村屋坐彌冨都比賣神社|奈良|大神神社の別宮

2020年4月14日

村屋彌冨都比賣神社(むらやにます みふつひめ)は、奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂にある神社。

延喜式神名帳に記載ある式内社で、しかも式内大社。由緒ある神社である。

大和国を南北に通る古代の街道「中つ道」が、初瀬川を渡る地点に鎮座している。この立地は交通の要衝という意味で特別な場所であったと思われる。

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村屋彌冨都比賣神社について

村屋坐彌冨都比賣神社の概要

  • 所在地  奈良県磯城郡田原本町大字藏堂426番地
  • 電話番号  0744-32-3308
  • 主祭神  美穂津姫命、大物主神
  • 創建年    不明
  • 社格   式内大社・県社
  • 公式HP   なし

多坐彌志理都比古神社のアクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄橿原線「笠縫駅」徒歩35分程度

駐車場

  • あり(無料)

村屋彌冨都比賣神社の祭神

主祭神は美穂津比賣命。配神に大物主命を祀る。

美穂津比賣命

日本書紀に登場する女神。

大国主命が葦原中国を天津神に国譲りしたあとのこと。大物主命(大国主命の和魂の位置づけか)が高天原に参上したとき、高皇霊産神が、

「お前が国津神の娘を娶ったならば二心ありと見る。がゆえに、私の娘を妻とするがよい。そして、事代主神とともに八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ。」

と言って、娘の美穂津姫を与えた。

つまり、三輪山に鎮まる大物主大神のお妃ということになる。

「美穂」は、稲がたわわに実った美しい稲穂のことを表す。農耕の神としてこの地に祀られていたのだろう。

大物主命

記紀に登場する神。その本質が判りずらい神秘的な神として人気がある。

記紀に初めに登場するのは、大国主命の国造りの場面。

日本書紀 第八段(6)では、、、

大国主と少彦名は全国を回っては国を作り上げていった。その道半ばで少彦名命が常世の国に行ってしまった。

それでも大国主命は一人で国を回り未完成のところを作り上げていき、出雲に帰ってきた。
そして、「今、この国を治めるのは、私だけだ。わたしと共に天下を治めるものがどこにいるのか、、、」と言った。

その時、海を照らしながら一つの光がやってきた。
そして、「わたしがいたからこそ、お前は国造りの大業を成しえたのであるぞよ」と言った。

大国主命が名を尋ねると、「そなたの幸魂・奇魂である。」と答えた。
どこに住みたいか尋ねると「日本国(やまとのくに)の三諸山に住みたい。」と答えた。

これが大三輪の神である。

他にも、大物主神にはいくつかの逸話があるが、長くなるのでやめておこう。

村屋彌冨都比賣神社の創建

創建年代は不明。

日本書紀 天武天皇 即位1年(673年) 壬申の乱において、、、

村屋神(むらやのかみ)が、祝(ほふり:神官)に神懸って言いました。
「今、吾が社の中の道を通って、敵兵たちが到着する。吾が社の中の道を塞ぐべし!」

この功により、村屋神は神階が与えられたらしい。

この村屋神を、女神を祀る当社とするか、初瀬川の対岸に鎮座していた軍神を祀る村尾神社なのか、議論の分かれるところではあるが、いずれかは飛鳥時代には存在していたということである。

村屋彌冨都比賣神社のご利益

美穂津姫と大物主神の夫婦神が祀られているからして、「縁結び」のご利益がいただけると評判だ。

また美穂津姫は「内助の功の神」としても信仰を集めるという。

さらに大物主神は「大願成就」のご利益を頂けるらしい。

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村屋彌冨都比賣神社 参拝記録

ここは、最寄り駅からだと徒歩で30分以上はかかる場所。車でのアプローチが現実的かと思われる。

また、神社周辺の道路は極狭のため、「しきのみち はせがわ展望公園9号 さくら広場」の駐車場を利用されることをお勧めする。

さくら広場

ここには、トイレや自動販売機も完備されていて、桜のシーズンでなくても心地よいスポットだと思う。

初瀬川越しに三輪山を望むことができるのも魅力的だ。

ここから村屋坐彌冨都比賣神社までは、歩いて3分ぐらいなので、風景を楽しみながら行かれるのがよかろうと思う。

境内配置図

一の鳥居

本殿からおよそ200m南に一の鳥居がある。足元で初瀬川から引かれた農業用水が勢いよく流れていくせせらぎが聞こえる。

二の鳥居

綺麗な社標が立つ二の鳥居。ちなみに、この鳥居にむかって右手手前に車2台停められるかどうかというスペースがある。

徒歩がキツい方のご参拝なら、ここに停めるのも良いかもしれない。

内参道

少し薄暗い内参道に木漏れ日が差し、その先の本殿が明るく輝いている。美しいではないか。

拝殿

こちらが、村屋坐彌冨都比賣神社の拝殿。せっかくなので、靴を脱いで拝殿内で参拝させていただいた。暖かい日だったが、拝殿内はキリっとした空気。やっぱり神社が好きだ。

二拝二拍手一拝。新型コロナウイルス退散の祈りを捧げる、、、

本殿

朱塗りの神殿が2つ連結された本殿。夫婦神を祀るに相応しい造りである。

本殿の間近まで行けそうな感じがしたが、やめておいた。

なんといっても畏れ多くも大物主神が祀られているのだから、、、

境内社のご案内

久須須美神社

こちらは久須須美神社。境内社となってはいるものの延喜式神名帳に記載ある式内社だ。

祭神は、天之久之比神と事代主神の二柱。古資料の編纂時代によって、両神の主祭神格が入れ替わっている。

天之久之比神

鍛冶の祖神で、亦の名を天目一箇命という。大陸から渡来した製鉄技術を持つ集団が居住したとき、鍛冶の神を祀ったのが始まりだったのでは?という見方がある。

事代主神

大国主命の御子。であるがゆえに、本社の祭神である大物主神の御子ともいえる。(としておこう)

