誉田八幡宮|大阪|安産祈願なら日本最古の八幡宮へいらっしゃい!

2018年8月7日

誉田八幡宮は羽曳野市誉田にある、自称「日本最古の八幡宮」である。その境内は誉田御廟山古墳(伝:応神天皇陵)の後円部に接する。

こちら八幡宮ではあるが安産祈願が有名。境内社「安産社」と本殿に祈願すれば安産が約束されるという。

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誉田八幡宮について

誉田八幡宮 概要

  • 所在地   大阪府羽曳野市誉田3丁目2−8
  • 電話番号  072-956-0635
  • アクセス  近鉄南大阪線「古市駅」徒歩12分
  • 駐車場   あり(無料)
  • 主祭神      応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
  • 創建年      伝:559年
  • 社格   府社
  • 公式HP   http://www012.upp.so-net.ne.jp/kondagu/index.html

MAP

誉田八幡宮の創建

誉田八幡宮の社伝によると、、、「559年。欽明天皇の命により、誉田御廟山古墳前に社殿が建立され八幡大菩薩を勧請した。」これを創建とする。

八幡宮の総本宮であるところの宇佐神宮の創建はというと、「571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。」とある。

宇佐神宮の本宮(奥宮)と言われている大分八幡宮が神亀3年(726年)の創建。元宮と言われる矢幡八幡宮(現:金富神社)の創建も宇佐神宮創建の直前であっただろう。

誉田八幡宮の祭神

何も見えない。。。

誉田八幡宮の主祭神は、もちろん「応神天皇」である。中座に祀られている。

そして、左座に「仲哀天皇」、右座に「神功皇后」を合わせ祀っている。

応神天皇

応神天皇は、第15代天皇。14代仲哀天皇と神功皇后の御子であり、16代仁徳天皇の父。中国や朝鮮の史書と照らし合わせたとき、実在した可能性が高い最古の天皇と言われている。

誉田別天皇、胎中天皇などとも称される。

誉田別天皇と称された理由は、幼少期にここ誉田で育ったためで、存命中も誉田別が本名だったようだ。

一方、胎中天皇と称された理由は、古事記によると、、、

仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰たちが熊曽征伐のため香椎宮に滞在中のこと。

突然、神功皇后が神懸り、「海の向こうに金銀財宝がたくさんある国がある。私がその国を与えよう」と神の言葉を発した。

ところが、仲哀天皇は「高い山に登って見ても海ばかりで、そんな国は見えず。」と言い、その神託は嘘だと断じてしまった。

大神は怒り、「おまえは、この天下を治めるにあらず!死んでしまえ!」と言うと、程なく仲哀天皇は死んでしまった。

仲哀天皇のもがりが終わった後、大神が再び現れ、「この国は、汝の腹の子が治めるものなり」と言う。

武内宿禰が、「その子は、どちらでしょうか?」

大神曰く、「男よ」

武内宿禰が重ねて聞く。「あなた様は、どちら様でしょうか」

大神答えて曰く、「これは天照大神の意思である。我は底筒之男、中筒之男、表筒之男である。」

この神が住吉三神であることがわかり、応神天皇は母親の腹の中に居る頃から、天皇になるべき皇子であることのお墨付きをもらった。

よって「胎中天皇」なのである。

誉田八幡宮のご利益

応神天皇は生まれたときから腕に「鞆(とも)」のような盛り上がりがあったらしい。

「鞆とも」とは矢を射るときに左腕につける「弦ガード」。野球でいうところのエルボーガード?

産まれながらにして武具を身に着けていたとして、「武の神」「戦勝守護」として、武家を中心に信仰を集めた。

のだが、

公式ホームページによると、「安産・厄除守護神」である。

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誉田八幡 参拝記録

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南、すなわち前方後円墳の後円部分の先っちょに誉田八幡は鎮座している。

