伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」

2016年7月15日

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稲荷山北側の神蹟

四ツ辻

ここが、お山を1周する起点となる「四ツ辻」だ。少し広い踊り場のような場所になっていて、ここから京都盆地を一望することができる。

「にしむら亭」という甘味処がある。

その建物の左の道を行けば三つの峰の裏側を通って一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰の順番に、右側の道を行けば、三の峰・二之峰・一之峰の順番に参拝することができる。

では、にしむら亭の左側の道に進んで、お山の北側から右回りに参拝しようと思う。

下の図でいうと、四ツ辻から眼力社方面に進む道である。

四ツ辻から、だらだらとなだらかな坂道を下っていくこと3分ほど。

目の病を治して頂けるとか、先見の明が得られるといわれる「眼力社」がある。

眼力社

先見の明ということで、事業経営者の参拝者も多い。中にはギャンブルで一発勝負する前に参拝する人もおられるとか。。。

さて、眼力社を通り過ぎてすぐの右側に、「御膳谷」あるいは「山上の祈祷所」と書かれた案内板のある鳥居が見えるであろう。

そこが七神蹟の一つ「御膳谷奉拝所」である。

御膳谷奉拝所神蹟

御饌奉拝所にある祈祷殿

ここは三つの峰の尾根が集まる谷底。風水的にいうと龍脈が集まる場所。

神蹟の一つに数えられるが、神が祀られていた場所ではない。

大昔は、ここに御饗殿と御竈殿があって、毎日毎日、神様の御食事が準備されてきた。そういう意味で神聖なる場所。よって神蹟に名を連ねるのである。

今は御饗殿と御竈殿はなく、その代わりに祈祷殿がある。そして、今でもここに毎朝夕に神饌が供えられているというから驚きだ。

上の画像をご覧頂きたい。祈祷殿の背中側に柵が巡らされているのが見えるだろうか。

あの柵の中にあるのは「御饌石」。

御饌石

このうように平らなテーブル状の石で、神饌を供える台として使われるのだそうだ。神聖である。

長者社神蹟

御膳奉拝所から登坂を登ること7分程度だろうか、少し階段が急になってきた。三剣屋という茶店の前に七神蹟のひとつ「長者社神蹟」がある。お祀りされている社は「御劔社」だった。

長者社は、秦伊呂具が長者と称されたことから、秦氏の祖神を祀る社だと言われているが、こちらのご祭神は「加茂玉依姫かもたまよりひめ」。賀茂氏の神である。

玉依姫命は、下鴨神社の祭神の一柱。賀茂氏の祖とされる「賀茂建角身命」の娘にして、火雷神との間に上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」をもうけた女神。

なぜ秦氏の祖神を祀る社に賀茂氏の神が祀られているのかは不明とのことだが、秦氏と賀茂氏は姻戚関係にあり、かなり強い結びつきであったというから、大きな違和感はないが。

劔石(雷石)

御劔社の裏の斜面に巨石がある。それが御劔石。

御劔石

この形が劔に似ているから名付けられたというが、私には剣に見えない。

さて、この御劔石には別名がある。雷石だ。

御劔石(雷石)

なぜ雷石と呼ばれるかというと、稲荷大社の神官・秦親盛が享保17年(1732)に編纂した『稲荷谷響記』のなかに、

その昔、この岩に雷が落ちたので、神がその雷をこの岩に封じ込め、注連縄で縛った

との伝承があるから。

実際、こうして見ると、雷が落ちて石に亀裂が入ったのでは?と想像され、御劔石より雷石の方がしっくりくる。

雷と稲作

雷の多い年は豊作なんだそう。雷の光が当たると稲が妊娠するからと言い伝えられてきた。だから稲のつまで「稲妻」の言葉が出来たらしい。

これは、

雷が多い=夕立が多い=昼間はカンカン照りで積乱雲が発達して雷が発生する=日照量が多く、降水量も多い=稲作に好条件

だということだけでなく、

放電した水は、そこに含まれる窒素量が1.5倍になった。
放電した水で育てたカイワレ大根は、通常の水で育てたものより2倍のスピードで成長した。

だそうだ。

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稲荷山南稜線の神蹟

上之社神蹟(一ノ峰)

長者社神蹟から高低差20mをひたすら登ること10分ほどだろうか。稲荷山の最高峰である一ノ峰に到着する。

東寺に伝わる稲荷大明神流記によると、ここが「大明神」が鎮座していた場所となるのだが、今は麓の本殿に祀られているので、今こちらに祀られるのは「末廣大神」と名付けられた稲荷神。と思う。

仮に本殿の祭神と対応させるなら大宮能女大神となるが、末廣大神=大宮能女大神なのかどうかは明らかにされていない。

そもそも「末廣大神」というネーミングはお塚のそれと同じ匂いを感ずる。それもそのはず。七神蹟は伏見稲荷大社公式のお塚で「親塚」と呼んでいるそうな。

一之社 親塚

親塚であるからして、その周りには子塚が設営されるわけだ。こちらも周囲にはお塚がたくさん並んでいる。山中のお塚は暗くて墓石が並んでいるようにも見えるのだが、ここは山頂だけあって明るく、心持ち清々しい。

