神田明神|東京十社|何かに挑戦する人の力になってくれるはず。日本三大怨霊が祀られる江戸の守護神。

2016年12月6日

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神田明神は、東京都千代田区外神田にある神社である。旧准勅祭社12社の一社であり、現:東京10社に選定されているように、東京の有力神社である。

氏子は広範囲にわたり、神田、秋葉原、大手町、丸の内、日本橋北部など108町会の総氏神。

「山王祭」「深川祭」と並んで「江戸三大祭」に数えられる「神田祭」で有名だ。

また、正月の仕事始めの午前中は、スーツ姿の参拝客が団体で参拝する光景を目にすることができる。そう。仕事の神様としても有名なのである。

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神田明神について

神田明神 概要

  • 所在地   東京都千代田区外神田2丁目16−2
  • 電話番号  03-3254-0753
  • 主祭神  大己貴命・少彦名命・平将門公
  • 創建年     730年
  • 社格   准勅祭社・府社・別表神社
  • 公式HP    https://www.kandamyoujin.or.jp/

神田明神 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR中央線「御茶ノ水駅」徒歩5分

駐車場

  • あり

神田明神の創建

社伝によると、、、

起源は出雲

天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村(現:大手町)に移住した出雲系の氏族が、「大己貴命」を祖神として祀ったのが起源である。そこはもともと、伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地であったため「神田ノ宮」と名付けられたと伝わっている。

将門公を祀る

平将門の乱を起こして敗北した平将門の首が、神田ノ宮の近くに埋葬された。いわゆる「将門塚」である。

鎌倉時代。関東に天変地異や疫病が蔓。将門の祟りであるとされ、そのころ荒れ果てていた「神田ノ宮」に相殿神として「平将門公」を祀り奉った。これが神田明神の始まりである。よって、明神とは将門公を指すと思われる。

武家の信仰を集める

平将門公が合祀されて以降、「神田明神」は平家出身の武将から崇拝される存在となり、さらには関東平定の武勇を讃え、「戦勝守護」として、田道灌や北条氏など関東の戦国武将たちの崇敬を受けることになる。

もちろん江戸に移封された徳川家康も同様に「神田明神」を崇拝する。

1603年、江戸幕府が開かれた頃に駿河台に遷座。

江戸の総鎮守

さらに、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし磐石の体制を整えた元和2年に、江戸城の表鬼門にあたる現鎮座地へ遷宮され、江戸城の守護、江戸の総鎮守として崇められるようになっていった。

明治に入り、王政復古・国家神道の観点から、神田明神はその名称を「神田神社」と正式に定められるとともに、朝敵の将門公は祭神から外され摂社に遷座させられ、かわりに少彦名命が勧請され祀られるようになった。

戦後、国家神道は崩壊し、昭和54年には将門公は祭神に返り咲いたが、今も三ノ宮にとどまる。

神田明神の祭神

神田明神の祭神は、 大己貴命・少彦名命・平将門公の三柱である。

大己貴命

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一ノ宮に祀られているのが大己貴命。大国主命と同一神とされる。出雲の国造りを行った神である

後に密教の大黒天と習合された。この像は、その習合された大黒天である。

そもそも神道には偶像崇拝の考え方は無い。

少彦名命

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二ノ宮に祀られているのが少彦名命。 大己貴命と一緒に国造りを行った神である。

手のひらに乗るほどの小さい神で、ガガイモの船に乗ってやって来たとされている。

このモニュメントはそのシーンの再現であろう。

平将門公

三ノ宮に祀られる。平将門は、平安時代中期の関東の豪族で、茨城から千葉北部に勢力を持つ平氏一族の内部抗争から関東全域に広がった争乱のドサクサの中で関東を平定。

京の朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、関東の独立を目指した。そのため朝敵とされ、ほどなく藤原秀郷、平貞盛らにより討伐され非業の死を遂げた

神田明神のご利益

大己貴命のご利益

国造り神話によるところで、国土開発、国土経営の神様、転じて起業・会社経営・事業繁栄の守護とされる。

また、正妻である須瀬理姫命との「一目惚れ即結婚」や「駆け落ち」神話からであろうか、縁結びの神・恋愛成就の神ともされる。

さらに、多くの御子がいることから、夫婦和合・子宝の神様ともされている。

ただし、奥さんもたくさんいるのだが、、、

少彦名命のご利益

大己貴命のよき協力者で、医療・医薬・学問の神様として崇拝されている。

造化三神の高皇産霊大神の御子とされたり、神皇産霊大神の御子とも言われているので、ムスビの霊力をも持ち合わせているのではないだろうか。

少彦名命を祀るといわれている「熱田神宮の内天神社」で、そのような気配を感じたことがある。

平将門公のご利益

戦勝守護のご利益があるとされている。

粗末にすると祟りがあるから気を付けたい。そういう意味では、触らぬ神に祟り無し。むやみに参拝するのは控えたほうがよさそう?

