住吉神社|東京佃島|隅田川のパワーが吹き上がる境内
住吉神社は、東京都中央区佃1丁目に鎮座する神社である。
(住吉神社は沢山あるので、便宜上「佃住吉神社」とさせて頂きたい)
ここ佃島は徳川家康が江戸入りしたころ、砂洲に造られた人工の島で、北隣の石川島と合わせて、隅田川河口を守るような位置にあったようだ。
現在では、明治以降に埋め立てが進んだ月島・勝鬨・豊海と一体化。
東京ベイエリアと呼ばれる都市の側面も持ちながら、「路地裏に並んだ植木鉢」といったノスタルジックな側面も併せ持つ、魅力的な地域である。
佃住吉神社について
佃住吉神社 概要
- 所在地 東京都中央区佃1丁目1−14
- 電話番号 03-3531-3500
- 主祭神 住吉三神・息長足姫命・東照御親命
- 創建年 1646年
- 社格 郷社
- 公式HP http://www.sumiyoshijinja.or.jp/sumiyoshi.html
佃住吉神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 地下鉄有楽町線・大江戸線「月島駅」徒歩5分
駐車場
- なし
佃住吉神社の祭神
底筒之男命、中筒之尾命、表筒之男命、すなわち住吉三神を主祭神とし、合わせて息長足姫命、東照御親神を祀る。
住吉三神
伊邪那岐命が黄泉の国(死者の国)から戻ったとき、身に付いた穢れを祓うために「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(流れのある海峡と思う)で禊を行うことにした。
身に着けていた装飾品や衣服を脱ぎ、瀬に入って、その海底・中ほど・海面のそれぞれで身を清めた。
すると、そのそれぞれで神が生まれた。それが、底筒之男命、中筒之尾命、表筒之男命。
総称して住吉三神と称する。
息長足姫命
14代仲哀天皇の后「神功皇后」のことである。
「新羅を征服せよ」という住吉三神のお告げを適当にスルーしたため、神の逆鱗に触れて崩御した夫「仲哀天皇」に替わって、三韓征伐を敢行した勇猛果敢な女神。
しかもその時、15代応神天皇を身籠っていたというから驚きだ。
出産時期を遅らせるために、腹に石を抱いていたらしい。その月延石は3個あって、長崎の月読神社、京都嵐山の月読神社、福岡は糸島の鎮懐石八幡宮に奉納されている。
東照御親神
徳川家康公を指す。特に説明は必要ないだろう。
徳川家康と佃島の関係は、次の「創建」の項に譲ることにする。
佃住吉神社の創建
佃住吉神社の創建は1646年である。
そこから遡ること60年前の1586年のこと。
徳川家康と摂津国田蓑村の漁民
豊臣家の家臣となり上洛した徳川家康は、住吉大社に参拝し、そのあと徳川家の先祖とされる清和源氏の宗廟「多田院」(現:多田神社)に参拝することになった。
堺から川西へ。
途中、田蓑村に差し掛かると神崎川(当時は淀川と並ぶ大河)が立ちふさがる。
そこに、田蓑村や大和田村の漁民たちが続々と船を出し、家康一行を無事に対岸に渡し、さらには白魚を献上。家康公は大層感激したという。
漁民から海上隠密へ
時は流れて、江戸幕府が開幕。そして「大阪冬の陣」の前年となる1613年。
家康は、田蓑村の漁民たちに西国における漁業権を与え、江戸城へ白魚を献上するよう命じる。免税のお墨付きまでも。
これすなわち、漁業の傍ら西国(豊臣方)の情勢を探って江戸へ報告せよということだ。
佃村漁民の江戸移住
3代家光の世となった1644年。佃村(田蓑から名称変更)の漁民たちが江戸に移住、引き続き献魚の任にあたることになる。
おそらくは、ここでも江戸前の海上偵察の任務が与えられたに違いない。
移住当初は安藤対馬守の屋敷に仮住まいしていたが、武家屋敷に武士以外が棲むことを禁止されたため、幕府より隅田川河口の干潟を与えられ、自分たちで埋め立て工事を行って人工島を造成。
いわば、
住吉神社の創建
江戸へ移住のとき、佃村に鎮座する田蓑神社の宮司の弟「権太夫好次」も江戸へ。
1646年佃嶋が完成し、社殿を建立。そこに田蓑神社の分霊を祀った。これが、佃住吉神社の創建物語である。
佃住吉神社のご利益
佃・月島・勝どき・豊海の産土神であることはいうまでも無い。
住吉三神が伊邪那岐命の禊祓で顕われた神であるからして、心身ともに穢れを祓っていただけるのである。「心機一転」新しいことをはじめる人や、最近ツイてないなという人にお勧めである。「厄払い」のご利益だ。
