亀戸天神社|東京十社|合格と出世を祈るなら、花の東宰府天満宮がいい!
亀戸天神社は江東区亀戸に鎮座する比較的新しい神社であるが、明治維新直後に「准勅祭社」に列したこともある格式高い神社であり、現在は、日本の首都と東京都民を守護する「東京十社」の一つとして数えられる。
かつては「東宰府天満宮」とも称された。それは、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋など、福岡の大宰府天満宮に倣って造営されたからである。
亀戸天神社について
亀戸天神社 概要
- 所在地 東京都江東区亀戸3丁目6−1
- 電話番号 03-3681-0010
- 主祭神 菅原道真公・天穂日命
- 創建年 1662年
- 社格 准勅祭社、府社
- 公式HP http://kameidotenjin.or.jp/
亀戸天神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- JR総武線「亀戸駅」 徒歩10分
駐車場
- あり(無料)
亀戸天神社の祭神
主祭神は、天満大神こと菅原道真公。相殿に天穂日命を祀っている。
菅原道真公
平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様といわれる所以だ。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷。ほどなく死去した悲運の人である。
死の前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたという。
死去後、平安京に天変地異が相次ぎ、道真公の怨念ではないかとされ、道真公は「祟り神」とされた。「日本三大怨霊」の一人とされているほどである。(他、崇徳天皇・平将門公)
後に、その怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建された。その後、全国に天神信仰が広がり、現在ではすっかり「学問の神様」として昇華されたとされる。
天穂日命
素戔嗚命と天照大神の誓約で生まれた5男3女のうちの次男。兄は皇統の祖「天忍穂耳命」。
出雲の国譲り神話に登場する。
「国譲りの交渉約として高天原から葦原中國に降臨したが、大国主命に心服して3年間戻らなかった。」と、記紀では裏切り者のような書かれ方である。
しかしこれは、出雲国造の祖神として崇められる天穂日命を貶めたかった大和朝廷による、史実の改ざんではないかとも言われている。
出雲国造の祖であり、野見宿禰の祖、菅原家の祖である。野見宿禰の祖ということは土師氏の祖。すなわち、菅原氏は土師氏の一族なのだ。
亀戸天神社の創建
1646年。大宰府天満宮の別当寺「安楽寺」18代別当「善昇」の子孫にして、九州大宰府天満宮の神官であったという「菅原信祐」が、次のような神のお告げの和歌(神詠)を夢で聞いた。
「かふたちて さかふる梅の 若枝かな」
「かふ」は「十」と書くとの神託もあったらしい。
この和歌の意味は「梅の株を十に割って、十本の若枝を伸ばしなさい」となる。
「菅原信祐」は、この神詠を自らの使命と確信し、道真公ゆかりの飛梅の枝でご神像を彫り(おそらく十体)、道真公を奉斎するべき地を探す旅に出た。
遠く日光や盛岡まで巡り、十社ほどの天満宮を創建したという。
1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、村に元々あった天神の小祠にご神像を祀ったのが始まりである。
時まさに、本所は明暦の大火からの復興事業地区となっており、天神様を信仰していた四代将軍家綱が社地を寄進。
1662年、復興のシンボルとして、九州の大宰府天満宮と同じ設計の壮大な天満宮が造営された。東宰府天満宮の始まりである。https://googleads.g.doubleclick.net/pagead/ads?us_privacy=1—&client=ca-pub-8368244099051458&output=html&h=280&adk=3367652163&adf=1386355089&pi=t.aa~a.2092113340~i.41~rp.4&w=710&fwrn=4&fwrnh=100&lmt=1630047734&num_ads=1&rafmt=1&armr=3&sem=mc&pwprc=1088574743&psa=1&ad_type=text_image&format=710×280&url=https%3A%2F%2Fspiritualjapan.net%2F13845%2F%3Fpreview_id%3D13845%26preview_nonce%3D2ea498fe96%26preview%3Dtrue%26_thumbnail_id%3D13772&flash=0&fwr=0&pra=3&rh=178&rw=710&rpe=1&resp_fmts=3&wgl=1&fa=27&uach=WyJXaW5kb3dzIiwiMTAuMCIsIng4NiIsIiIsIjkyLjAuNDUxNS4xNTkiLFtdLG51bGwsbnVsbCxudWxsXQ..