綱敷天神社|北区神山|キタの外れにある聖域。

2018年5月24日

大阪随一の繁華街「キタ」。東通り商店街のアーケードを抜けたあたりに、綱敷天神社は鎮座する。

天王寺やミナミに比べて上品なキタの中においては、僅かに猥雑なエリアである。

さて、キタの北にあたる茶屋町には「綱敷天神社 御旅社」が鎮座している。こちらも重要な神社である。その証拠に「御旅社」であって「御旅所」ではないのだ。

ちなみに、キタの南のはずれには露天神社が、そして西のはずれの福島には福島天満宮が鎮座している。このように、キタは東西南北を天神社・天満宮で囲まれているようだ。

だからどうということはないのだが、、、

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綱敷天神社について

綱敷天神社の概要

  • 所在地   大阪市北区神山町9番11号
  • 電話番号  06-6361-2887
  • 主祭神      嵯峨天皇、菅原道真公(綱敷天神)
  • 創建年      843年(神野太神宮)
  • 社格   なし
  • 公式HP     http://www.tunashiki.com/

綱敷天神社 アクアセス

MAP

最寄り駅 

  • 地下鉄谷町線 中崎駅 南へ400m

駐車場  

  • あり

綱敷天神社の祭神

綱敷天神社の主祭神は「嵯峨天皇」「菅原道真公(綱敷天神)」の二柱である。

また本殿には、天照皇大御神、応神天皇、春日大神、住吉大神、天穂日神、蛭子大神、大国主大神、猿田彦神、紅梅殿、白太夫神霊、事平神、手力雄神も合祀されている。

これらの神々は、戦前、末社に祀られていた神々。戦火によって社が焼失したため、本殿に仮遷座したということのようだ。

嵯峨天皇

第52代天皇の嵯峨天皇は、平安京を開いた桓武天皇の皇子。本名を「神野」(かみの)という。

多くの妃を持ち、多くの子をもうけた。財政難のおり、増えすぎた皇室を整理するために、多くの皇子が姓を賜り臣籍降下したという。嵯峨源氏の始まりである。

菅原道真公(本宮:綱敷天神)

菅原道真公は、平安時代の文学者にして政治家である。

幼少から類まれなる才能を発揮し、成人してからのその秀才ぶりたるや。宇多天皇に重用され出世街道まっしぐら。醍醐天皇の御代には右大臣にまで上り詰めた。

しかし、左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷。

大宰府への旅路で留まった場所には、今も道真公の偲ぶ地名や史蹟などが残されている。ここ綱敷天神社もその一つであるのだが。。。

大宰府にて、冤罪が晴れるのを待ち侘びながら、失意の内に死去。「天満大自在天神」となったとも。

その後、都では道真公を陥れた人々やその身内が次々に死去したり、宮殿が落雷によって焼失したりと、災いが発生。

それを天満大自在天神(道真公)の祟りと恐れた朝廷が、京都の北野に道真公を祀る神社を創建。北野天満宮の始まりである。

こちらでは「綱敷天神」と称され祀られている。

綱敷天神社の創建

神野太神宮の創建

今を遡ること1200年ほど前の822年のこと。第52代嵯峨天皇が難波津に行幸されたとき、現鎮座地に仮の宮殿を造営して宿舎とした。

当時のこのあたりは風光明媚な景観で、皇室や貴族が訪れる人気のスポットであったらしい。

842年、嵯峨上皇が崩御。その翌年の843年、嵯峨上皇の皇子である源融(みなもとの とおる)が亡き父の追悼のために、仮の宮殿跡に嵯峨上皇を祀る社殿を造営。

嵯峨上皇の名である「神野」をとって「神野太神宮」(かみのたいじんぐう)と名付けた。

これが、現在の綱敷天神社の創建と言えようか。

菅原道真公の足跡

それから半世紀後の901年。菅原道真公が太宰府へ下向する途中のこと。このあたりの梅林が美しく咲き誇っていたため、太融寺参拝をかねて、梅花見をすることにした。

罪人としての質素極まりない旅である。道真公は、立って梅を見ていた。それを痛ましく思ったこの地の人々が、船を陸につなぎ止める「とも綱」を地面に丸く敷き、即席の円座を作って、座っていただいたという。

これがすなわち「綱敷」

その綱を敷いた場所は、「神野太神宮」(現:綱敷天神社)の少し南にあった「梅塚」の場所付近であったのだろう。

梅塚天神社の創建

さて、道真公がこの地を後にする際、道真公誕生からずっと守役を務め、この旅にも同行していた度会晴彦(外宮の神家)をこの地に留まらせ、自分が京に戻るのを待つように指示された。そして「白江」という姓を与えた。(今でも綱敷天神社の宮司さんは白江氏である。)

白江氏は、その「御綱」と「御影」をご神体として、梅の樹の下に社を構え斎き奉ったという。

これが御旅社の起源、「梅塚天神社」の創建である。

喜多埜天神社の創建

993年。京都の北野天満宮に祀られる道真公に「正一位太政大臣」が贈られた。冤罪が晴れたわけだ。

時を同じくして難波の喜多埜(北野)にあった社殿を再建して、道真公「綱敷天神」を祀ることになった。

(と、「天神宮綱敷御影略縁起」に見えることから、この時点ではすでに「神野太神宮」は荒廃していた、あるいは、ほとんど知られていなかったと思われる。)

そして、白江氏が祀る梅塚天神社も再建された喜多埜の社殿に合祀されることになり、名を「喜多埜天神社」あるいは「綱敷天神社」と称することになった。

この時点で「喜多埜天神社」(現:綱敷天神社)には、綱敷天神(菅原道真公)と梅塚天神(菅原道真公)の二柱の道真公が祀られることになる。

そして梅塚天神社の跡地は「御旅所」となった。(現在の御旅社の場所ではない)
(御旅所の変遷については、綱敷天神社御旅社の記事でご紹介しようと思う)

