多神社(多坐彌志理都比古神社)|奈良|神武天皇の皇子が祀られる日読みの神社

2020年4月9日

多神社は、奈良県磯城郡田原本町多にある神社。

正式には「多坐彌志理都比古神社」(おおにます みしりつひこじんじゃ)という厳めしい社名。延喜式神名帳に記載ある式内社の中でも特に霊験あらたかとされる名神大に列する大社であるからして、厳めしい社名が似合う。

ちなみにこの場所、春分・秋分には三輪山から日が昇るという日読みの地でありつつ、真東に三輪山があり、真南に畝山があるという、なんとも魅惑的な場所でなのである。

試しに、三輪山当社丸山宮跡(神武天皇陵候補地)を結ぶと、三角定規でお馴染みの30-60-90度の特別な直角三角形になる。

だからどうということはないが、少なからず神秘的である。と感じるのは私だけであろうか。

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多神社について

多坐彌志理都比古神社の概要

  • 所在地  奈良県磯城郡田原本町大字多570
  • 電話番号  0744-33-2155
  • 主祭神  神倭磐余彦尊・神八井耳命・神沼河耳命 他
  • 創建年    紀元前580年(伝)
  • 社格   式内名神大社・県社
  • 公式HP   なし

多坐彌志理都比古神社のアクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄橿原線「笠縫駅」徒歩20分程度

駐車場

  • あり(無料)

多神社の祭神

現在の祭神は以下の通りである。

第一社・・・神倭磐余彦尊(かむいわれびこのみこと)

第一代神武天皇のこと。当社の本質である「神八井耳命」の父親

第二社・・・神八井耳命(かむやいみみのみこと)

神武天皇の皇子。橿原宮にて建国した後に娶った皇后との第一子。

神武天皇は、日向時代の妃との間に長男をもうけているので、そういう意味では、第二子となる。皇位は継がずに弟に譲り、この地を拠点とする多氏をはじめとする多くの氏族の祖となる。

第三社・・・神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)

兄である神八井耳命から皇位を譲られた弟のほう。第二代綏靖天皇となる人だ。

第四社・・・姫御神

玉依姫命のこと。海神の娘である。神武の母であるからして神八井耳命の祖母となる。

太安万侶

多氏の出身で古事記の編纂者である。

なぜ、母は祀られていないのか

神八井耳命の父、弟、祖母が祀られているのに、母親が祀られていない。何故だろう。

神武天皇の崩御後に起こった、この事件が関係するのかも知れない。

神武天皇が崩御すると、義理兄の多芸志美美命(たぎしみみ の みこと)が、未亡人となった皇后(すなわち兄弟の実の母親)を娶り、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟を殺そうとした。

そのことを皇后が歌で知らせたために、反逆を知った兄弟が多芸志美美命を誅殺することにした。

その時、兄は手を下すことができず、弟が事を成したため、兄は皇位を弟に譲った。

父が亡くなったとたん、前妻の子と再婚するような母親なんて、祀るにあらず!

みたいな感じ???ちがう???

多神社の歴史

記紀によると、

兄は手を下すことができず、弟が矢を射て射殺しました。兄は自分の弱さを恥ずかしく思い、弟に言いました。
「私は兄ではあるが、未熟で弱く、(皇位に就いても)いい結果にはならないと思う。あなた(弟)は優れていて神武がある。だから、あなたが皇位について、皇祖の後継となるのが正しいでしょう。
わたしはあなたの助けとなって、神祇を司り祀りましょう。」

平安末期に記された「多神宮注進状」によると、

翌年(紀元前580年)、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇(天津社・国津社)を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀させた。

とあり、まさに、この神籬と磐境を立てたことを以って、創建とする。

さらに、

崇神天皇7年(紀元前91年)、神八井耳命の5世孫の武恵賀前命により、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈宝し、この土地を多郷(おおのさと)と呼ぶようになった。

と伝わっている。

天津日瓊玉命・天璽鏡劔神というのが「ご神体」「依り代」なのだろう。よくわからないが、見た感じ、瓊玉と鏡と剣で三種神器を連想させる名称ではある。

その前年(崇神天皇6年)に、宮中にあった八咫鏡(天照大神の神威が宿る鏡)を宮中から出して笠縫邑に遷し、そこから檜原神社に遷り、、、、、最終的に伊勢の地に遷し奉ったという伝承がある。

当地はまさに笠縫邑。この伝承に合わせて、三種神器の複製品をご神体としたのかも、、、と想像する。

そして、そのご神体に宿る祭神はというと、

●珍子賢津日霊神尊(うつのみこ さかつひこ神)
●天祖賢津日孁神尊(あまつおや さかつひめ神)

