橿原神宮|奈良|日本建国の神武天皇を祀る。癒しパワーが積極的かつ楽観的にしてくれる!
奈良県橿原市。奈良盆地の最南に聳える畝傍山の麓に鎮座する「橿原神宮」。創建時から旧官幣大社を冠する大社で、奈良県の初詣客動員数は北の春日大社に次いで2位である。
大和三山のひとつである「畝傍山」を背景とし、広大な敷地に贅沢に配置された拝殿や本殿などの建造物と相まって、ゆったりとした時が流れる、まさに異空間となっている。
境内の北には神武天皇陵がある。合わせて参拝したいところだ。
橿原神宮について
橿原神宮 概要
- 所在地 〒634-8550 奈良県橿原市久米町934
- 電話番号 0744-22-3271
- 主祭神 神武天皇・媛蹈鞴五十鈴媛命
- 創建年 明治23年(1890年)
- 社格 官幣大社・勅祭社・別表神社
- 公式HP http://www.kashiharajingu.or.jp/
橿原神宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄橿原線・南大阪線「橿原神宮前駅」
徒歩で一鳥居まで600m、南神門まで900m - 近鉄南大阪線「橿原神宮西口前」(急行以上は通過)
徒歩で西鳥居まで100m、南神門まで600m
駐車場
- あり(有料)
橿原神宮の創建
もともとこの地は、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる。万世一系の日本にとって初の王宮の地ということにあろう。(異論多数あり)
明治維新以降の王政復古政策の一環ともとれるが、、、神武天皇を祀る神社の創建を求めた民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。
近代に創建された「神宮」としては、ほかに「平安神宮」や「明治神宮」がある。
平安神宮は、平安京を創設した「桓武天皇」と最後の天皇「孝明天皇」を祀っており、明治神宮は大正の創建で、祭神はもちろん「明治天皇」と「皇后」である。
橿原神宮の祭神
祭神は、大和朝廷「初代の天皇」とされている「神武天皇」。
そして、その皇后である「媛蹈韛五十鈴媛命」。大物主大神の娘である。
神武天皇
神武天皇、古事記では「神倭伊波礼毘古命」。諱は「彦火火出見」。幼名は「狭野尊」。
正式名称は「神日本磐余彦火火出見天皇」となる。
他にも様々な史書の中で、様々な呼び名で登場するが、ここでは割愛する。
神武の系譜
曾祖父:瓊瓊杵尊・・・天照大御神の孫。
曾祖母:木花咲耶姫命・・・山の神「大山積神」の娘。
祖父:火遠理命・・・上記の子
祖母:豊玉姫・・・海の神「大綿津見神」の娘
父:鸕鶿草葺不合命・・・火遠理命(山幸彦)と豊玉姫の子
母:玉依姫命・・・豊玉姫の妹。すなわち海の神「大綿津見神」の娘。
天照大神の血統に、山の神の血統と、海の神の血統が合わさったわけだ。有力氏族が他の有力氏族と姻戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図った様子を表しているように見える。
神武東征 概略
少し長くなるが、橿原神宮を参拝するにあたり、「神武東征」については知っておいて頂きたいと思う。しかし、めんどくさいと思う方、あるいは、既に知っているという方がほとんどだろう。すっ飛ばして頂いて一向にかまわない。
▼読んでやってもいいと思われる方は、コチラから!
決意。そして出発
神武は日向国に生まれた。ある日、兄弟とともに「大和国・中州」に向けて東征することになる。何故に大和国かというと、この大八島の国を治める中心となる土地は、天孫の一人であるところの饒速日尊が降臨していた大和の国であると確信したからだそうだ。 |
この時すでに神武は、饒速日尊の存在を知っていた事になる。
何年もかけて、豊後水道から瀬戸内海沿いを進み、河内国の生駒山のすそ野「日下」に上陸する。 |
当時の大阪は生駒山の麓まで入江が入り込んでいた。この入江から見る生駒の山々は、まるで、大和の前にはだかる大きな壁に見えたことだろう。
河内国での攻防
まず、龍田から大和入りを試みる。しかし、道幅狭く険しいため断念。次に生駒山を越えるルートを選択する。 |
龍田ルートは、現在の大和川沿いに進むルートだ。当時は国道25号線のような整備された道は無く、大和川に山が迫った極狭の道で、さらにこの辺りの斜面は脆く、落石が頻発していたと想像する。
生駒山を超えるルートとは、おそらく現在の暗峠だろう。
柏原から八尾を抜けて東大阪へと北上。孔舎衙坂あたりまで来た時、大和一帯を支配していた長髄彦軍と衝突し惨敗。兄の五瀬命は矢傷を負う。 |
