日前神宮・國懸神宮|和歌山|伊勢と並び称される日前宮。ご利益は『良縁・結婚』。

2016年4月20日

阪和道の和歌山インターを出て和歌山市内方面に向かって走行すると、左側にこんもりとした鎮守の森が見えてくる。それが日前宮。

大通りの裏側が正面であるがゆえに、向陽高校グラウンド沿いにぐるっと回り込んで南側に出よう。不二家のケーキ屋さんのある信号の左に駐車場入り口がある。少しくわかりにくい。しかし無料である。ありがたい。

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日前宮 参拝記録

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一の鳥居をくぐると、左に神楽殿、右に社務所がある。トイレはここで済ませておこう。

そして、社務所で御朱印帳を渡しておいて、いざ参拝。

二の鳥居の奥の奥の灯篭

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二の鳥居をくぐると、ぐっと神域感が出てくる。清涼な気を感じ、心が落ち着くだろう。

前方に目をやると、森へと入る参道が伸びている。鳥居周辺が明るいため、参道奥は薄暗く見えて、これがまた神秘的な印象を与えるのだ。

突き当りに、看板が。左:日前神宮、右:国懸神宮である。

と、このあたり、なんとも言えない雰囲気がある。

その気は、参道の突き当りのさらに奥からのようだ。森の中を見てみると、、、

大きな灯篭が二基並んでいる。そのほかには何もない。不自然極まりない。

何もないが、かつて、そこに何かがあったと思わせるような佇まいである。

あとから、江戸時代の境内絵図を確認したところ、そこには五十猛命の社とその妹たち2柱の社など、他いくつかの境内社が描かれていた。

日前宮全体絵図

上の画像は、紀伊国名所図会の日前宮。4ページ分をつなぎ合わせたもの。左側の大神殿が日前神宮、右側の大神殿が国懸神宮だ。そして左の下に鳥居がある。今と同じレイアウトである。

鳥居から伸びる広い参道を直進すると、大通りに末社群が小島のように2つ縦に並んでいるのがお分かりいただけるだろうか。その奥側の末社群を拡大すると、、、

五十猛社、鳴神社、須佐社、大屋姫・抓津姫社

いたける、なるかみ、すさ、大屋姫おおやひめ抓津姫つまつひめ、天神、八の御子のやしろが確認できる。石灯籠の奥に、これらが鎮座していた可能性は高いと感ずる。

天道根神社

さて、前述の分かれ道を左へ、すなわち日前神宮の方へと進むと、右側に「天道根命」を祀る「天道根神社」がある。

天道根命あめのみちね

饒速日尊の降臨に随従して高天原からやってきた神、瓊瓊杵尊の降臨に随従して高天原からやってきた神など諸説あるが、いずれにしても、神武天皇の東征に伴い紀州にやってきて、日像鏡と日矛を奉斎した神。その後裔が紀国国造となり、日前宮の祭祀を司ることとなる。

深草神社(腫物封じ)

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その前には「深草神社」。牛の置物が東向きに並べられていた。祭神は野槌神のづちのかみ

野槌神のづちのかみ。またの名を鹿屋野比売神かやのひめのかみ

伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子。同じく伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子で山の神である大山津見神おおやまつみのかみの奥さん。神格は、鹿屋=萱を意味するので「野草の神」

古来、牛は神様の使い(インドが発祥?)とされ、野槌神は野草の神であることから、神の使いである神聖なる牛が草を食んでくれる=クサ(腫物)を食んでくれるということで腫物封じのご利益を求めたということになるようだ。拡大解釈して、腫物=腫瘍=ガン。ガン封じのご神徳があるかもしれない。

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日前神宮

こちらが日前神宮ひのくまじんぐう。前述の通り、日前神宮の主祭神は日前大神ひのくまのおおかみ。ご神体は「日像鏡ひがたのかがみ」。相殿神として、思兼命おもいかねのみこと石凝姥命いしごりとめのみことを祀る。