末廣の神名の由来は明らかにされていないが、無理やり「五穀豊穣」につなげようとするならば、末広がり=八の字=稲穂が頭を垂れた様子、すなわち「実り」を意味するのではなかろうかと想像する。

ここに円墳があったともいわれているが、詳細は明らかではない。

中之社神蹟(二ノ峰)

中之社神蹟

上之社から少々下ること3分ほどで中之社神蹟に到着。

東寺に伝わる稲荷大明神流記によると、ここは本地仏「千手観音」が祀られ、その垂迹が「大明神の妻」としている。

今は麓の本殿に祀られているので、今こちらに祀られるのは「青木大神」と名付けられた稲荷神と理解するべきか。七神蹟のひとつであるからして「親塚」である。

仮に本殿の祭神と対応させるなら佐田大神となるが、青木大神=佐田大神なのかどうかはわからないし、女神でもなさそうだ。

青木の神名の由来は明らかにされていないが、稲が青々としてグングン伸びている様子を表しているのではなかろうかと感ずる。

荷田社神蹟(間ノ峰)

荷田社

中之社神蹟から坂道を降りること2分程度。間ノ峰と称する峰に荷田かだ社神蹟がある。二ノ峰と三ノ峰の間にある小山だから間ノ峰というのだろう。

荷田社の荷田かだは荷田氏の荷田かだ。荷田氏の祖先を祀る峰だったのではないかとされる。ちなみに荷田かだ氏ははた氏の一派といわれ、伏見稲荷の社家であった家柄だ。

一方で秦氏の祖先を祀る長者社が山の北側の谷合いにあるのに対して、こちらは一ノ峰-二ノ峰-三ノ峰と並ぶメイン参道に鎮座している。表の荷田氏、裏の秦氏、、、とても対象的に映る。

祭神は伊勢大神とのこと。

伊勢大神は天照大神を指すという説が多い。がしかし、荷田氏と天照大神の関連性が見えてこない。

東寺に伝わる稲荷大明神縁起に、

弘法大師が、稲を担ぎ、顔が龍、頭の上で光を放つ「荷田竜頭太」という地主神から稲荷山を譲り受けた

とある。

普通に考えたら、荷田社には荷田氏の祖神で稲荷山の地主神である「荷田竜頭太」が祀られるべきであろう。

そもそもここは稲荷お塚信仰の地であるからして、自由に神名を付けることができるという文化がある。公式な親塚といえどもそうだったのかもしれない。

「伊勢大神」という神名が「伊勢の神様」であるという保証は無いのではないだろうか。

どうしても伊勢を伊勢と考えたいなら「伊勢の稲荷神」、すなわち外宮に祀られる「豊受大神」の方が、よほど似つかわしいと思うのは私だけでは無かろうと思う。

ちなみに、神域入り口に建つ石鳥居は奴祢鳥居ぬねとりいと称される鳥居で、額束の両側に合掌状の破風扠首束はふさすつか(さすつか)をはめた珍しいものである。

下之社神蹟

下之社

荷田社神蹟から歩くこと1分少々で三ノ峰にある下之社神蹟に到着。

今の本社は、ここにあった下社が麓に遷されたもの。

麓に遷されたのち、山上にある中之社と上之社が戦火で焼失したため、中之社と上之社の神様を「麓の下之社」に合祀した。

だから神殿の中座(一番いい場所)には、かつての下之社の祭神が鎮座していると、私は理解している。

祭神名は「白菊大神」。

東寺に伝わる稲荷大明神流記によると、ここには大多羅之女が祀られていた。本地仏は如意輪観音。稲荷大明神の前妻だという。

今は麓の本殿に祀られているので、今こちらに祀られるのは「白菊大神」と名付けられた稲荷神。と思う。

仮に本殿の祭神と対応させるなら宇迦之御魂大神となるが、白菊大神=宇迦之御魂大神なのかどうかは明らかにされていない。

田中社神蹟

田中社

三ノ峰から下ること3分程度で四ツ辻に到着する。四ツ辻からスタートし、たくさんのお塚を見ながら6つの神蹟を巡礼し、お山を1周したことになる。

その四ツ辻の北、稲荷山にある四つ目の峰「荒神峰」が田中社神蹟である。

田中社というからには、本社に祀られている田中大神を祀るものと考えるが、祭神名は「権太夫大神」だ。

田中大神の素性は明らかではない。

東寺に伝わる稲荷大明神流記によると、下ノ社の祭祀神「大多羅之女」が産んだ子とあるので、今の祭神に照らし合わせると、宇迦之御魂神の御子となる。

明治初期の資料では大己貴命だろうと記されているし、社司伝来記には「荒神峰には山の神が祀られている」とあるのみ。

ザっと駆け足でご紹介申し上げてきた。今後も修正や追加をくわえていくことになろうと思う。時々見に来ていただければ幸いと存ずる。

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