茶臼山|古墳か山か、はたまた城なのか。不可思議かつ神聖なる小山は、癒しのオアシスであった!

2017年5月10日

大阪市天王寺区。JR天王寺駅から徒歩10分弱。茶臼山は、堀越神社、大江神社、四天王寺、一心寺、安居神社、清水寺、愛染さんなど、大阪を代表する寺社が集中する、まさにパワースポットエリアに存在する。

一生に一度の願いを叶えてくれると評判の「堀越神社」の裏手。標高26mの小山である「茶臼山」の他、「河底池」「美術館」「動物園」や飲食店などが芝生ゾーンを囲んで立並ぶ商業施設「てんしば」などを総合して「天王寺公園」と呼ぶ。

「てんしば」がオープンする前の天王寺公園といえば、日雇い労働者の集会所のようなありさまで、天王寺動物園に向かう通路沿いには、昼間から酒を飲み、踊り、大音量でカラオケに興じる労働者達で占拠されていた。

いまでも「てんしば」のファミマ前のベンチは、彼らが占拠しているのだが、当時とは比べ物にならないぐらい改善されている。子供連れでも安心して歩くことが出来る。

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茶臼山について

長らく茶臼山は古墳とされてきた。現在は微妙な状態。

伝承によると、5世紀ごろに造られた全長200mを超える大型前方後円墳とされてきた。

日本書紀によると、”四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る”とある。その荒陵ではないかともいわれていた。事実、茶臼山から出土したとされる石棺の蓋が四天王寺に奉納されている。

しかし、近年の発掘調査によると、古墳にはあってしかるべき埴輪や葺石がまったく発見されないことから、古墳であるという今までの認識に疑問が投げかれられている。

葺石とは、前方後円墳の多くに採用された、古墳盛土の表面に石を敷き詰める工法のことを指す。3世紀半ばの最古級の前方後円墳である「箸墓古墳」に採用されている。しかし、それ以前の弥生末期に造営されたとされる前方後円型の墳墓である「纒向型前方後円墳」には、葺石や埴輪は無い。

そう。茶臼山古墳は5世紀ごろの造営とされているので、葺石施工が盛んな時代。ところが、その葺石が発見されないから、古墳ではなかったのではと考えられるのも当然であろう。

しかし、平成の発掘調査で、水銀朱が塗られた石室様のものが発見され、一転、古墳であった可能性も残ってきた。詳しい調査結果が待たれるところだ。

ひとまずここでは古墳としよう。

ひとまずここでは古墳としよう。

茶臼山古墳の歴史は戦の歴史

茶臼山古墳は、近世には城や砦に使われた記録が残っている。

1546年(天文15年)、超名門で当時の管領であった「細川晴元」の家臣「山中又三郎」が茶臼山古墳の後円部に大塚城を築くが、翌年には舎利寺の戦いの際に、細川氏綱・遊佐長教に攻められ落城。

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣。住吉に本陣を置いた徳川家康は、12月5日に茶臼山に本陣を移動させた。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣。昨年の冬の陣のあと丸裸にされた大阪城。大阪勢は打って出るしかなく、「真田信繁」が本陣を張った。

藤井寺あたりで迎撃し「道明寺・誉田の合戦」、八尾あたりで迎撃し「八尾・若江の合戦」、とうとう大阪城近くまで追いつめられる。そして最後の大野戦「天王寺・岡山の合戦」が繰り広げられる。

その時「真田信繁」の本陣となったのが茶臼山である。

南北に細長い上町台地の地形を利用した毛利勝永勢の奮闘により、徳川勢の前線は混乱状態。その期を狙って、真田信繁勢が家康本陣を三度に渡って衝きまくる。家康は死を覚悟したという。

後日、あの絶対絶命の危機から逃れられたのは、茶臼山山頂の「茶臼山稲荷」のおかげとし、堀越神社境内に遷座して厚く祀ったという。

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茶臼山古墳 訪問記録

茶臼山古墳を訪れる際は、まず堀越神社境内の「茶臼山稲荷神社」に参拝するべきと心得る。

堀越神社は天王寺駅から谷町筋を北へ歩くこと10分だ。

茶臼山稲荷神社

前述したとおりである。

さて、茶臼山に向かおうではないか。

堀越神社の北側となりにコンビニがある。コンビニの奥がコインパーキング。その奥がエントランスだ。ここから茶臼山古墳に入ることが出来る。

入るとすぐに広場がある。わんぱく公園とかなんとかの名前がついていたように記憶するが、「わんぱく」ではなく「ワンカップ」片手のおじさんが数名。思い思いの場所に鎮座している。瞑想している?酩酊している?様々だ。

