富岡八幡宮|深川|東京十社|
さて、一旦、本殿前に戻り、渡り廊下の下をくぐって本殿右側奥へと進む。
参道の大関に続いて、こちらには横綱力士碑がある。
富岡八幡と相撲にどのような関係があるのだろうか。
実は、勧請相撲の発祥の地らしい。そういわれてもピンとこないのだが、ようは現在、両国の国技館で行われている大相撲は、この富岡八幡宮から始まったということである。春場所と秋場所の年2回の興行だったとのこと。
そういえば、新横綱が誕生したとき神社で土俵入りが披露されているが、あれはここ富岡八幡宮だったのである。関西人にはちょっと馴染みが薄いことなので、、、
本殿東側の境内社
この横綱力士碑の右後ろに、摂社がずらっと並んでいるエリアがある。
永昌五社稲荷神社
まず一番左が「永昌五社稲荷神社」である。
ここは、朱色の鳥居が並んでおり、この日も七五三の記念撮影に使われていた。
鳥居をくぐっていくと、「永昌五社稲荷神社」の表面に立つことになる。ここはまた、違った雰囲気がある。
先ほどまで、着物姿の女の子が和傘を手にポーズをとっていた、あの微笑ましい雰囲気は一変するのである。
ここは扉の前に立っただけで、扉の奥から強い波動がグワッと押し寄せてくるのを感じる。ちょっと怖いぐらいである。
神社の説明によると、近隣の稲荷社五社を合祀したとある。
「望んでここに合祀されたわけではないのだ」、というような雰囲気というか気持ちを感じた。もしかすると封印か?怖くなってきたので、早々に退散する。
八社殿
その横には、八社を祀る社がある。八社殿は私が勝手に名付けた。悪しからず。
左から順に、以下の通り並んでいる。
- 「花本社」と「祖霊社」の合祀殿
- 「天満天神社」
- 「聖徳太子社」
- 「住吉社」
- 「野見宿祢社」
- 「車折社」「客神社」の合祀殿
いくつかをご紹介すると、
「花本社」
松尾芭蕉を祀る。芭蕉は深川の庵を拠点として全国を旅した。まるで伊能忠敬と同じである。松尾芭蕉と伊能忠敬。深川から日本全国を旅したということ以外に共通点があるのだろうか。そそられるテーマである。
「天満天神社」
祭神は菅原道真公。なんと創建者である長盛法師は、菅原道真公の後裔であるという。言わずと知れた、学問の神様であり受験合格のご利益があるとされる。
「野見宿禰社」
野見宿禰とは相撲の始祖とされる、出雲の勇者である。天穂日命の14世孫にあたり、めっぽう力の強い人であったらしい。
垂仁天皇の御代、「当麻蹴速」(たいまのけはや)という男がおり、蹴り合いに負けたことがなく、生死を掛けた戦いがしてみたいと言った。これを聞いた天皇が見つけてきたのが「野見宿禰」である。
戦いの結果、野見宿禰が当麻蹴速の腰を蹴り折って勝った。当麻蹴速は死んでしまったので、その領地「当麻」は野見宿禰に与えられ、その後、垂神天皇に仕えた。
土師氏の祖神である。
いわゆるこれが、野見宿禰が相撲の始祖であるといわれる由縁である。
「車折社」「客神社」
車折社(くりまざきしゃ)は、平安期の漢学者・儒学者である「清原頼業」(きよはらよりなり)を祀っている。こちらも学問の神様である。
客神社は、天宇受売命を祀っており、芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けている。
京都の嵯峨の車折神社のご分霊であろう。京都の車折神社も摂社に「芸能神社」として天宇受売命を祀っている。
ここにいると、いつまでも「永昌五社稲荷神社」の深く暗い圧力を感じてしまう。参拝はやめておいた方が良かろう。
深川の氏神様 七渡神社
さて、八摂末社エリアを抜けると、瓢箪型の池がある。この池の浮島に「七渡神社」が鎮座する。
石柱には「七渡弁天社」とある。
こちらはこちらで、独立した神社のような設えである。それは当然で、こちらの弁天様は八幡宮が創建される以前から鎮座する、この地域の氏神様なのである。
であるからして、七渡神社の正面玄関から入り直そうではないか。
もしかしたら、こちらから先に参拝すべきであったのかもしれない。
針塚
橋の手前右手には、「針塚」がある。
この針塚の石碑に刻まれている三体の像。ミザル・イワザル・キカザルである。これは何を意味するのだろう。一見してゾッとした。
先へ進もう。
橋の向こうに社が見える。なかなかの光景である。
七渡神社
橋を渡たり、「七渡神社」「粟島神社」に参拝しようではないか。
二礼二拍手 天津祝詞。
包み込むような優しい空気を感じ取ることができる。守ってくれてるような感覚だ。
祭神は「市木嶋姫命」。そして「粟島神社」の「少彦名命」が合祀されている。
こちらの「粟島神社」は裁縫上達の神様として信仰を集めているらしい。それで針供養か。であれば合点がいく。
しかし粟島神社(淡島神社)は、本来は裁縫上達だけのご利益ではない。
人形供養をはじめ、女性のあらゆる下の病を治すご利益や、子宝・安産といったご利益もある。総本宮の和歌山加太の淡島神社には、沢山の人形が奉納され、また、女性の下着が奉納されている。
こちらの七渡神社付近は、社の前は優しい雰囲気だったが、全体的に見るとやはり暗く湿った雰囲気を醸し出していた。
最後に
このように、富岡八幡宮は、私には合わない神社だったのかもしれない。あちこちで、暗い湿った雰囲気を感じるからである。
あとから調べたところ、ここ深川は「門前町」であり、かつ「色街」でもあった。
そういえば、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でも竜馬が深川の色街に通っていた様子が描写されていた。
富岡八幡宮が創建される以前の元々は、河口の砂地に鎮座する氏神様であった。周辺に色街が形成されたとき、様々な悩みに苦悩する女性たちが、この氏神様にお参りをしたはずだ。
こちらの氏神様は女神「市木嶋姫命」であるからだ。
その祈りは、明るいものではなかったであろう。それは、女性の守り神とされる「淡島神」を勧請して合祀したことからも明らかだ。
色街、針供養(女性の魂)、女性のあらゆる下の病、ミザル・イワザル・キカザル。繋がるのである。
人それぞれなんだろうが、私には、そういう悲しい風景がイメージされてしまう。
これが、私には合わない神社だったのかもしれないと感じた理由である。
追記
富岡八幡宮の宮司の座を巡って弟が姉を殺害し、自らも自殺するという痛ましくも猟奇的な事件が起こり、世間をあっと言わせたが、私にすれば「さもありなん」である。
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