忍熊皇子社|奈良|哀しい兄弟の物語

2020年4月17日

忍熊皇子社は、奈良県奈良市押熊にある神社というかお墓というか。押熊の氏神様「押熊八幡神社」に隣接する円墳上にある。

14代仲哀天皇の二人の皇子(兄弟)を祀る。

参拝記録の前に、その兄弟にまつわる哀しい物語をご紹介しないわけにはいかないだろう。

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忍熊皇子社 概要

  • 所在地  奈良県奈良市押熊町287
  • 電話番号  
  • 主祭神  麛坂王子・忍熊王子
  • 創建年    不明
  • 社格   なし
  • 公式HP   なし

忍熊皇子社のアクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄奈良線「学園前」→高の原駅行「押熊北口」下車5分
  • 近鉄奈良線「西大寺」→押熊行「南押熊」下車5分

駐車場

  • あり(無料)

押熊郷土資料館の駐車場に停めよう。

麛坂皇子、忍熊皇子の物語

麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は、14代仲哀天皇と大中姫命との間に生まれた御子。兄弟は、いずれはどちらかが皇位を継承するだろうと思っていた。

そんな折、仲哀天皇は息長帯姫命(おきながららしひめのみこと)を皇后として迎えた。(のちの神功皇后である)

ある日、熊襲が反乱を起こした。仲哀天皇は熊襲国征伐のため穴門(山口県)へ移動。皇后も呼び寄せた。

筑紫の橿日宮(福岡市)に滞在中、仲哀天皇は住吉大神を疑ったために崩御なされた。その時、皇后は妊娠していたが、住吉大神のお告げに従い新羅征伐を敢行した。

新羅征伐から筑紫に戻ったとき、御子を生んだ。誉田別命(ほむたわけのみこと)である。

神功皇后は皇子をつれて大和国へ向かったその時、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は、皇后が産んだ御子に皇位を奪われることを恐れ、播磨の赤石(明石)に亡き父の御陵を造営するという理由で人馬を集めて、石垣を築いて神功皇后一行を待ち伏せした。

時を同じくして、東国(おそらく大和国)では五十狭茅宿禰(いさちのすくね)も呼応して挙兵。

兄弟たちは、事の成否を占うために兎我野に行き、「事が成就するならば、良き獲物が得られるように!」と誓約した。結果、赤猪が飛び出してきて、麛坂皇子は殺されてしまった。

残された忍熊皇子は、全軍を明石から住吉まで退却させた。

一方、神功皇后は兄弟の反乱を聞きつけ、瀬戸内海を通らずに外海から紀伊国に立ち寄り難波へと向かったが、船が思うように進まなかったため、占いをした。

その時の神のお告げに従って「廣田国」「生田長峡国」「長田国」「大津の渟中倉の長峡」に神を祀ったところ、船は無事に海を渡ることができた。神功皇后は紀伊国に戻り軍容を整えたうえで、忍熊軍征伐に向かう。

大軍がやってきたので、忍熊皇子軍は宇治まで退却を余儀なくされた。

皇后軍は、武内宿禰と武振熊を将軍として追撃を命令。両軍は、宇治川をはさんで対峙。しばらくの膠着状態ののち、武内宿禰の奇策によって忍熊軍が崩れはじめる。

崩れた忍熊軍は逢坂へ退却したが、そこでも殲滅され、万事休した忍熊皇子と五十狭茅宿禰は瀬田の渡で入水に自ら命を絶った。

数日後、宇治川にご遺体が上がったという。

別の説も、、、

このように、正統に対して反乱を起こした皇子達として描かれているが、史実としては少しく違う見方もあるようだ。

逆に、当時の政権中枢であった佐紀地域の正統は兄弟の側にあり、それに対して神功皇后・応神天皇が反乱を起こし、勝った応神天皇が奈良から河内へ政権中枢を移したという説がある。

それゆえ、佐紀地方での古墳造営が終わり、河内の古市・百舌鳥に集中して造営されるようになったとか。

可哀想な兄弟なのである。

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忍熊皇子社 参拝記録

忍熊皇子社は、押熊八幡神社の東80mほどの小山の上にある。小山と書いたが実は直径16m高さ2mの円墳。

地元の言い伝えでは、忍熊皇子の墳墓だとされるが、その真偽は定かではない。私見では、地名が押熊であることから、いつの頃からか忍熊皇子と結びついた伝承だろうと推測する。

がしかし、誰の陵墓であったとしても、現在そこに祀られているのが麛坂皇子と忍熊皇子であるることは事実であって、過去に関する推測などは、もうどうでもよいのである。

社頭

石造りの素木鳥居が立つ。「麛坂王子・忍熊王子 舊蹟地」とある。「舊」は「旧」「ふるい」という意味だ。

周囲をブロック塀で囲まれている。

石の祠

この祠がぽつねんと祀られている。榊が新しくて綺麗だから、ちゃんと祀られているようだ。

ご冥福を祈ろうではないか。。。

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奈良

Posted by リョウ