&tt_state=W3siaXNzdWVyT3JpZ2luIjoiaHR0cHM6Ly9hdHRlc3RhdGlvbi5hbmRyb2lkLmNvbSIsInN0YXRlIjo3fV0.&dt=1630047702796&bpp=2&bdt=1163&idt=2&shv=r20210823&mjsv=m202108240101&ptt=9&saldr=aa&abxe=1&cookie=ID%3D61c96507f29a2e03-2248648a26cb00e6%3AT%3D1630039159%3ART%3D1630039159%3AS%3DALNI_MZEN7X2QtWT7dfTUDg1Z2mJ6Pfmiw&prev_fmts=1200×280%2C0x0%2C710x280%2C336x280%2C710x280&nras=6&correlator=1126175572518&frm=20&pv=1&ga_vid=1072832656.1630039159&ga_sid=1630047702&ga_hid=1191928444&ga_fc=0&u_tz=540&u_his=1&u_java=0&u_h=1024&u_w=1280&u_ah=984&u_aw=1280&u_cd=24&u_nplug=3&u_nmime=4&adx=89&ady=6065&biw=1263&bih=913&scr_x=0&scr_y=2500&eid=44747620%2C21067496%2C31062297&oid=3&pvsid=265239208064509&pem=334&ref=https%3A%2F%2Fspiritualjapan.net%2Fwp-admin%2Fpost.php%3Fpost%3D13845%26action%3Dedit&eae=0&fc=384&brdim=0%2C0%2C0%2C0%2C1280%2C0%2C1280%2C984%2C1280%2C913&vis=1&rsz=%7C%7Cs%7C&abl=NS&fu=128&bc=31&ifi=7&uci=a!7&btvi=4&fsb=1&xpc=3BhSlUEdE7&p=https%3A//spiritualjapan.net&dtd=31972
大宰府天満宮の別当寺として安楽寺があるように、東宰府天満宮にも「東安楽寺」が建立され、「菅原信祐」を開祖とし別当に就任した。「開基別当大僧都法印菅原信祐」の誕生である。
1689年、当時の大宰府留主職であった大鳥居信兼と菅原信祐は兄弟の契りをかわしている。「菅原大鳥居信祐」の誕生である。
亀戸天神社のご利益
菅原道真公のご神徳は多岐にわたるのだが、主なご神徳は次の通りである。
学問の神様
道真公と言えば、学問の神様。シーズンともなると、受験合格祈願・学業向上祈願に参拝される人々の列は絶えない。もちろん、日頃の努力が必要なことは言うまでもない。
出世の神様
さらに、出世運向上が期待できる。藤原氏全盛時代に、右大臣にまで上り詰めた道真公。おそらく知識見識だけでなく、出世欲や出世運も強かったと推察するのである。
冤罪を晴らす神様
そして、冤罪を晴らしていただける神様でもある。「自分は何も悪くないのに、貶められてしまった。。。」と悔しい思いをされている方々の、その思いを一番わかっていただける神様だと思う。是非、参拝頂きたい。救われるやも。。。
うそ替え神事
うそ=鷽 で、鳥の一種。
「うそ」は幸運を招く鳥とされ、木彫りの「うそ鳥」を毎年新しいものに替えると、前年の悪いことが全部「嘘」(なかったこと)になり、新年の吉兆を招き、開運・出世・幸福を得ることが出来るという神事が、毎年1月24日・25日に行われる。
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亀戸天神社 参拝記録
朝から雨。しかも、9月下旬ながら、最高気温は20度下回る11月上旬並みという。
商談に間に合うように、亀戸のホテルを朝早く出発し徒歩で向かう。
これが亀戸天神社の参道である。
