御幸森天神宮|大阪|コリアンタウンに隣接する神社は元気の出るスポット

御幸森天神宮は大阪市生野区桃谷にある神社。

古代より、このあたりは百済からの渡来人が多く居住した地域で、現在も、朝鮮半島の人々が多い地域。

当社の裏を通る御幸通商店街は通称「コリアタウン」。韓流ブームも相まって、若い女性の人気スポットとして平日でも大賑わいとなっている。

そんな異国情緒あふれるエリアに鎮座する神社とは、どのような由緒があるのだろう。

そのあたりを紐解いていこうと思う。

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御幸森天神宮について

御幸森天神宮の概要

  • 所在地    大阪府大阪市生野区桃谷3丁目10−5
  • 電話番号   06-6731-2816
  • 主祭神    仁徳天皇
  • 社格     無格社
  • 公式HP    https://miyukimori.net/

御幸森天神宮  アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR大阪環状線「桃谷駅」徒歩10分
  • JR大阪環状線「鶴橋駅」徒歩13分
  • 近鉄奈良線・大阪線「鶴橋駅」徒歩12分

車でのアクセス・駐車場

  • アクセスは容易
  • 駐車場なし

近隣のコインパーキングも満車状態なので、少し歩く覚悟が必要と思う。

御幸森天神宮の祭神

祭神は、仁徳天皇・少彦名命・忍坂彦命の三柱。

仁徳天皇

応神天皇の皇子で第16代の天皇。

都を難波高津宮に置き、淀川・大和川の治水、河内湖の排水などで河内平野の農耕発展を推し進めたり、民衆の家々から炊事の煙が立ち昇っていない様子を見て民衆の困窮を察し6年間の免税を実施したりと、国民を慮った政治と人となりから「聖帝」と呼ばれた。

少彦名命

記紀によると少彦名命は、、、

天地開闢(始まり)のときに現れた最も尊い三柱の神(造化三神)の内の、タカミムスヒ神もしくはカミムスヒ神の子神。よって天津神=天神

大己貴命(大国主命の若い頃)と兄弟の契りを交わして、 大己貴命と共に諸国を巡って国造りをした。

各地で農耕を広め、酒造を広め、医薬を広め、温泉を掘るなどという先進技術を伝えたのち、常世国に行ってしまったという逸話から、大陸からやってきた渡来神ともいわれている。

また、海の彼方からガガイモの船に乗ってやって来たという逸話からエビス神(漂着神)と習合したりもする。

押坂彦命

押坂彦命は、第30第敏達天皇の第一皇子。 押坂彦命の御子は34代舒明天皇。天皇の子で天皇の父だが、自身は天皇に即位していない。

それは、台頭してきた蘇我氏の後ろ盾により、蘇我氏系の人が天皇となっていたからだという。

御幸森天神宮の創建と歴史

当地域は、百済からの渡来人が居住した地域で、猪を飼育して皇室に献上する職業部の「猪飼部」があったので、猪飼野村と呼ばれていた。

この猪飼野村の西側を平野川が流れていて、平野川沿いを桑津道が通っていたそうだ。

創建伝承

仁徳天皇は、この桑津道を頻繁に通ったはず。百済人の視察のためといいつつ、その実は絶世の美女といわれた、妃の髪長姫命に逢うためである。

桑津道を進む天皇は、その道中にある森で休憩するのを常としていたので、その森はいつしか「御幸の森」と呼ばれるようになった。

天皇が崩御したあとの西暦406年。人々は御幸の森に祠を建てて仁徳天皇の神霊をお祀りした。御幸の祠、御幸宮と呼ばれて、地域の守護神として崇められたと伝わる。

少彦名命の勧請

西暦806年。当地に疫病が蔓延。

当社の社僧であるところの大蔵院行綱が、京都五條天神社にて災厄追放を祈願し、少彦名命のご分霊を勧請して奉斎したところ、疫病は治まったという。

この頃から天皇天神社あるいは天神宮とも呼ばれるようになる。

天皇と天神を祀る神社だから天皇天神社。

あるいは、天皇を祀る神社だけが「神宮」と名乗ることができるので、天神社と神宮の合体で天神宮。

といったところだろう。

押坂彦命の合祀

清水谷の忍坂山にあった押坂彦命を祀る天神社が、大阪夏の陣で焼けてしまった。地元の人々が小さな祠を建ててお祀りしていたのだが、、、

大阪城主の松平忠明ご娘さんの夢枕に神が現れ、「天神社を新しく再興するように」とのご神託が降りた。松平忠明はこれを畏怖して、ご神霊を当社に遷し祀るように指示したらしい。

