志貴縣主神社|大阪|河内国の惣社
志貴縣主神社は、大阪府藤井寺市惣社にある神社。延喜式神名帳に記載ある式内大社。
地名の惣社は、当社が河内国の惣社だったことに由来する。近くには国府遺跡があり旧石器時代から中世までの遺構が出土しており、河内国の政治の中心地だったことを物語っているという。
志貴縣主神社について
志貴県主神社 概要
- 所在地 大阪府藤井寺市惣社1丁目6−23
- 電話番号
- 主祭神 神八井耳命
- 社格 式内大社、郷社
- 公式HP なし
志貴県主神社のアクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄南大阪線「土師ノ里駅」徒歩10分
- JR大和路線「柏原駅」徒歩20分
駐車場
- なし
志貴縣主神社の祭神
主祭神は、神八井耳命。
神八井耳命(かむやいみみのみこと)
古事記によると、
神八井耳尊は、神武天皇がヤマト建国後に娶った皇后との間に生まれた3兄弟の次男。神武天皇が日向国時代の妃との間にも当芸志美々命(たぎしみみ)・岐須美美命(きすみみ)がいる。
神武天皇が崩御されたあと、異母兄である当芸志美々命が皇位を狙って3兄弟を殺そうと企てた。それに気づいた皇后が3兄弟に知らせる。
先手を取って芸志美々命を殺すことにした3兄弟だが、兄の神八井耳命は体が震えて討ち取ることが出来ず、弟の神渟名川耳尊が討ち果たした。
兄の神八井耳命はこれを恥じて、「勇敢なあなたが皇位を継いでください。私はあなたのために神祀りを行いましょう」と言って、皇位を譲った。
このような、心優しい神八井耳命は多くの氏族の祖となる。代表的な後裔は「多氏」。
その多氏と同祖として、平安時代の『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)に、次のような記載がある。
- 河内国皇別 志紀県主・・・多同祖。神八井耳命の後。
- 河内国皇別 志紀首・・・多同祖。神八井耳命の後。
配神
配神として、天照大神・春日四神・住吉四神を祀っている。
当社は惣社であった。惣社は国府の近くに作られた神社で、そこに参拝すれば国中の神社に参拝したことと同じことになるという便利極まりない神社だ。
そういう性格からして、かつてはもっと多くの神々が祀られていたと想像される。
志貴縣主神社の創建
創建年代は定かではない。
神社の石碑には、
大和時代の初期の頃、柏原付近から南の道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子・神八井耳命を始祖とする志貴県主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であると考えられている。 |
とある。一文が長い。。。
河内に志貴県が設置されたのがいつ頃かが判れば、神社の創建もおよそ見当がつくのだが、それも明らかではない。
しかし、古事記の雄略天皇紀に、
天皇が日下にいくために生駒山を越えていたとき、山の上から見下ろすと、屋根に堅魚木をつけた「志貴の大県主」の大きな屋敷が見えた。天皇は「天皇の宮殿を真似して屋敷を建てるとは不届きものである。成敗してくれるわ!」と言った。 |
とある。
雄略天皇の御代が西暦400年代だとすると、それ以前には河内に志貴県が存在していた可能性があるということになるわけである。
国府が設置され惣社に指定されたのは、村上天皇の御代。西暦950年前後である。この時点を以って創建されたという説もあるが、それでは延喜式神名帳に大社格で記載されていることとの整合性はどうだろうか。。。
志貴縣主神社 参拝記録
大和川と石川の合流地点の西側。允恭天皇陵の北に惣社という地名がある。完全なる住宅地なのだが、その住宅地の中に志貴県主神社は鎮座する。
ここはかつて惣社であった。惣社ということはこの近くに河内国府があったはずだ。
当社の250mほど東から旧石器時代から中世の遺構が見つかった。また、允恭天皇の東には国府という地名が残る。
河内国府がここらへんにあったと考えてよさそうだ。
ちなみに、石川を挟んだ対岸に国分という地名もある。これは国分寺があったから。紛らわしい。
駐車場
車で近づくことは十分可能である。しかし、神社には駐車場はない。
鳥居前から真っすぐ北へ伸びる道路を進むと、市立保育所の送迎のために用意されているでろう駐車場がある。「他の人の駐車禁止」と書かれてあるからして、駐車してはいけない。しかし誰もいない。
これ以上は申し上げない。
社頭
朱色の明神鳥居と石造りの控柱が鉄筋で繋げられるという斬新な設計である。さすがは惣社である。
惣社たるもの、これぐらいの勢いがなければ務まらぬ。
拝殿
新しめの拝殿。向拝はついていない。シンプルなデザインだ。やや背が高いか。前面は細かい格子がはめられていて、風通しがよさそうである。
二拝二拍手一拝。
本殿
なかなかもって、存在感のある神殿である。
肉厚で優雅な曲線を持つ銅葺きの屋根はあたかも萱葺かと思わせるほどの精巧な造り。
そこにもって、流造の向拝に千鳥破風と唐破風をダブルで取り付けているところなど、質素な中にも見る者を惹きつけて止まない魅力を持つ神殿である。
惣社たるもの、これぐらい攻撃的でなければ務まらぬのだ。
式下社
本殿の右手に覆屋に覆われた境内社が。
賽銭入れの柱に「式下大神」と書かれてあった。これは一体、、、
式下と言えば式下郡。大和国の旧郡の名称でもある。磯城郡あるいは磯城県が上下に分かれたもの。となれば式下とは磯城。
それを踏まえて式下大神のあたりを付けるとなれば。。。大和国磯城県主の祖「弟磯城:亦の名を黒速」だろうか。
ネット情報によると、河内名所図会は志貴県主神社の祭神を黒速としているらしい。(私は確認できなかったが。)
河内志貴県主と大和磯城県主とでは、系統が全然違うとはいうものの、、、うーん。わからないのである。
もしかして、饒速日尊?
最後までお読み頂き、ありがとうございます!
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