およそ天満宮は正面の鳥居越しに本殿は見えない。これほどスカッと本殿が見える天満宮は初めてだ。創建が江戸時代で比較的新しいからだろうか。
大鳥居
鳥居前で参拝してから出勤するのだろうか。そのような人が多い。
男橋
心字の池に架かる太鼓橋。朱色の欄干が鮮やかだ。
ここから始まる三本の橋は、大宰府天満宮と同じで、池と橋を人生に見立てて「三世一念の理」とされる。
この男橋は過去を表す。ここから始まる三つ橋を渡るごとに清められるという。
平橋
この「平橋」は現在を表す。
女橋
女橋は未来の希望である。
弁天社
女橋を渡る手前の右手に弁天社が鎮座する。
もともとは、九州太宰府天満宮の境内社「志賀社」を勧請したものである。勧請当初の祭神は、綿津見三神。海を司る神で、海上安全や大漁安心のご利益がある神である。
それが、時を経る中で、池があり、中島があり、そこに祠があるという風景を、上野不忍池の弁天堂に見立てたことから、弁天堂あるいは弁天社と呼ばれるようになったらしい。
今ではすっかり弁天様を祀る祠となっている。祭神が移り変わることはよくあることだ。
ご利益は、財福・芸能向上である。
拝殿
立派な拝殿である。拝殿・幣殿・本殿がつながっていて左右に張り出しがある権現造り。カッコいいのである。
二拝二拍手一拝。
ご神木
拝殿から振り返ると、ひときわ大きなご神木が目に飛び込んでくる。群を抜いて高くそびえている。
ご神牛
天満宮にはつきものの「臥牛」である。このご神牛を撫でると、病気治癒・学業成就にご利益があると言われている。
天満宮の神の使いは「牛」。
- 道真公の誕生年が丑年だった
- 左遷の旅の途中、刺客に襲われたとき牛に助けられた
などなど、道真公と牛をつなぐ逸話がいくつかある。
なかでも、
道真公の亡き骸を運ぶ牛が、ある場所で臥したままテコでも動かなくなった。これを遺言と照らし合わせて、そこを道真公の墓所とすることにした。
という逸話が、この臥牛の「ご神牛」の由縁である。
うその碑
前述の、うそ替え神事の「鷽」の石碑である。鶯(うぐいす)かと思ったが、鷽(うそ)なのである。
五歳の菅公
「美しや 紅の色なる 梅の花 阿呼が顔にも つけたくぞある」
これが、五歳の道真公が詠んだ歌らしい。阿呼とは道真公の幼名。
子供らしい歌であるが、紅を顔につけてみたいというあたり、ちょっと女の子っぽい側面が見えるではないか。
ちなみに、菅公(かんこう)は道真公のこと。学生服の「カンコー」はここから引用したと思われる。
境内社など
神楽殿
さて、拝殿に向かって右手に神楽殿がある。拝殿本殿に比べるとシックで風情がある。私は少々ひなびた感じの方が好きである。
亀井戸跡
神楽殿の裏に回り込むと、「亀井戸跡」なるものを発見した。
亀の甲羅に石碑が突き刺してあるような、斬新なモニュメントである。
よく見ると、画像の左下隅に青い亀が一つ、右下隅にも黄色い甲羅の亀が一つ、自然石で作られている。
ここに井戸があったのか、またそれが亀井戸であったかどうかはわからないらしい。
お犬様
その隣に、「お犬様」と呼ばれるものがある。
あまり近くで撮影するのが憚られたのだが、近くで見ると狛犬のようである。そして、狛犬の頭にこんもりと乗っているのは塩だろう。
病気平癒のご利益があるという。
こちらの由来も定かではないらしく、亀戸天神社のHPにも掲載されていない。
塩舐め地蔵?
ここから南東すなわち東大島駅の方角に2.5kmにある宝塔寺内に「塩舐め地蔵」なるものがあるらしい。こちらは塩で白くなったお地蔵様である。供えられた塩をイボに塗ると、イボが取れるという言い伝えがある。
これに倣ったものであろうか。
関西にはあまりないと思うのだが、関東には他にも塩舐め地蔵なるものがいくつかあるようなので、いくつかご紹介だけしておこう。
- 塩嘗地蔵尊 <横浜市神奈川区神大寺> 旧神大寺跡地?
- 塩舐め地蔵<栃木県鹿沼市> 松源寺
- 塩舐め地蔵<鎌倉市十二所> 光触寺
- 塩なめ地蔵(銭塚地蔵)<台東区浅草> 浅草寺境内銭塚地蔵堂内
- 塩地蔵 <足立区西新井> 西新井大師
- 塩地蔵尊 <文京区小石川> 源覚寺
- 塩かけ地蔵 <新宿区新宿> 太宗寺
御嶽神社
御嶽神社は、神楽殿の隣に鎮座する神社。祭神は延暦寺13代座主「法性坊尊意僧正」。もともとは亀戸天神別当の玄関辺りに鎮座していたが、1677年に亀戸天神社の境内地内に遷座。
御嶽神社のご利益
祭神の「法性坊尊意僧正」は、930年の2月の卯の日・卯の刻に亡くなった。よって「卯の神」として敬拝されている。
「卯の神」は陽気を迎える神とのこと。福徳才知、愛敬を願い、除病・延命を祈るものとされた。
また、卯年生まれの守護神とも言えよう。
太宰府御岳山とは?