さらに、平野川中洲の土地3000歩と灯明台を寄進したということである。

御幸森天神宮のご利益

政治家や会社経営など、多くの人の人生を背負っている人たちは、仁徳天皇の経営力にあやかってみてはいかがだろう。

少彦名命のご神格は医薬の神であるからして、病気平癒を祈願するのがよかろう。また、医療関係に従事する方々や医学を学んでおられる方々の味方にもなって頂けよう。

押坂彦命は謎の皇子ではあるがゆえに、そのご利益はといってもなかなかに難しい。

しかし、その墳墓は、現在日本一の規模を誇る大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の、なんと10倍の規模。(延喜式に記されている規模より算出)

ということからして、とんでもなく財力のあった皇子であろうことが推察される。がゆえに「財福」を祈願してみるのも一興と思う。

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御幸森天神宮 参拝記録

境内に駐車場は無いが、社務所の横あたりに車を停めるスペースはある。実際、停めてもいいらしいいが、私は気が引ける。

そもそも神域に来るで乗り入れるなんて、不謹慎極まりない。

などと思ってきたが、それは足腰が正常に動くから言えることで、足の不自由な方や体力的にしんどい方にとってみれば、、、と気が付いた。

反省し、考え方を変えねばなるまい。

少し遠くのコインパーキングに停めて、神社へと向かう。若い女性(そうでない女性も)のグループが同じ方向へ歩いていく。

その全員が、神社の角から小径に吸い込まれていく。その小径がコリアンタウンだ。正式名称は御幸通商店街。

右に写る板塀が御幸森天神宮である。道路の右が倭、左が韓。この光景は面白い。東京の新大久保には無い光景と言えよう。

鳥居

天神宮の鳥居。西向きに建っている。この鳥居の前の道が旧平野川の堤防だったそうだ。

コロナ禍だからだろう。「疫病祓浄」の幟が揺れていた。

手水舎と水神

境内に入ると、まずは手水舎で手口を浄める。当社の手水舎には水神が祀られている

水神さんは、文字通り水を司る神が祀られているのだが、おそらくは祓いの神としての役割も持つと考えられる。

祓戸社としての役割だ。なので、必ずこちらに参拝いただき、罪穢れを祓ってから本殿に進もう。

灯明台

前述の松平忠明が寄進したという灯明台。

かつてはこれが平野川沿岸に33基並んでいたらしい。夜間も安全に航行できただろう。33基のうち現存するのはこの1基だけ。貴重である。

拝殿

これが御幸森天神宮の拝殿。この重厚で堂々とした風情はいかにも「天神宮」を号するに相応しい。

この、唐破風付き向拝を頂く入母屋造・銅板葺きの天満宮様式の拝殿は、国指定有形文化財である。

拝殿内部

燦然と輝く神紋は、十六弁八重表菊の紋章。天皇家の紋章である。

二拝二拍手一拝。。。

本殿

屋根しか見えないが、破風付き?の三間社流造銅板葺きの本殿。結構デカい。

境内社の御紹介

御幸戎神社

拝殿の右手前というか、鳥居の正面奥に鎮座するのが御幸戎神社。戎大神を祀る。

昭和27年に勧請したという新しい境内社だが、どこからの勧請なのか、事代主神か蛭子神も不明。

戎大神は漁業の神であり市場の神。商売繁盛のご利益を頂けるので、おそらくは御幸通商店街の方々は毎日参拝しておられるのであろう。

御幸稲荷社

1830年に、京都の伏見稲荷大社から勧請。宇迦之御魂神を祀る。

よくある、正一位〇〇大明神と書かれたの提灯軍団もなく(幟はあるが)、眷属のキツネもなく。。。シンプルで爽やかな印象の稲荷社である。

農耕神・穀霊神・生業守護神・医薬の神として祀られている。

天満宮

稲荷社の向かい側に鎮座するのが天満宮。いわずと知れた ”学問の神” 菅原道真公を祀るやしろ

明治18年に、勝山5丁目から遷して合祀したとのこと。

遥拝所

本殿の真横にある遥拝所。遥拝所とは、伊勢神宮とか、橿原神宮とか、その神社の奥宮とか、その神社の神奈備山とか、その神社の元社とかを遥拝するのが一般的。

ところがである。こちらの遥拝所は、どこを遥拝してもいいとのこと。自分が想う場所、想う神様を遥拝できるというのは、極めて画期的な遥拝所である。

そして、祠が乗っている石も曰く付きで、仁徳天皇が休憩するときに腰掛けた石だそうだ。

本当かどうかは誰にも分らないが、真偽の程はどうでもいいのである。

最後に

コリアンタウンにある神社ということで、心無い観光客が境内で屯しているやもしれぬと警戒して訪れたのだが、そのようなことは全くない。

静かで清らかで落ちつける、そして元気が出てくる、いい神社であった。

ただ、北門の石段に座り込んでいる女子のスカートの中が見えているのだけは、何とかして頂きたいと願うばかりだ。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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