北野天満宮③|京都|北野天満宮の真髄を見たり!地主神社・文子天満宮など。

2019年6月29日

北野天満宮は、京都市上京区にある神社で、二十二社の下七社に選定された霊験あらたかな神社である。

前回の記事では、一の鳥居から入場し、京都三珍鳥居を見学、楼門、三光門をくぐって、本殿を参拝した。学生諸君の面々には、ひとしきり学業向上を祈願していただいたことと思う。

今回は、本殿の裏手にある境内社を巡ることになる。下の境内図の、黄色で表したスポットだ。

学生諸君、「そんなの、僕らには関係ないじゃん!」と言うなかれ。北野天満宮の真髄が隠されてあるのであるからして。

では、スタートする。

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北野天満宮 概要

  • 所在地  〒602-8386 京都府京都市上京区馬喰町
  • 電話番号  075-461-0005
  • 主祭神  菅原道真公
  • 創建年    947年
  • 社格   二十二社
  • 公式HP   http://kitanotenmangu.or.jp/index.php

北野天満宮 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 京福電鉄北野線「北野白梅町」徒歩8分(大鳥居まで)

駐車場

  • あり(有料)

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北東の境内社

北東と言えば「鬼門」を思い浮かべるだろう。神社でもそのような考え方はあるようだ。であるがゆえに、大切かつ強力な神が鎮座している予感がする。さてどうだろう。

本殿域から出て、東側の参道に出る。この参道は楼門から一直線に伸びる本来の参道だ。

第一摂社 地主神社

参道の突き当りの手前の左手に「地主神社」が鎮座している。北野天満宮”第一の摂社”「地主神社」だ。

836年の創建というから、道真公が生まれる以前のことだ。よって、当然ながら、北野天満宮創建以前からこのあたりに鎮座していたということになる。

まさに、本殿の鬼門の方角に祀るに相応しい神社である。

主祭神

祭神は、遣唐使の派遣に際して祀られた「天津地祇」。

天津地祇とは、すべての天津神と国津神という意味になろう。とにかく日本国中の神を全て祀ったということになる。

配神

配神に、敦実親王・斎世親王・源英明朝臣を祀っている。

敦実親王

醍醐天皇の弟。なぜ祀らているのか、よくわからない。

斎世親王

醍醐天皇の弟で、菅原道真公の娘「寧子」の夫である。

そもそも道真公の冤罪とは、醍醐天皇に代わって、娘婿の斎世親王を皇位に就けようとしたという嫌疑であった。道真公左遷と同時に斎世親王は出家し仁和寺に入ったという。

源英明

斎世親王と寧子の子であるからして、道真公の孫にあたる。父の出家で不遇の幼少期を過ごした。公卿目前の蔵人頭まで昇進したが、28歳の若さで亡くなった。

短命の親王たち

道真公冤罪事件に関係した醍醐天皇の親王たちは、短命な方々が多い。それは道真公の祟りであると噂されるのだが、

その中で敦実親王だけは長命で内外から重んじられたらしい。もしかしたら、敦実親王だけは道真公の味方だったのかもしれない。。。

文子天満宮(あやこてんまんぐう)

地主神社の御斜め奥に「文子天満宮」が鎮座する。

祭神は「菅原道真公」

下記の創建由来は、下京区天神町ある文子天満宮の由来である。

菅原道真公の乳母(うば)をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)は、自分の家の庭に小さな祠(ほこら)をもうけ、道真公を拝んでおりました。そんなおり、天慶5年(942)道真公は多治比文子に北野の右近の馬場(現在の北野天満宮の地)にまつってもらいたいと託宣(お告げ)され、天暦元年(947)に北野天満宮が鎮座されました。

文子天満宮HPより引用

学問、良縁、子育てのご利益を頂ける。

竈神社

東門の方向に進むと、左手にある手水舎の裏手に「竈神社」がある。

神社の祭神は、庭津彦神・庭津姫神・火産霊神の三柱。

竈神社の祭神

庭津彦神・庭津姫神

男女対の神で、竈・屋敷・家庭の守護神である。

火産霊神

古事記では火之迦具土神火を司る神。生まれた時、伊弉冉尊の陰部に致命傷の火傷を負わせた神である。そのため父である伊弉諾尊に斬り殺される、可哀そうな神だ。と私は思う。子供に罪はないではないか!と。

