広瀬大社|奈良|水の神・豊穣の神の真の姿は、失われた王家の祟りを封じる大神であった!

2016年9月8日


 

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広大な奈良盆地のちょうど中央、西から東に流れる大和川に、北から富雄川、南からは飛鳥川や曽我川が合流する地点に、「広瀬大社」は鎮座する。

河川が合流する地点は、どこへでも行ける場所でもある。交通の要所すなわち配戦略上重要な場所であることに他ならない。

ここ広瀬大社では、古来より国家的恒例祭として、龍田大社の「風神祭」と対の形で「大忌祭」が行われてきた、由緒ある古社である。名神大社で二十二社(中七社)にも選ばれた、極めて霊験あらたかな神社である。

この2つの祭りは、風雨の順調を祈願するものとされているが、単なる雨乞いや止雨の祈りだけではないような気がするのである。気がする要因は「大忌祭」という名称である。

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広瀬大社について

広瀬大社の祭神

主神・・・若宇加能売命わかうかのめのみこと)
「広瀬大忌神」とも称される。社伝によると、皇大御神の御膳神として忌み清めたため大忌神と称するのだとのこと。また、伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神、鳥海山の大物忌神と同神としてる。
相殿・・・櫛玉命(くしたまのみこと)
社伝では、饒速日尊としている。こちらの社家は、物部氏の末裔であるとのこと。自宅にも物部氏祖神の饒速日尊を祀っているらしい。しかし、櫛玉姫命であるという資料もある。櫛玉姫はナガスネヒコの妹で饒速日尊の妃であるから、物部系であることに違いはないのだが。
相殿・・・穂雷命(ほのいかづちのみこと)
穂雷命は記紀にも登場しない神である。諸説あるが、もともと火雷命を祀っていた神社を合祀した時に、水を司る神社に火は似つかわしくないということで、水穂雷神に名称変更され、さらに穂雷神に変えられていったのではないかと。。。どちらも、読みは「ほのいかづち」である。

広瀬大社の創建

社伝によると、、、

崇神天皇九年(前89年)廣瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に御信託があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に大御膳神として社殿を建て祀られるようになる。

広瀬神社HP&Wikipediaより

またもや崇神天皇が登場する。

また、日本書紀によると、、、

天武天皇四年四月十日(675年)に、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として大忌神を廣瀬の河曲に祀られたことが記されている。これが毎年四月四日と七月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。

広瀬神社HPより

これより、龍田の風神・広瀬の水神として並び称されることになるのである。

広瀬大社のご利益

ご神徳は、、、

農業主宰の大霊神に坐しますことは国史に明らかであり、廣瀬大忌神と龍田神とを水と風の陰陽神と申して風雨を調え豊かな稔りを祈ることに験があります。日々祈るならば「人生一日も欠くことなく衣食住を守護される」と古書に記されていることから初宮詣や家内安全、商売繁盛の参拝に訪れられます。
五穀豊穣 家内安全 除災招福 安産
社運隆昌 水難鎮護 交通安全
広瀬大社HPより

広瀬大社のご神徳は、水の力による衣食住の充足であるようである。「祈りによって豊かな生活を送ることができる」ということであろう。

龍田大社の「気」によって心身の健全を頂き、広瀬大社の「水」によって豊かさを得る。こういう面でも、見事に対になっているようだ。

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広瀬大社 参拝記録

龍田大社の駐車場で、広瀬大社をカーナビにセットする。15分と出た。わりかし近い。国道25号線に戻り東へ向かう。王寺を通りすぎて西大和の住宅地を突き抜け、池部」の交差点を左折。法隆寺インターへ向かう道だ。この道を北上し「西穴闇」の交差点を右折。少し道が細くなってくる。真っすぐ進むと「川合」の交差点、突き進む。さらに道が細くなってくる。

駐車場

すると、左手に朱塗りの鳥居が見えてくる。広瀬大社だ。鳥居の先に「ヒラノテクシード」の看板がある。そこを左折するとすぐ駐車場である。もちろん無料

間違って鳥居に突っ込んでしまっても大丈夫である。鳥居をくぐってすぐ右に出る道があり駐車場に出ることができるし、そのまま参道を走っていくと二の鳥居の手間にも駐車場があるのだから。

何故ここまで詳しく記載するのか。おそらく自分が一番知りたい情報は駐車場の有無と進入方法だからかもしれない。いつも神社の回りをグルグルと回って駐車場の入り口を探しているから。。。

まあ、いい。駐車場に車を止めて、一の鳥居まで徒歩で戻る。といっても10mほどである。

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暑い日であったが、鳥居をくぐるとヒヤッとする。画像ほど暗くはない。

参道

ここから長い参道が始まるわけだが、参道の両側に摂社が鎮座しているので長いと感じることはない。

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西側に川が流れている。その向こうは水田。さらに遠くに矢田丘陵や生駒金剛山地を望むことができる。また、東側も視界は開けていて、遠く春日山から三輪山までを望むことが出来る。まさしく、大和の青垣を一望できる立地である。