長髄彦とは、先に大和入りを果たしていた天孫「饒速日尊」の義理の兄で、饒速日尊をリスペクトしていた猪突猛進型(私が作ったイメージ)の豪族である。
神武は考えた。「日神の子が、日に向かって(東に向かって)進軍するから上手くいかないのだ。日を背にするルートで進軍するべきだ。」 というわけで、紀伊半島の裏側、すなわち熊野から紀伊山地を超えて大和入りするルートを選択する。 |
生駒越えよりも熊野越えの方がはるかに険しい道程ではあるが、長髄彦軍が鉄壁の守りを敷いている生駒山系よりも、守りの薄い熊野から入り、途中の部族を吸収しながら進軍する方がいいのでは?と判断したのだろうか。
しかし、熊野から紀伊山地を抜けるルートは、車であっても厳しい。富士の樹海に入るがごとき険しい険しい行程であったはずだ。普通は、そんな判断はあり得ないのである。
となると、熊野に何かあるのだろうか。それは、また今度。
熊野上陸
さて、和歌山で名草軍を蹴散らし、熊野へと船を進めるが、途中で海が荒れ、行く手を阻まれる。「海の神の血を引くわれらに、海は何という仕打ちをするのか!」と悲しみ憤りながら、二人の兄が海に身を投げる。そうこうしながらも、なんとか熊野に上陸。熊野の山中に分け入る。ここでも困難が待ち構えている。まずは、いきなり大熊が出てきて、兵士が気を失ってしまうのだ。 |
八咫烏登場
ここで登場するのが、高御産巣日神。高御産巣日神は高倉下に、神剣「佐士布都神」を神武に渡すよう命令する。この神剣にお力によって、神武軍は復活。 |
ちなみに、この「佐士布都神」は、石上神宮の祭神である「布都御魂大神」のことである。
さらに道案内として「八咫烏」を遣わし、八咫烏のおかげで道に迷うことなく熊野から吉野を経て宇陀まで進軍することができた。 宇陀で待ち構えていたのが、「エウカシ」「オトカシ」の兄弟。なんだかんだと策略の応酬があり、神武軍が勝利。 さらに進むと「土蜘蛛」の一派が。。。これも、謀略によって打ち負かし、いよいよ長髄彦軍との決戦を残すのみ。 |
「土蜘蛛」とは、天皇家に恭順しなかった豪族たちの総称である。これら熊野の山中で出くわす敵達は、おそらくは縄文人の系統であろう。
最終決戦
ところが、あっさりと神武が勝利する。
天孫「饒速日尊」の方から恭順の意を表してきたからだ。何故、恭順してきたのか。それは簡単に言うと、「同じ天神族同士だから」とのこと。
そして、この和睦を不服とする長髄彦を、なんと、饒速日尊は殺してしまうのだ。
こうして神武は念願の中州にたどり着き、橿原宮を造営し、初代の天皇に即位することになるのである。
橿原神宮のご利益
先の神話をまとめると、、、
日向国の王子が、一大決心をして行動に移る。周囲の特に祖神の助けをもらいながら、幾多の困難を乗り越えて、最後には勝利し、日本の頂点に立つ。
おのずと、ご利益が見えてくるではないか。
決断力や行動力の向上、厄除け、勝負運、出世運、縁結び。
橿原神宮 参拝記録
2つの最寄り駅
橿原神宮の最寄り駅は2駅ある。いずれも近鉄線の駅なのだが、
近鉄南大阪線の橿原神宮西口駅
橿原神宮の境内に最も近く、そして境内の見どころを効率的に訪れるには最適なルートである。但し、住宅地にある小さな駅であるから、商業施設は何もない。
西鳥居から神域へ入り、「神饌田」「深田池」を右に見ながら西参道を進む。「長山稲荷社」に参拝してから、「南手水舎」地点で表参道に合流する。
駅のホームから西鳥居まで100m。南神門まで550m。
近鉄橿原線・南大阪線の橿原神宮駅。
橿原神宮へは、こちらの駅を利用するのがポピュラーであろう。
駅前には賑やかさはないが飲食店などもある。
駅のホームから第一鳥居まで600m。南神門まで900m。
第一鳥居
これが表参道の第一鳥居である。この鳥居を境にして気が変わる。一歩入ると、全身の血管が膨張する感覚に襲われるのである。高圧電線の真下に立った感じである。しばらくすると、それは治まるのだが。
神橋
第二鳥居の手前に架かる橋「神橋」である。この下を宮川が流れているのだが、この川はいただけない。流れが無く淀んでいる。
第二鳥居
正月には、この表参道の両側に露店が出る。
一昨年の元日、ちょうどこの辺りにあった「手相占い」で占ってもらった。会社を辞めて独立するかしないかと悩んでいた時である。占いの結果は「独立は、やめておきなさい」であった。
それから半年後に、ヘッドハンティング的な転職話が舞い込んできた。結構ないい条件である。
しかし、心のどこかに占いの結果が残っていたのだろう。私はお断り申し上げた。
その3ヶ月後に、その会社は倒産。危機一髪で助かったのである。。。
というようなことを思い出しながら、第二鳥居をくぐる。
