彦神・・・火傷に苦しむ伊弉冉尊の吐瀉物から生まれた神。鉱物の神とされる。
  • 事代主神・・・大国主神の御子。須佐之男命、大国主命の流れを受け継ぐ国津神のドン。

最後に

本殿の横を通り抜けると佐保山の森だ。

鬱蒼とした森の中を一筋の光の小径が見えた。

この先には何かがありそうな、そんな予感が走る。

しかし、何もなかった。

光の道の突き当りは鉄柵で、正面には奈良教育大付属中学の校庭があるだけだった。

という事実のみをご報告させて頂こう。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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