外環状線を南下、「応神陵前」交差点を左斜め。さらに「白鳥北」交差点を大きく左折。

一つ目の信号に「←誉田八幡宮」の看板があるが、ここは無視。二つ目の信号にも「←誉田八幡宮」の看板がある。

目印は、この灯篭である。

こおを左折すると、石畳の道となる。これが「東高野街道」。130mほどで左手に入口が見えるだろう。

東門

この両側が駐車場。さらに左奥にも大きめの駐車場がある。無料である。

大鳥居

一直線に伸びる内参道。大灯篭、鳥居、小灯篭、拝殿と見渡す景色が左右対称で美しいのである。

神額

八の字が、向かい合った鳩。鳩は八幡神の使い。遷座、勧請の際には鳩が道案内をしたという。

放生池

参道の右手に放生池がある。神宮寺があったころの名残である。龍はいいのだが、埴輪は。。。

藤の古木

放生池の前にある藤棚。長い歴史を感じさせるシワシワの幹でありながら、そこから青々と茂る緑の葉の若々しさ。このギャップに驚きつつ、「生命力」というものを感じずにはおられないのである。

水口と手水盤

龍の水口。ここにも水の神が宿るという。

さすがにここで二拝二拍手一拝など、恥ずかしくて出来ないのだが、心の中で「祓い給い、清め給え・・・」と唱えつつ、手と口を漱ぐのである。

安産の木

槐(えんじゅ)の木を安産祈願のご神木とし、その精霊を祀る祠がある。

かつて、三韓征伐から帰還した神功皇后が、九州の宇美で誉田別命を出産する際、槐(えんじゅ)の木を刈り取って産屋を造ったところ安産であったという。

本殿右座にその神功皇后が祀られており、本殿と安産社に参拝することで安産が約束されるという。

拝殿

まず目に入るのが、左近の桜と右近の橘。左近衛府と右近衛府が、神殿を守護する形式をとっているわけだ。

拝殿は大きな大きな割拝殿。唐破風は蛇腹天井となっているそうだが、見忘れた。残念。

▼こちらは近江神宮の蛇腹天井

本殿

この本殿、豊臣秀頼公が片桐且元に再建させたもの。

宇佐神宮や石清水八幡宮のような朱色の社殿が多い八幡宮の中にあって、この渋い色合い。私は好きである。

二拝二拍手一拝。

ここで思う。この本殿の方向は東向き。

本来なら本殿を通して応神天皇陵を拝するような方向で、すなわち南向きに造営されて然るべきなのでは?

創建当初は、現鎮座地から北へ1町の場所にあったとか。109m北というと応神天皇陵の濠にくっついていたということになろう。その時は南向きであったのだろうか。

後冷泉天皇行幸の際に、現鎮座地に遷座されたとのこと。

そういえば、後冷泉天皇の皇后が出産する際、前述の槐(えんじゅ)の木の枝を求めて誉田八幡宮に来られたらしい。その時のことだろうか。

本殿での参拝を済ませたあとは、拝殿右手から応神天皇陵後円部に行こう。

当宗神社

応神天皇陵へと続く小道の端に、小さな社が鎮座している。

当宗神社という。今は誉田八幡宮の境内摂社となっているが、もともとは、延喜式神名帳に「当宗神社三座」とある式内大社である。

旧社地は、ここから東北東へ約150mほどの場所、すなわち放生川と東高野街道の交差点付近にあったとのこと。

現在の祭神は素戔嗚命であるが、本来は朝鮮から渡来した氏族「当宗忌寸」の祖神「山陽公」を祀っていたようだ。残りの二座は不明。

いつから素戔嗚命を祀るようになったかも不明。

放生橋

放生川に架けられた放生橋。鎌倉時代の建造物である。貴重なものだ。

かつては、この橋を渡り、応神天皇陵の後円部山頂に建立されたお堂へと登ることが出来た。

姫待稲荷社

由来などはよくわからないのだが、神前に立ったときの感覚が、杭全神社の恵比寿社に似ている。

二拝二拍手一拝。柏手の音が木の香りが漂う拝殿内に鳴り響く。

誉田戎社

最後に誉田戎社に参拝。商売繁盛の神である。

まとめ

誉田八幡宮は、華美な装飾は無いものの、非常によく手入れされた美しい神社である。

武神とされる応神天皇の御廟がすぐそばにあるのだが、境内の雰囲気は全体的に優しく、女性らしさが漂っていた。

出産を控えた方々にお勧めしたい神社である。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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