またここで、気の変化を感じる。明るく元気な気である。心がひとりでに盛り上がってくるような、底抜けに明るい気。
南手水舎
水口のない手水舎である。
ここで、一般参拝者は身を清めるのである。
浄化のパワースポット 祓戸
表参道のドン突きに「祓戸」がある。神事に臨む神職さんたちが心身を祓い清める場所である。
中央の奥に植えられている神木は「樫」である。神社によって、杉であったり楠であったりするらしい。
と、ここの左手に大きな池が見える。
深田池エリア
癒しのパワースポット 深田池
境内の南端になろうか。非常に明るく風通しのよい池である。美しい水面には、たくさんの水鳥が浮かんでいる。
桜の季節には少し早いが、この桜の木だけは満開に近い。この桜は、長山稲荷社へと続く参道の入り口に植えられており、他の桜よりも大きく成長し、いかにも元気がよさそうだ。これはイヤシロチの特徴である。
畝傍山から長山稲荷社を通って、この元気な桜にパワーが到達しているように感じた。
長山稲荷社
さあ、元気な桜の前にある朱の鳥居である。ここから、何十本かの鳥居をくぐり参道を登ったところに「長山稲荷社」が、ひっそりと鎮座しているのだ。
参道横の苔むした山肌が悠久の刻の流れを感じさせてくれる。
明治創建時に新たに造られた神宮エリアとは違い、こちら側は畝傍山の長く伸びた山裾らしく、古代の雰囲気を味わうことが出来る。
長山稲荷の社殿
こちらが長山稲荷社である。朱色の社が美しい。宇迦能御魂神、豊宇気神、大宮能売神を祀っている。
- 宇迦能御魂神・・・五穀豊穣の神。伏見稲荷大社をはじめ、全国の稲荷神社の主祭神である。
- 豊宇気神・・・食物を司る神。伊勢の外宮「豊受皇大神」と同一神であろう。
- 大宮能売神・・・調和の神。転じて接客業の守護神として信仰されている。宇迦能御魂神の配神として祀られることが多い。
神前に立つと感じるのが冷気。そして自然と背筋が伸びる。
二礼二拍手。柏手を打つと、思ったよりも大きく響き渡る。
天津祝詞奏上。右手より風が吹く。体が前後に大きく揺れる。
さあ、この感じ。何と表現するべきか。
橿原神宮がこの地に創建される以前から、地主神として祀られていた祠とされるが、往時の祭神は、この三柱の神ではないような気がする。根拠はないが。。。
長山稲荷社の参拝を終え、祓戸まで戻る。いよいよ、本殿へ向かうことにする。
本殿エリア
外拝殿前の広場
重厚な神門をくぐると、この景色が広がる。画像左手に見えるのが外拝殿(げはいでん)。その背景に見えるのが畝傍山である。
外拝殿前の広い広い空間を歩くと、実に気持ちがいい。リラックスできる。嫌なことも忘れさせてくれる。癒されるのである。
▲この景色が、ことあるごとに思いだされる。頭にスパーンと入り込んでくるような。現在、私のスマホの壁紙となっている画像である。これを見ていると、なんとなく、力が湧いてくるのである。
内拝殿・本殿
外拝殿から奥に見えるのが「内拝殿」である。この内拝殿のさらに奥に「弊殿」があり、さらに奥に「本殿」がある。
内拝殿の屋根の向こうにちらっと見える千木は、弊殿の千木である。橿原神宮に限っては、「弊殿」が千木や鰹木が設置された神殿造りなっており、「本殿」は神殿造りではなく御殿造りなのである。
弊殿の屋根 千木と鰹木
平素は内拝殿まで進むことはできないが、正月は進むことが出来る。
かつて、元日の午前0時に参拝したことがあるが、この内拝殿前を先頭に南神門を出たところまで行列が伸びていた。ぞっとする光景であった。
休憩所で善哉やうどんを頬張りながら行列がなくなるのを待ったものだ。
とりもなおさず、まずは参拝しよう。
二礼二拍手一礼。癒し系の気を感じる。そこに「親しみやすさ」が含まれている。
最後に
橿原神宮全体に流れる空気感の根底には、「フレンドリー」が存在しているのである。
トイレを借りた橿原神宮結婚式場「養正殿」の受付の方、祓戸について教えてくれた神職の方、内拝殿の写真を撮影しようとしたとき作業を中断してくれた若い神職の方、作業着を着た職人さんなど、接した人たち全員がフレンドリーで笑顔が素晴らしかった。
きっと、神宮が持つフレンドリーなパワーがそこにいる人たちをフレンドリーにさせるのでろう。そして私たち参拝者を癒す「橿原神宮の総合力」となっているのだろう。
神社としての歴史は浅いが、日本が始まった場所であり、神聖なる畝傍山がそびえる場所である。強く参拝をお勧めする神社の1つである。
それでは、畝山北麓にある「神武天皇陵」に向かおう!
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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