と記されており、さらに、その2座に次の神々を充てている。

●珍子賢津日霊神尊=天忍穂耳尊=天照大神の御子
●天祖賢津日孁神尊=天疎向津媛命=天照大神の荒魂

稲穂の神と太陽の神。すなわち「農耕神」として祀られていたと思われるが、先の宮中から出されたという伝承も取り込んで、天照大神が御子神を「農耕神」としたという解釈となろうか。

時代は下って、室町時代の「和州五郡神社誌」によると、祭神は、次のように変化している。

●水知津彦神(みしりつひこ神)
●火知津姫神(ひしりつひめ神)

変化してはいるが、水と火(日)で、農耕神が祀られているという点は同じだ。

そして、「みしりつひこ」が現在の神社名であることに気付く。さらに、「ひしりつひめ」からは、この場所の特異性が感じられる。

ここは、春分の日には三輪山頂から日が昇り、二上山に日が沈む場所。

「ひしりつひめ」は「日知津姫」とも書き、「日を知る姫」すなわち農耕には欠かせない「日読みの神」という性格も含めたということになろう。

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多神社 参拝記録

奈良盆地の南部、田原本町と橿原市の境あたり、春は桜並木が美しい飛鳥川の畔に多坐彌志理都比古神社は鎮座している。

飛鳥川の桜

一の鳥居は寺川沿いにあるが道路が狭い。神社へは飛鳥川沿いからの方がアプローチしやすいだろう。

駐車場

社頭の左手に大きな駐車場がある。まずは問題なかろう。

賽社

鳥居をくぐる手前の左に小さな祠が一つ。「賽社」と記されている。賽社の賽は「賽銭箱」の賽だ。

賽には、「福を授かった時、神様にお礼参りをする」という意味があるという。

八幡社

鳥居の手前の右手に「八幡社」が鎮座する。

この画像が明るいのは、1週間後にもう一度参拝した時に撮影したものだからだ、、、

二の鳥居

これが二の鳥居。内参道は広く長い。

前述の通り、一の鳥居は、ここから1kmほど離れた寺川沿いにある。いかに大きな神社だったかがわかる。

境内社3社

内参道の途中右手に祠が3基。右から、石上社、春日社、住吉社

境内社2社

同じく内参道の右手に、境内社が2社ある。左側は熊野社だが、右側は不明である。

祓戸社?

本殿に一番近い境内社。社名の掲示はないが、推測するに「祓戸社」ではないかと、、、

本殿エリア

拝殿

立派な拝殿。狛犬は天保年間に奉納された浪速式狛犬。

二拝二拍手一拝。

拝所横に立っている、筆を持ったキャラクターは「まろちゃん」。古事記を編纂した「太安万侶」だ。

合格絵馬

五角形の絵馬がぶら下がっていた。

「五角絵馬(ごかくえま)」→「合格絵馬(ごうかくえま)」

ということだと思われる。

古事記を編纂した功績にあやかって、太安万侶の利益が「学業向上」だからだ。

受験シーズンともなると、多くの学生諸君が参拝に訪れるという。

本殿

結構大きめの春日造りの神殿が4基、ズラリと並んでいる。まるで春日大社か枚岡神社のようだ。

この枯れた感じがいいではないか。

裏から見ると、その大きさがよくわかる。

本殿裏の雑木林は、ひときわ気持ちがいいスポットだ。この日は雨であったが、それでも心地よかった。

本殿裏の雑木林

この雑木林、めちゃくちゃ気持ちがいい。本当に気持ちがいいのである。

この雑木林の中を西へ西へと、ザクザクと落ち葉を踏みながら歩いていく。

モンキチョウが二匹、ヒラヒラと足元にまとわりつきながらついてくる。

徐々に後頭部当たりがジンジンとしびれてくる。

生えている草の種類が突然変わる。

と、そこに、、、

神武塚

この祠の向こうのに見える小さな丘が神武塚。

創祀伝説にある、「神八井耳命が神籬磐境を立てて、自ら神祇(天津社・国津社)を、、、」の場所がここだったのかもしれない。

と思わせるほどの、パワーを感じる場所であった。

境外摂社

境外に摂社が4つある。

なんと、そのすべてが式内社とのこと。

大和志料によると、本社の2座に下記の4座を加えて「意富(おお:多)六所神社」と称すると記されている。

  • 姫皇子命神社・・・ 祭神:姫皇子命(本社内参道から東に抜けて260m)
  • 小杜神社・・・ 祭神:太朝臣安萬呂(本社入り口から南へ160m)
  • 皇子神命神社・・・ 祭神:皇子神命(小杜神社から南へ120m)
  • 屋就神命神社・・・ 祭神:屋就神(本社入り口から西へ400m)

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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