ご利益も前述の通り、人々に活力を与え、良縁を結び、結婚の徳を授け、家内安全。一つ加えるとするならば、思兼命の知恵にあやかって、学業向上にご利益があるとしよう。

鳥居、玉垣、地面、、、ありとあらゆるところに苔が生えており、うっすら緑色をしている。それが何とも、しっとりした温かみを感じさせてくれて、よろしいのである。

さて、元の分かれ道まで戻ろう。

中言神社

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先ほどの分かれ道までもどり国懸神宮の方向へ進もう。すると左側に「中言神社」が鎮座している。こちらには「名草姫」と「名草彦」が祀られている。

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名草は和歌山市を本拠とした古代豪族。よって、旧名草郡すなわち和歌山市と海南市あたりは、中言神社が非常に多い。

日本書紀の「神武東征」には、

河内国で長髄彦の軍勢に追い返された神武一行は、「日の神の子だから、日を背にして戦うべき」と考え紀伊半島を反対側に回り込むことにした。その途中、和歌山の琴の浦に上陸し、その地の名草という女賊を誅した

と書かれている。

これに対して、和歌山の口承では、

「名草は負けなかった。神武軍を追い払った。」

と伝わっている。

案外、地元の口承というものは正しいことも多いと聞く。この口承は正しいと感ずる。何故かというと、、、

河内国で阻まれた神武一行は、次に紀ノ川沿いのルートを攻めたはず。紀ノ川を遡り五條市から御所市に入るルートは高低差も小さく最も容易なルートだからだ。後世には神功皇后がこのルートで大和入りしていることからもわかろう。

なので、紀ノ川の河口で名草一族を打ち負かしたのなら、紀ノ川を遡り大和へ入るルートを選択したはずだ。が選択しなかった。

このようなことから、河内で長髄彦に敗れ、紀の川で名草氏にも敗れたがために、遠く熊野まで迂回せざるを得なかったのだと想像することができる。

日の神の子だから、日を背にして戦うべき、、、というのはこじつけなのである。と、私は思う。

国懸神宮

こちらが國懸神宮。日前神宮と全く同じ設計である。と思われる。

主祭神は國懸大神。御神体は日矛鏡。相殿神として、玉祖命、明立天御影命、鈿女命(うずめ)を祀る。

こちらは、穏やかでありながら重厚感のある空気だ。

両方比べてみると、なんとなく、日前大神は女神で国懸大神は男神のような気がする。

そう思った理由は、

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この木は、国懸神宮の向かって左前の木。木の幹や枝にフサフサと毛が生えているように見える。よく観察すると、

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苔むした幹からシダだろうか、根元から枝の先までびっしりと。これが、男のスネ毛に見えて仕方がないのである。従って、国懸大神は男神なのだろうと想像した次第である。。。

まあまあ、それはそれとして。あらためて植物の生命力を実感させてくれた、興味深い木ではある。

最後に

日前神宮と国懸神宮は、官位を受けた記録がない神社。これは伊勢の神宮とここだけ。

そもそも官位というのは天皇が臣下に授けるもの。つまり、最高位の正一位であったとしても、天皇の臣下であることにかわりはない。

伊勢神宮に祀られる天照大神は天皇の祖先だから、官位を授けるなどということはできないわけだ。同じことが日前宮にも言えるということになろう。伊勢に並ぶ格式を誇る神社であることがわかる。

また、伊勢には内宮と外宮がある。こちらは、日前神宮と国懸神宮がある。よく似ている。

さらに、日前宮は紀伊半島の西の端、かたや伊勢神宮は紀伊半島の東の端に鎮座している。対になっているような。。。

そしてその真ん中に大和国があり、この3つを結ぶ線の地下には中央構造線が通っている。

このようなことから、この伊勢・日前の両神宮は、大和の地を、というか大和朝廷を、災害から守るために建てられたにのではないか?と言ってしまうのは言い過ぎだろうか。

先日の熊本大地震によって、阿蘇神社が倒壊してしまった。こちらも中央構造線上にある神社だ。

その他にも、諏訪大社、鹿島神宮、香取神宮、豊川稲荷など、中央構造線上には多くの由緒ある神社が存在する。

古代はもっと活発に断層が動いていて、巨大地震が頻発していたのではないだろうか。そこで、その場所に神様の依り代を設置し、地震を鎮める祭祀を行ってきたんじゃないだろうか。

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