また海の神であり、三韓征伐において筑紫から朝鮮半島までの航海を守護した神であるからして、航海安全のご利益がある。拡大解釈して「大漁安心」「交通安全」のご利益もいただこう。
息長足姫命からは、安産の守護をいただける。
東照御親命(家康公)からは、子宝や出世運を頂こうではないか。
佃住吉神社までの道程
メトロ有楽町線「月島駅」を降りる。6番出口から地上に上がる。地上に出たところの交差点を左折。そのっまドン突きまで歩き、ドン突きを左折。
ぐにゃっと曲がって、高架道路の側道に出る。
この側道をしばらく歩くと、右手の奥のほうに川が見える。「佃川支川」という。
流れが無く行き止まりになるので「佃堀」とも。
この川の左側が、まさに最初に造られた佃島。右側が明治に埋め立てられた月島である。よって、住吉神社はこの川の左側にあるはずだ。
川沿い(右側)を歩いていると、神社があった。
於咲稲荷神社と浪除稲荷神社
お稲荷さんの祠が2基並んでいる。於咲稲荷神社と浪除稲荷神社である。
住吉講が管理している稲荷社で、同じく住吉講が管理する稲荷社が佃島側にもあるようだ。
さらに、しばらく歩くと赤い欄干の橋が見える。
佃小橋
1984年、佃川支川に架けられた橋。
龍虎の頭(かしら)
造られた年代は定かではないがかなり古いものらしく、江戸時代から大正期まで住吉神社大祭の獅子頭宮出しや御練りで用いられていた「龍虎の獅子頭」である。
現在は大祭期間中、隅田川畔に設置した「龍虎の庭」と呼ばれる御仮屋に安置されるとのこと。
佃嶋に伝わる伝承によると、
かつて佃島で起こった落雷による火災をば、この龍頭が水を噴き、さらに虎頭が砂を吐いて消火した
という。
関東大震災でもこの故事に倣い、火伏の龍虎の頭を猛火に向けて置き、火災から島を守ったともいわれている。
佃島から隅田川の対岸を望む
隅田川の堤防に上り、対岸を見る。かつてはここが河口だったわけだ。
この隅田川に向いて大鳥居が立つ。
大鳥居
この歩道の左側が隅田川で、右側が佃島。前方に見える灯台は石川島で、江戸時代には人足寄せ場(経犯罪者の更生施設のようなもの)があったという。
さあ、この鳥居をくぐって、いざ住吉神社へ。
佃住吉神社 参拝記録
地下鉄を降りてから、なんだかんだで15分。住吉神社の鳥居に到着である。
住吉神社の鳥居
鳥居にかかる扁額は、なんとも珍しきかな「陶製」である。
有栖川宮幟仁親王の筆とのこと。明治15年
佃住吉神社 拝殿
直線的な形状は、どこか住吉大社の本殿を彷彿とさせる。拝殿の多くは唐破風が施されているのだが、唐破風が無い方が、よほど神道的で良いと感ずるのは私だけであろうか。
二拝二拍手一拝。
本年の夏頃に、勧請元である摂津佃の「田蓑神社」に参拝させていただいた。その記事を書くにあたって、佃島や住吉神社についても学んだ。
今こうして、神前に立たせていただけていることに感謝申し上げるのみである。
船魂神社
境内の左側に境内社「船魂神社」。幕末の尊王攘夷運動が吹き荒れる文久3年に鎮座。
祭神は、船舶に宿る神霊「船魂神」と「住吉三神」が祀られている。
住吉大社の船玉社には、船舶に宿る神霊として「天鳥船命」「猿田彦神」が祀られていた。
そのお隣に鎮座するのが、「疫神社」と「疱瘡神社」の合祀殿。「素戔嗚命」「疫神」が祀られる。
嘉永3年に鎮座。文久2年の疱瘡大流行時には、疫病退散の祈りが捧げられた。
入船稲荷神社
本殿の右奥に鎮座するのが「入船稲荷神社」。祭神は「宇迦之御魂神」。食物を司る神。永らく衣食住の安定を祈願してきたことから、現在では商売繁盛の神として信仰される。
明治に入ってから、大伝馬町より遷座したという。
謎の祠
本殿の左奥、レンガ造りの倉庫の前にひっそりと鎮座する石造りの祠。私の直感では「水神社」。
調べたところ「古河神社」といい、川を守る神が祀られているという。「かっぱ様」とも呼ばれているらしい。
当たらずとも遠からず。
パワースポット 龍神社
境内の左側にある「龍神社」。
祭神は、「豊玉比売命」「於迦美大神」「龍姫大神」。ご神徳及びご利益は、水の守護神・病気平癒・開運出世・商売繁盛 ・諸芸上達とのこと。
私がこちらの境内で最もパワーを感じたのが「龍神社」。いや、正確には「龍神社」と社務所の間の隙間である。
奥の灯篭の右手斜め前に立った時に、地面から天空へと突き上げるようなパワーと感じた。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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