高皇霊産神から、大物主神とともに皇孫を守るように命じられた神。また、神のお告げを述べる神ともされるが、その一方で民間信仰のレベルでは、エビス神と習合したため商売繁盛の恵比寿神として祀られることが多い。

久須須美神社の創建

創建年代は定かではないが、式内社であることから900年代前半には存在していた神社である。

前述の製鉄技術を持った渡来人が祀ったとなれば、古墳時代かもしれないが、想像の域を出ない。

かつては、初瀬川に架かる蔵堂橋の西岸、すなわち本社境内の北端あたりに鎮座していた独立した神社であった。

ここは、古代の街道「中ツ道」と、水運「初瀬川」、そして飛鳥から法隆寺へと向かう「筋違道」が交差する地点で、物流拠点でもあり市場が発達した場所でもある。

であるからして、市場の神として事代主神が合祀されたのかも。もちろん、これも私の想像だ。

時代が下るにつれて人や物の流れも変わり、蔵堂の市場は衰退。戦国時代の戦火の被害もあり、一時期は、神社も完全に衰退していたようだ。

明治の初めに当社に遷座されたという。

服部神社

本殿の西隣に鎮座するのが「服部神社」。こちらも延喜式神名帳に記載ある式内社だ。

かつては、ここから西へ2kmほどの神来森という所に、波登里村・阿刀村の氏神として祀られていたが、戦国時代の戦火によってこちらに遷座されたと伝わる。

祭神は、天之御中主神と天之御鉾神。

天之御中主神

天地が分かれるときに現れた神。男女の別がない独神で、現れてすぐに隠れたとされる。いわゆる造化の三神の筆頭。

天之御鉾神

天之御中主神の13世孫で服部連の祖。さらには、「天照大神が高天原にて、天之御鉾を司とし、八千々姫を織女として織物を作らせた」という伝承もあいまって、服部連が織物の神として祖神と遠祖を祀ったものと考えられる。

千木が折れてぶら下がっている。修繕して頂きたく思う。

村屋神社

本殿の東前方に鎮座するのが「村屋神社」。こちらも、延喜式神名帳に記載ある式内社だ。

なんとも、境内に本社を含めて4社の式内社を持つとは、パワー全開である。

村屋神社は、ここから初瀬川の対岸に鎮座していたとされるが、南北朝時代の戦火によりこちらに遷座された。遷座された当時は、本殿と向い合せに祀られていたらしい。

祭神は、経津主神、武甕槌神、室屋大連神、大伴健持大連神の4柱。二つの社にどのような配分で祀られているかはわからなかった。

経津主神

武甕槌神とともに、大国主命に国譲りを迫った軍神。香取神宮の主祭神で、春日神社など藤原氏の氏神として祀られる神だ。

武甕槌神

経津主神とともに、大国主命に国譲りを迫った軍神。神武東征の時には、武甕槌神の神剣で神武一行を助けたという逸話がある。

両神とも、尊敬する親分は高皇霊産神。その高皇霊産神の娘神「美穂津姫」をお守りするために、村屋坐彌冨都比賣神社の近くに祀られたのではあるまいか。

前述の、壬申の乱で功のあった村屋神とは2神のことだったのではないかと思うのも頷ける。

室屋大連神と大伴健持大連神

室屋大連も大伴大連も、天武天皇の即位に直結する壬申の乱において、天武天皇(大海人皇子)軍の将軍として大活躍したことから、先の軍神2神に合祀される栄誉を得たのだろう。

物部神社

鬱蒼とした森の中に池があり、その真ん中にポッカリと浮かぶ小島。そこに鎮座するのが物部神社である。

橋は苔むし、池の水面も緑色の何かに覆われていて、なんともいえない雰囲気を醸し出している。

祭神は御炊屋姫命・宇麻志摩遲命で、物部守屋大連を配する。

御炊屋姫命

大和国葛城の事代主の娘で、長髄彦の妹。天孫「饒速日尊」の妻となり、物部氏の祖「宇麻志摩遲命」を生んだ。

宇麻志摩遲命

饒速日尊の御子で、物部氏の祖。父から譲り受けた十種神宝(とくさのかんだから)を神武天皇に献上し、王権の祭祀を司ることになる。合わせて石上神宮の武器庫の管理も司ることで軍事氏族へ発展。物部氏の隆盛の礎を築いた祖神である。

物部守屋大連

飛鳥時代の物部氏の宗家。当時伝来した仏教に対して廃仏を強行したがために、崇仏派の蘇我馬子と対立。丁未の乱で守屋は戦死。その後、物部宗家は衰退していく。

さて、この丁未の乱の時、守屋の長男である雄君が息子の押勝を連れて、当時の村屋神社の宮司家(室屋家)まで逃げて来た。

しばらくの間かくまっていたが、最終的には息子の押勝は跡取りのいない室屋家に預けられ、雄君は美濃へ落ちていったという。

室屋家は物部守屋公の孫を宮司家の当主として育て、今日まで守屋公の血筋が続いているという。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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