ここ一発、満を持して参拝しよう。

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神田明神と成田山新勝寺

もうひとつ申し上げておきたいことがある。成田山新勝寺を崇拝しておられる方は参拝しないようがよい

成田山新勝寺の由来書によると、、、

戦の実力では及ばないと分かった朝廷側は、霊力すなわち呪詛で対抗することに。

京都にあった空海作の不動明王像を現成田山の地に安置し、21日間の護摩焚き法要が行われた。

その満願の日、風上に立った将門が圧倒的優勢だった戦況が一変。風向きが一気に変り将門軍は風下に立たされる。

そこに風に乗って飛んできた矢が将門の額に命中。戦死してしまった。

まさに成田山新勝寺は、将門公にとって「鬼門」なのだ。

今でも、神田明神の氏子の皆さんは成田山詣では行わないと聞く。「将門公の祟りがある」とまことしやかに言われているのだ。

神田明神 参道から本殿

神田明神、久しぶりである。かつて単身赴任中には、よく参拝したものだ。

御茶ノ水駅を下車し、「聖橋」を渡る。聖橋からは右手斜面に「湯島聖堂」が見える。始めて湯島聖堂を訪れたときは、湯島天神と勘違いしていた。今となっては懐かしい。

そうそう。駅から聖橋の反対側に歩いていくと「ニコライ堂」がある。東京ラプソディのニコライの鐘だ。

さて、聖橋を渡り湯島聖堂前を右に曲がると手造り甘酒で有名な「天野屋」という甘味処がある。私も頂いた。旨い。

そこを左へ。鳥居が見える。神田明神だ。

鳥居をくぐると正面に大きな大きな山門が見える。これが「隋神門」だ。

隋神門

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この隋神門は、昭和50年、昭和天皇即位50周年記念として建立された。色彩豊かで非常にきらびやかである。外国人観光客にも人気の建造物だ。

左右に随神像が安置されている。右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神。この二柱の神は「御門の神」。天太玉命の子で瓊瓊杵尊の天孫降臨の従者である。

2階には、朱雀・青龍・玄武・白虎の四方の守り神の彫刻が施されている。

この門をくぐって中にはいると、張り詰めた空気を感じることができる。

本殿

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昭和9年に再建された本殿は、鉄筋コンクリートの朱塗りの社殿である。拝殿・幣殿・本殿が重なり合っている「権現造」だ。

隋神門から本殿までの参道が広い。狛犬も両側に大きく開いている。初詣ではこの横長の参道が威力を発揮するのだ。

二礼二拍手一礼。久しぶりに参拝できたことへの感謝の気持ちで祈る。晴々とした心持になる。浄化されていくようだ。

この本殿の左側から、ずらりと摂末社が鎮座する。

魚河岸水神社

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まず最初に鎮座するのが「魚河岸水神社」

祭神は「弥都波能売命」(みつはのめのみこと)おかみ神とともに、日本神道の代表的な水の神である。特に灌漑用水や泉・井戸の神としての性格が強いが、祈雨、止雨のご神徳もあるとされる。

江戸時代、徳川家の武運長久と大漁安全のため市場の守護神大市場交易神として神田明神境内に創建された。

明治に入り、一旦境内を出て日本橋室町の常盤稲荷神社に合祀され、名称を魚河岸水神社に改名。その後、明治34年に神田明神境内へ再び遷座され末社として祀られている。

牛頭三天王(神田三天王)

牛頭三天王とは、ここに並ぶ3つの社の総称だ。いずれも祭神は須佐之男命である。

そもそもは、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)を祀る「洲崎神社」が、江戸の局沢に創建されたことに起源する。