ご利益

料理が上手になりたい人、家庭を大切にしたい人は、是非とも参拝頂きたい。火災除けのご利益もある。

元に戻って、地主神社の左側の社に進もう。天満宮独特の神が鎮まる社があるのだ。

本殿裏の摂末社群

老松社

老松社の祭神は「島田忠臣」。こちら、各地の天満宮に祀られている天満宮ならではの祭神だ。

道真公の家臣とも、夫人の父親とも言われている側近中の側近。側近中の側近であるからして、死後、天満大自在天神の第一の眷属となった。

何故に「老松」なのか、、、それは、、、

道真公は、自分の死後にこの松の実を北野に蒔くよう島田忠臣に託した。後年、北野の地にこの実を蒔くと、一夜にして松林が出現したという。

という逸話によるものだろうか。というのも、今では「林業の神」として信仰を集めているのだからして。

十二社殿

本殿の真裏に位置する横長の合祀殿。12柱の神々が祀られている。

では、12柱の祭神をご紹介しよう。

「それは、もういい!」とおっしゃる方々が多いと予測し、12柱の神々の説明は下のボタンをタップすると見えるようにしておいた。

崇道天皇社

<崇道天皇> 五穀豊穣の神

崇道天皇とは早良親王のことである。崇道天皇の名称は早良親王の怨霊を鎮めるために贈られた称号であり、そのために創建された神社が崇道天皇社。すなわち御霊神社の性質を持つ。奈良の紀寺町に本社がある。そのご分霊と思われる。いずれにしても怨霊だ。

吉備大臣社

<吉備真備> 家内安全の神

奈良時代の学者で官僚の「真備公」は、道真公に負けず劣らずの秀才だ。地方出身者としては破格の出世をした人で右大臣まで昇格した。奈良時代の大秀才である。大宰府に着任したこともあり、道真公と共通点がある。

下御霊神社に祀られているが、怨霊ではなく、祀られている怨霊たちの和魂として祀られているという解釈がされている。

櫻葉社

<伊予親王> 喉の病気平癒・音楽・声楽・謡曲上達の守護神

伊予親王は、西暦800年前後を生きた桓武天皇の第三皇子である。こちらも政変に巻き込まれ「冤罪」にて幽閉される。その後幽閉先で、母とともに服毒自殺を図った悲劇の皇子。怨霊である。

白太夫社

<度会晴彦> 子授け・安産の神

渡会晴彦は、伊勢の外宮の神官である。若くして白髪だったため「白太夫」。菅原家には跡継ぎの無かった。この春彦が子授けの祈願をすると、道真公が誕生。その縁で道真公の守役として使えることになった。

老松社

<島田忠臣> 植林・林業の神
前述の通りである。老松社はあともう1社、この境内に存在する。

太宰少貳

<藤原広嗣> 武道上達の守護神 恵雨の神

奈良時代の官僚。順調に出世をするも、派閥争いの結果、大宰府に左遷される。大宰府にて時の権力者「橘諸兄」の批判を行ったため召喚を命じられる。しかし広嗣は召喚に応じず武装。朝敵となってしまった。朝廷軍に敗れ処刑された。これを藤原広嗣の乱という。怨霊である。

淳仁天皇社

<淳仁天皇> 心願成就の神

淳仁天皇は、古文書には廃帝や淡路廃帝など書かれており、淳仁天皇の称号が贈られたのは明治に入ってからという。廃帝などという名からも不遇な天皇であったことが想像できる。

詳細はまたの機会にするとして、最終的には「冤罪」で咎められ廃位となり、復活を阻止したい勢力によって暗殺されたと思われる。間違いなく、怨霊である。

文太夫社

<文屋宮田麿> 延命長寿の神

平安初期の貴族。筑前守である。すなわち大宰府に関係するわけだ。こちらも謀反を計画しているという「冤罪」で伊豆に流罪となり、その後の記録はない。死後、無実が証明され、神泉苑の御霊会で慰霊されている。

藤太夫社

<藤太夫吉子> 大願成就の神

前述の「伊予親王」と共に服毒自殺した母「藤原吉子」を指す。怨霊だ。

橘逸勢社

<橘逸勢> 病気平癒の神

橘逸勢は、平安初期の貴族。こちらも謀反を企てているという「冤罪」で拿捕され、伊豆へ流罪になった。その時、姓を「非人」に改められたという。屈辱の極みである。伊豆への護送の途中で死去。怨霊となったとされ、御霊神社に祀られている。

大門社

<大門内供奉> 災難除け・難問解決の神

内供奉とは、宮中に仕えた高僧という意味だが、「大門」は筑紫の武蔵寺の住職のようだ。大宰府の近くらしい。
道真公が天拝山で無実を訴えた際、道真公の眷属になったという。道真公の祟りを助ける存在、あるいは祟りを実行する存在。

寛算社

<寛算入寺> 歯痛平癒の神

寛算とは、道真公の墓所となった筑紫の安楽寺の僧侶である。道真公が京で怨霊となたっとき、道真公の霊を慕って京に飛んできて自らも怨霊となり朝廷や藤原氏を悩ませたという。

このように、12柱のうち吉備大臣社だけは怨霊ではないものの、他の怨霊たちの和魂。それ以外の11柱の神々はすべて怨霊もしくは天神の眷属である。

これを見るにつけ、北野天満宮は怨霊の鎮魂を目的とする御霊神社の側面が強いといえよう。いや、まさしくそれが天満宮の真髄であり、それが天神信仰なのだ。

次は、謎の本殿裏の拝所と合格祈願スポットをご紹介しようと思う。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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