茶臼山登山口

茶臼山

標高26mの山であるから、ここは既に七合目あたりだろうか。頂上を目指そう。

頂上

わりと広い平坦部がある。周囲の樹木が無ければ見晴らしの利くいい場所であろう。大阪冬の陣では徳川家康が、大阪夏の陣では、真田信繁の本陣を張った場所。ここで軍議を開いたはずだ。そう思うと、身震いする。

NHK大河の真田丸の影響で、頂上は真田色だ。六文銭の旗指物が掲げられている。

三角点

いっちょまえに、三角点がある。

三角点があるということは、やはり古墳ではなく山なのか。。。おっとここに、三つ葉葵。徳川の歴史も顔をのぞかせる。

ちなみに、北隣の一心寺にいくと登頂証明書が頂けるようだ。

さて、中腹に山の周囲を一周できる歩道があるので、一周するのがよかろうと思ったが、膝が痛くなってきたので今回はパス。大阪城周遊の直後なので。。。

南面に河底池(ちゃぶいけ)と、それに掛る橋がある。

癒しのパワースポット 河底池と和気橋

最近塗り直したのだろうか。朱色が鮮やかである。

この橋が「和気橋」

和気橋の和気とは、「和気清麻呂」の名が由来である。

というのも、この「河底池」は、奈良時代の末期に「和気清麻呂」が、旧大和川の支流もしくは本流であった平野川の流路を大阪湾方向へ付け替えるために、茶臼山古墳の周濠を利用して運河を掘った跡であろうという伝承があるからだ。

しかし、上町台地の地盤が極めて頑強であったため断念。この運河は完成を見なかった。

ちなみに、「和気清麻呂」は弓削道鏡事件の主人公として有名である。皇室の血統を守った忠臣であるがゆえに、都の守護神として京都御所の西「護王神社」に祀られている。また現在では「足腰の神様」として、足腰の具合の悪い方やアスリートから厚く信仰されている。

河底池周辺は、のんびりとした癒しスポットだ。しばらく池のほとりのベンチで缶コーヒーなど飲みながら、龍脈に身をゆだねるのも良かろうと思う。

さて、そろそろ帰ろう。

大阪市立美術館前の階段

この階段の高低差が、かつての上町台地と海岸線の高低差であり、断層の成せる業なのだ。

この階段を降りると天王寺動物園。その先には、通天閣がそびえる新世界の盛り場が広がる。

ここで記憶の奥底から高校時代の思い出がフッと浮かんできた。

鶴瓶・新野のぬかるみの世界

ここからは、私の思い出の世界。読み飛ばしていただいて結構だ。

「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」というラジオ番組をご存知だろうか。50代前後の方であれば高校生か中学生の頃、日曜日の深夜0時から始まるラジオ番組である。

提供は、お好み焼きの「千房」。

笑福亭鶴瓶さんと新野新さんという放送作家が、本音でしゃべりあう番組だ。

話題は様々。あの人の握ったおにぎりは食べられるが、あの人の握ったおにぎりは食べる気がしないという「おにぎり談義」、あの人は男だが性格はオバンやなという「オジンオバン談義」など、どうでもいいけど「その感覚、わかるわかる!」という共感を得ることができ、高校生にはたまらないく面白かった。

初回放送時の、ゲストの甲斐よしひろとパーソナリティの新野新さんが喧嘩を始めた「歌謡曲アダ花論争事件」に至っては、リスナー(ぬかる民)内で「伝説」と化しており、初回放送を聞いた「ぬかる民」は、それだけで優越的地位を手に入れることが出来た。

約10年間に渡って放送された番組も最終回を迎える。その際に、初回放送を聞いていない「ぬかる民」の強烈な要望によって、録音テープが放送されることになったのだが、初回放送をリアルに聞いた「ぬかる民」の中には宝物を取られるような感覚を覚える人も多く、再放送の是非についても熱く議論された。

そんな番組中の会話の中から、勢いで「新世界ツアー」なる企画が持ち上がった。ぬかる民とパーソナリティとで、当時は今とは違って若者は近寄らない労働者の街「新世界」界隈を散策しようではないかという企画だ。

日時と集合場所がラジオで告げられる。当日、そこにリスナーが集合するというわけだが。。。

企画した鶴瓶さんたちの読みは甘かった。とんでもない人数の若者が新世界に現れた。数千人?その人数は忘れたが、危険な状態になったため急きょ中止となり、機動隊出動のもと、この美術館前広場でのトークショーに変更された。

私も当然ながら集合場所に向かってたが、その途中で中止の情報が入り、美術館にも近づけなかったので、新世界の串カツ屋で薄っぺらい串カツをつまみに、キリンラガービールの小瓶を友達3人と分けあって飲んで帰った。高校の制服のまま。。。

懐かしい。。。

最後は、皆さんには興味がなかろう話題になってしまったが、それはそれとして、茶臼山古墳と河底池は癒しのパワースポットとしてお勧めする次第である。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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