この洲崎神社に、須佐之男命が合祀されたが、須佐之男命は仏教の牛頭天王と習合したため、神仏習合の名称「洲崎明神」と呼ばれるようになった。

時を経て、1603年。江戸幕府を開くにあたり江戸城の拡大を図るため、芝崎(大手町)の神田明神と、局沢の洲崎明神が、そろって江戸城外の駿河台に仮遷座した。

1616年。神田明神が現鎮座地である湯島台に遷座される際に、洲崎明神はその境内摂社となり、さらに三社に分割され、須佐之男命にゆかりのある神々をそれぞれに祀ることになった。

これが、三天王の創建伝承である。

江戸神社 (天王一之宮)

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江戸期から建速須佐之男命=牛頭天王を祀る。

当時は南伝馬町天王と呼ばれていた。祇園会御旅所が南伝馬町にあったためだ。

徳川入所以前からの江戸の地主神として崇敬を集める。のちに「江戸神社」と改称する。

大伝馬町八雲神社 (天王二之宮)

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江戸期には「大伝馬町天王」と呼ばれ、須佐之男命の御子たち「五男三女神」が祀られていた。大伝馬町に御旅所がある。

のちに祭神を建速須佐之男命に改め「大伝馬八雲神社」に改称される。八雲とは須佐之男命を表す言葉である。

小舟町八雲神社 (天王三之宮)

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江戸期には「小舟町天王」と呼ばれ、須佐之男命の正妻「奇稲田姫命」が祀られていた。小舟町に御旅所がある。のちに祭神を建速須佐之男命に改め「小舟八雲神社」に改称される。

ここまでは、神田明神遷座と時を同じくして遷座された神々の社であった。

本殿裏の摂末社

ここからは、様々な理由でこちらに遷座された神社が並ぶ。ここに稲荷神社が多いのは、江戸の街に稲荷神社が多かったからであろう。今でも、神田の街を散策するとあちこちで稲荷神社に出くわす。

浦安稲荷社

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内神田の鎌倉町あたりに鎮座していた稲荷神社を、天保14年こちらに移したもの。祭神は「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)。

三宿稲荷神社、金比羅神社

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三宿稲荷神社

三宿稲荷神社は、神田三河町の守護神として創建された神社である。創建年代は定かではない。その後、神田明神の神主邸内で祀られていた内川稲荷神社と合祀され、境内末社として遷座された。

祭神は、同じく「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)。

現在の社殿は昭和41年に再建されたもので、再建と同時に「金毘羅神社」も合祀したとのこと。

というわけで、この社正確には3社の合祀殿ということになる。

金毘羅神社

天明3年(1783)に、現在の東日本橋両国に創建された。

かつては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めたという。

昭和41年10月7日、両国より神田明神境内に遷座し、再建された三宿稲荷神社とともに御鎮座された。

祭神は、大物主命(おおものぬしのかみ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)。

本場讃岐の金毘羅宮の主祭神は大物主神。素戔嗚尊や金山彦命であるとの説もあった。よって、ここで大物主神と金山彦命が祀られていることは、大変興味深い。

三宿、金毘羅神社の水盤
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この水盤、かなり古いものらしい。1805年の奉納で、1856年(安政3年)に再建されたとある。

石の水盤が50年で再建せねばならない理由とは?調べると1855年に安政の大地震が発生している。これが原因か?

末廣稲荷神社

またまた、稲荷神社である。

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こちらは、元和2年神田明神がこちらに鎮座したころからの古社であるとされ、出世稲荷として信仰を集めている。

祭神は、宇迦之御魂神・級長戸辺之命・級長津彦之命。不思議な組み合わせだ。

級長戸辺之命・級長津彦之命は、伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた「風の神」である。両神は夫婦もしくは兄妹とされる一方、同一神であるとする記述もある。(前者は古事記、後者は日本書紀)

内宮の風日祈宮、外宮の風宮、奈良の龍田大社などに祀られてる「大神様」である。

合祀殿

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「合祀殿」。各地に祀られていた神様を合わせて祀るための神殿である。創建は寛政7年というから1796年のこと。松平定信による寛政の改革が行われようとしていた頃のこと。

神田明神境内に、「猿田彦命」と「塩土老翁神」を祀った「籠祖神社」を創建したのが始まり。そこに、八幡神社・富士神社・天神社・天祖神社・諏訪神社を合祀したらしい。

よって、こちらには次の神々が

猿田彦命・・・(籠祖神社)