摂社:日の出稲荷社

参道を行き、最初の辻の左手にある稲荷社。

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拝殿が新しく、木の香りがすがすがしい。

摂社:日吉社

その辻の右手にある「日吉社」である。

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ここ、ゾクッとする何かを感じる場所である。ご注意いただきたい。

遥拝所

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伊勢神宮の遥拝所だと思いきや、なんと、三輪山遥拝所である。広瀬の大忌神を祀る神社から三輪山の大物主大神を遥拝する。。。あるべき姿であると思うのは私だけであろうか。

両部鳥居の礎石

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参道の途中に両部鳥居の礎石と思しき物体があった。道の向こう側にも同じように。ちょうど光って見えにくいのだが。。。

かつてはここに鳥居があったということになる。

祓戸社

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知らず知らずのうちに身に付いた罪や穢れを祓っていただく。神社は穢れを最も嫌う。ここは必ず参拝すべしである。

大砲と弾丸

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龍田大社に続いて、またもや大砲と弾丸が奉納されている。こちらも日露戦争の戦利品らしい。

二の鳥居

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龍田大社と同じく、両部鳥居である。立派な鳥居である。ここから本殿域となる。

拝殿から本殿を望む

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二拝二拍手一拝。

蚊取り線香の香りが虚しいのである。何故に虚しいのか。。。それは、すでに5か所食われてしまったからである。

本殿

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本殿は朱で塗られているようである。やはり女神様だからだろうか。

蚊に食われた5か所が痒くて痒くて、もうパワーを感じるどころではなくなった。いつもは虫よけを塗っているのだが、、、残念である。誠に申し訳ないが今回のレポートはここまでとする。痒い。。。

最後に

さて、前回の記事「龍田大社」の中で述べたように、私は「龍田風神祭」と「広瀬大忌祭」が単なる五穀豊穣を祈願する祭祀とは思えない、「大忌祭」の名称に違和感を覚えると記述した。

そしてそこには「祟り」の影が感じられると。そして広瀬大社の記事内で、考察すると。大きなことを言ったものである。少しく後悔するのである。

広瀬大社の主祭神が「大忌大神」であるから「大忌祭」。それでいいではないか。いや、ダメなのである。

そう感じたのだから、とりあえずは調べようということで。。。調べると、いろいろとわかるものである。

龍田大社、広瀬大社とも、天武天皇の命により造営され、祭祀が開始された。龍田風神祭祝詞には、龍田の神は「作物を傷つける神」であるとある。「風害」であろう。

一方、大忌大神は豊受大神と同一神とされるだけに「食物をつかさどる神」である。ここに「悪をもたらす神」を「善をもたらす神」で忌み清めるという構図が見て取れる。

龍田の「作物を傷つける神」は「生命を脅かす神」と読み替えられる。広瀬の「食物をつかさどる神」は「生命をはぐくむ神」と読み替えることが出るだろう。

両社は対であるが、「対(つい)」とは「同じ」という意味ではない。立場や効力は真逆なのだととらえることができる。すなわち、「対」は「VS」の意味であると。

広瀬大社は朝廷の勢力が拡大するにしたがって、その祭祀の影響力が及ぶ範囲も拡大していくという点。これは「大忌祭」に参加する「水を司る神社」の分布の変遷をみれば明らかである。(広瀬大社のHPを参照いただきたい)

すなわち広瀬大社の祭祀は、国家権力を象徴する儀式でもあったということが言えるわけである。一方、龍田風神祭は当初のままの規模で行われていく。ここからも同等ではないということが窺える。

そして、そして、龍田大社が鎮座する龍田山から生駒・平群・斑鳩地域は、聖徳太子の直系で悲劇の王家といわれた「上宮王家」の本拠地であり、広瀬大社が鎮座する川合には、敏達天皇の広瀬殯宮が設営された。

敏達天皇王家と上宮王家は対抗関係にあったと聞く。そしてご存知の通り、聖徳太子の直系の子孫はことごとく蘇我氏の謀略によって死に絶えるのだ。

さらに、龍田大社が鎮座する龍田山の麓も、広瀬大社が鎮座する川合も、水路陸路の要衝である。この二拠点を抑えることが大和政権を磐石の体制にするための重要な要素であったことは言うまでもない。

天武天皇は、政権の安定のためになすべきことがあった。それは長年に渡り繰り返された王位継承権をめぐる混乱によって弱体化した、朝廷の中央集権体制を修復することであったに違いない。

そのためには、政治と交通の要衝である広瀬と龍田を抑えること、自らの正当性を確保すること、そして、抹殺された上宮王家の怨霊を封じ込めるという大事業が必要であったのではないだろうか。すなわち「祭祀」。

荒ぶる龍田の神を鎮める祭祀を。荒ぶる龍田の風神を忌み清める祭祀を。。。

こんな妄想であるにも関わらず、最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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