このように、綱敷天神社(神野太神宮)に梅塚天神社が吸収合併されたように見えるわけだが、「喜多埜天神社」の神職は「白江氏」であることからすると、奉りの本流は「梅塚天神社」にあると思うのだが、どうだろうか。

そういう意味では、993年が綱敷天神社の創建ともいえるし、梅塚天神社の創建が綱敷天神社の創建ともいえる。

ややこしいのである。

綱敷天神社のご利益

嵯峨天皇より、文化守護・書道上達・天下泰平などのご利益がいただける。

また、菅原道真公より、学業向上・和歌上達・冤罪救済などのご利益を頂けるとのこと。

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綱敷天神社 参拝記録

谷町線豊崎駅を降りる。3番出口から地上に上がるのが近いだろう。

地上に上がるとローソンがあるので、ローソンに沿って右に曲がる。

しばらく歩くと、キングコングがビルにへばりついている。目印だ。

そのまま道なりに歩くと、ものの2~3分で鳥居が見えてくる。

鳥居

神社の向かい側は飲食店街である。

685年に奉納されたという手水鉢。

当時の梅田は海に近かったため、井戸水に含まれる鉄分と塩分が反応して赤くなることが多かったらしく、手水鉢の赤茶けた色はその名残らしい。

大阪において、綺麗な湧き水は大変貴重であるとされていたことを思い出した。

まずは一礼して水の神様に挨拶申し上げてから手口を漱ごうではないか。

拝殿

裏山(神山)が吹き飛ばされるほどの破壊力を持った爆弾が降り注いだ大阪大空襲。当然ならが社殿も焼失した。

そんな中でも、ご神体の御綱や御影を守りきった神職の方々はスゴイ!と思うのである。

二拝二拍手一拝。

喜多埜稲荷神社

宇賀御魂之神を祀る。「宇迦」ではなく「宇賀」。喜多埜と名がつくことから、かなり古い時代からある稲荷社であると想像する。

農耕の神であるが、現在では商売繁盛の神として信仰を集める。

萬載橋の欄干

その喜多埜稲荷神社の鳥居の足元に、橋の欄干が据えられている。

この地から少し北、神山町と万歳町の境目あたりに架けられていた萬載橋という橋で、梅田が市街地化する中で、記念としてこちらに移設したものらしい。

かつての浪速八百八橋のうち、現存する最古の欄干と言われている。

橋名の由来は、萬の米俵を載せても大丈夫という意味だとか、この橋の上で芸人が話芸を披露していたからだとか。所説ある。

神牛舎(左)

天満宮の境内に必ず奉納されている「神牛」。牛は天満自在天神の使いなのである。

なぜか?

一つ、道真公は丑年の丑の月・丑の日・丑の刻に誕生したから、

二つ、棺桶を運んでいた牛が、突然地面に臥して動かなくなり、そこに道真公は埋葬された。これは、道真公が牛に「私をここに埋葬してくれ」と教えたから。すなわち、牛は道真公と意思の疎通ができるというわけだ。

なので、まずは神牛に祈願してから本殿に参拝するのがよかろう。神牛が道真公に伝えてくれるかもしれないからだ。

白龍社

神牛舎の右側にある祠は「白龍社」という。白龍大神と猿田彦大神が祀られている。

白龍大神

龍神あるいは白蛇神。すなわち屋敷神である。

昔は、白蛇が棲みついた家は隆盛するとされ、縁起のいい蛇と言われた。

終戦直後のこと。私の母の実家(カフェだった)に棲みついていたらしい。

それでかどうか、戦後の大変な時期だったにも関わらず、私の母は不自由なく、むしろカフェが進駐軍の兵隊さんの社交場となって、贅沢な生活を送ることが出来たようだ。

猿田彦大神

道開きの神。開運の神。

高天原から降臨してきた瓊瓊杵尊を高千穂の峰に道案内した国津神である。

猿田彦命は、かなりの実力者であると、私は見ている。

その容姿は「赤ら顔で、目がほおずきのように赤く光り輝き、異様に鼻が高い」。天狗のモデルとなった。

鈴鹿山系の修験道の祖ともされ、鈴鹿の椿大神社(つばきおおかみのやしろ)に祀られている。

嵯峨天皇を偲ぶ

綱敷天神社は、そもそも嵯峨天皇を祀る御廟社だったのだが、時代の変遷の中で天神様がクローズアップされてきた。

しかし、ちゃんと嵯峨天皇を偲ぶ史蹟もある。

筆塚

一見、大砲の弾?あるいは、男根信仰?と見紛うのだが、これは筆。

嵯峨天皇は日本の書道において、空海、橘逸勢と並んで「三筆」と称される書の大家なのである。

書道を嗜まれる方々は参拝しておきたい神社である。

最後に、嵯峨天皇の「日本で最初に・・・した天皇」という逸話を2つほどご紹介しよう。

日本で最初に「桜の花見」を催した天皇

ここで言う「花見」とは、「宴会を伴う花見」を指す。

812年、京都の神泉苑で観桜の宴を催したと日本後紀に記されている。梅に代わって桜が日本を代表する花になったのも嵯峨天皇の趣味からだそうだ。

日本で最初に燗酒を飲んだ天皇

825年、交野に狩りに出かけた天皇。秋の夕方ともなると冷え込んでくる。そこで、体を温めるために、酒を温めて飲んだと伝わる。

唐から屠蘇が伝わったのも嵯峨天皇の御代。なかなかに、酒に縁のある天皇である。

近隣の日本酒を扱う料理屋さんは、是非参拝して頂きたい。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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