天孫・瓊瓊杵尊が降臨する際に、目指す高千穂峰に道案内をした国津神。よって、導きの神とされている。経営や営業の方向性を思案される方々の信仰が厚い。

塩土老翁神・・・(籠祖神社)

海幸彦・山幸彦の神話に登場。いろいろとあって困っていた山幸彦に、竹で編んだ船を与え海の神「大綿津見大神」の元へ送り出した神である。

猿田彦命と同じく、道筋を示してくれる神である。また、竹で船を編むというところから「籠職人」の崇拝を集めてきた。

海幸彦・山幸彦神話の詳細は、住吉大社の記事を参照されたし!
➡ 「住吉大社」 ⑥ 「大海神社」から始まる「海神めぐり」で、再生回帰のパワーを頂こう!

誉田別命(応神天皇)・・・(八幡神社)

言わずと知れた、宇佐八幡宮が発祥とされる「八幡大神」。将門公と同じく「勝負の守護神」である。比較するのも変な話なのだが、将門公は平氏の信仰厚く、八幡大神は源氏の信仰が厚い。さらに八幡大神は応神天皇であるからして、全国的に広まったのは「八幡信仰」の方だ。

木花咲耶姫命・・・(富士神社)

山の神様のドン「大山祇大神」の娘である。

天孫・瓊瓊杵尊の妻となり火照命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦)を産む。のだが、いろいろとあって、夫の瓊瓊杵尊に身の潔白を証明するために、燃え盛る産屋の中で産むのだ。

三柱の御子を火の中で出産したので「火の神」とされたり、大変な状況の中でも産むことができたので「安産の神」とされたりする。

富士本宮浅間大社に祀られる木花咲耶姫命は「火の神」として祀られているとするむきが一般的。つまり、日本の全ての山を統括する父神の「大山祇大神」から、火山である富士山を譲り受けたとする説だ。

しかし、社伝によると富士山が噴火しないよう「水の神」として祀られたとする。

富士山に神を祀る目的といえば、間違いなく「噴火を鎮めるため」であるはずだ。となった時に、火の神を祀るか、水の神を祀るか。う~ん。どちらもあり得る。。。

ちなみに「安産の神」として祀られている神社としては、伊勢の内宮境内の「子安神社」が最も有名であろう。

菅原道真公・・・(天神社)

言わずと知れた学問の神様であり、日本三大怨霊の一柱である。残る二柱とは、「平将門」「崇徳天皇」。崇徳天皇は香川県の金比羅宮の祭神である。

もし、神田明神の金比羅神社に「崇徳天皇」がこっそりと祀られているとしたならば、日本三大怨霊が祀られていることになる。

怨霊・祟り神は手厚く祀ることで、守護神へと昇華するとも言われている。祀られた時期はともかくとして、江戸の鎮守に三大怨霊にかかわる神社が揃っていることは興味深い

柿本人麻呂命・・・(天神社)

言わずと知れた万葉歌人であるが記紀に登場しないため謎の多い人物である。詩歌に秀でていたということで合祀されたと聞く。

天照大神(天祖神社)

言わずと知れた「皇祖神」とされている神であり、全国民の氏神とされている。

建御名方命(諏訪神社)

言わずと知れた諏訪神社の主祭神である。大国主命の御子。国譲りを迫られた際「徹底抗戦」を選択。建御雷命と戦い、敗れ、諏訪の地へ追いやられた。武勇の神である。

パワースポット 籠祖神社の石柱

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先ほどの「合祀殿」敷地内の右手、すぐ隣が「祖霊社」という位置に、水盤や石柱が設置されている。

その中の「籠祖神社」の石柱のあたり。この石柱なのかどうかはわからないが、実は、ここが最もパワーを感じた場所なのだ。

合祀殿に参拝していると、右から尋常じゃない圧力を感じる。右側頭部が痺れてくる。ハッとあたりを見渡してしまうぐらい、ハッキリとわかる気配である。

春日大社の「宗像神社」の手前で感じたパワーというか「気」というか。よく似ている。パワーの所在がはっきりしない、でも、その場所に来ると感じる「気」。

なんなんだろうか。

最後に

平将門公を祀る、江戸の総鎮守に参拝して、一番パワーを感じた場所が「合祀殿」横の石柱とは。。。私の感受性なんてこんなもんなんだろう。情けない。

それとも、私は大阪人。江戸の鎮守から見ると、所詮は、よそ者なのか?

もっともっと、感性を研ぎ澄まさねば!!

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東京十社

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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