さて、由緒書には、太宰府御嶽山からの勧請と書かれてあった。大宰府御嶽山とは?これは難解である。
宗像大島の御嶽神社だろうか。しかし、こちらの祭神は皇祖天照大神と湍津姫命(宗像三女神の一柱)であり、ここからの勧請とは考えにくい。
普通に考えると、太宰府天満宮の「尊意社」からの勧請であると思われるが、前述の志賀社(現在は弁天社)の存在が気になる。
前述の志賀社は祭神から判断して、大元の勧請元は「志賀海神社」。福岡の志賀島に鎮座する古社だ。筑紫と朝鮮半島を結ぶ航路の安全を司るという。
宗像大島の中津宮も同じく、筑紫と朝鮮半島を結ぶ航路の海上安全の神社で、御嶽神社はその奥宮とされる。
こうなってくると、大島の御嶽神社が勧請されてもおかしくはないが、祭神に関連性がない。
悩ましい。
「法性坊尊意僧正」とは
法性坊は、大秀才「道真公」の先生である。また、延暦寺の尊意僧正とは大変な地位であり、実力もえげつなくスゴイと聞く。
法性坊は、祈雨の法を修し見事に雨を降らせたり、平将門の乱において大威徳法を修めて将門公の調伏に霊験あらたかだったとか、その功績を上げれば枚挙にいとまがない。
実は、九州大宰府天満宮の心字池や太鼓橋などの造営は「法性坊」が手掛けたものである。
天満天神に睨みを効かせる大僧侶
それでかどうか、比叡山にいた法性坊のもとに道真公の霊が現れる。「私はこれから悪神を引き連れて内裏に乗り込もうと思う。天皇はきっと私を退治するために、あなたを呼び寄せるだろう。しかし、決していかないで欲しい」と頼み込んだ。
法性坊がそれを断ると、道真公の霊は比叡山に火を放ち、雷雨を轟かせ京都市中を洪水の海にしようとしたが、法性坊の呪力によって、災いは悉く打ち消され、道真公の霊は諦めて天に昇って行ったという。
このように、日本三大怨霊と言われた天満大自在天神の霊力に対抗出来た、唯一の大僧侶だったのである。
花園社
池沿いを南に進むと、池の畔に花園社が鎮座。祭神は、道真公の奥方「菅原宣来子公」。相殿に14人の御子達を祀る。
道真公左遷の折、宣来子公は京に残され、ついぞ再会することは無かったという。
花園社のご利益
ご神徳は、「安産・子宝・育児の神」であり、夫の出世を支えた「立身出世の神」でもある。
花園とは?
由緒書によると、筑前花園からの勧請という。福岡の花園?これまた難解である。
福岡県大牟田市に「花園町」という地名を見つけた。そのすぐ南の宮原町に「駛馬天満宮」が鎮座している。
道真公が妻や子を慰めるために都に送った自画像がご神体であるという、非常に歴史と由緒ある天満宮である。しかし現在こちらに宣来子は祀られていない。
一方、太宰府天満宮の古絵図を見ると、「花園輪塔跡」というものが存在したようだ。しかし、これと宣来子公との関連性はわからない。
やはりこれもまた、太宰府天満宮の楓社の勧請と考えるのが妥当だろう。
最後に
西国に数ある天満宮の中においてその宗宮と称された名声に奢ることなく、隅々まで清掃が行き届いており、神職さんの心意気(東京なので、あえて「心意気」)を肌で感じることのできる神社だった。
雨天という悪条件にもかかわらず、清々しい気持ちにさせてもらえたのは、まさにその心意気のなせる業なのかもしれない。
ただ、返す返すも心残りなのは、紅梅殿の存在に気が付かなかったことだ。。。
「またおいで!」ということだろうか。。。
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最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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