安井金毘羅宮|京都|縁切り神社の最高峰!恐ろしく効果あり!逆効果もある?

2018年7月26日

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京都の縁切り”安井金比羅宮の概要

京都の繁華街を東西に貫く四条通りの東端に鎮座する「八坂神社」から南西方向に5分程度の住宅街の中に「安井金毘羅宮」は鎮座する。

「安井金比羅宮」は、なんといっても「縁切り」で有名なのだが、ここには極めて恐ろしい神が祀られているということをご存知の方は少ないのではないだろうか。

というわけで、安井金比羅宮に参拝する前に知っておくべき事柄を、まずは創建と祭神について、述べていきたいと思う。

京都の縁切り”安井金毘羅宮の創建

公式HPによると、、、

安井金毘羅宮の創建は、飛鳥時代・天智天皇の御代に遡る。時の権力者「藤原鎌足」が一族の繁栄と子孫の長久を祈願して、この地に御堂を建立したのが始まりという。そこに「藤」を植えたことから「藤寺」と呼ばれていた。

藤原氏の「別荘」のようなものであったと思われる。

創建から400年後の平安末期、この藤寺の藤をこよなく愛したのが「崇徳天皇」である。寵愛する阿波内侍をここに住まわせていた。1156年の保元の乱で敗れた「崇徳上皇」が1164年に崩御した際、阿波内侍は上皇自筆の御尊影を藤寺の観音堂に祀った。

「崇徳上皇」と非常に縁の深い場所であったことが窺える。

1177年、大円法師(だいえんほうし)が御堂に籠った際、「崇徳上皇」が現われ「往時の盛況を示された」。このことは直ちに後白河法皇に奏上され、法皇の命令によりこの場所に「光明院観勝寺」が建立された。

「往時の盛況を示した」の意味がよくわからない。神社の縁起書であるから、わざと「よくわからないように」記述されているのだと予感する。

「光明院観勝寺」は応仁の乱により荒廃したが、江戸時代1695年に太秦の安井にあった「蓮華光院」が移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになる。明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改められた。

とある。

本殿

京都の縁切り”安井金比羅宮の祭神

安井金比羅宮の祭神は、次の三柱である。

崇徳上皇(天皇)

崇徳上皇(天皇)
平将門・菅原道真と並んで「日本三大怨霊」とも、酒呑童子・玉藻前(白面金毛九尾の狐)と並んで「日本三大妖怪」ともいわれる、正真正銘の祟り神である。

鳥羽天皇の子として生まれたが、鳥羽天皇の父親である「白河上皇」と鳥羽天皇の「妃」との間にできた子ではないかという噂が広まったため、父である鳥羽天皇から疎まれる。これが不幸の始まりである。・・・ここからの経緯は長くなるため割愛する。・・・

崇徳上皇 讃岐に流される

保元の乱で、弟の「後白河天皇派」に敗れた「崇徳上皇」は、讃岐へと流される。上皇は讃岐の地で過去の様々な不幸な出来事や権力争いの確執を忘れるため仏教に勤む。どうやらこのころ、讃岐の象頭山金光院(後の金毘羅宮)に籠っておられたようである。

讃岐の金毘羅宮
香川県の金毘羅宮

一心不乱に勉強され、恨みなどもなんとか吹っ切れたであろう上皇は、都に戻れない自分の代わりに写経を都の寺に奉納して欲しいと使いの者を送る。

ところがである。弟の後白河天皇は「写経に呪詛が仕掛けられているのでは?」としてこれを受け取らず、送り返すのである。

崇徳上皇 怨霊となる

この仕打ちによって、崇徳上皇の精神は完全に破壊されたのであろう。舌をかみ切り、その血で呪詛を書き残し、三日後には崩御されたとされている。生きながら天狗になったとも。。。

その呪詛の言葉とは、、、

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん!」

すなわち、、、

「私は日本国の魔界の天狗になり、天皇の権力を奪いとり、民にその権力を与えてやる!」

ほどなく都では、二度の大火、後白河天皇の御子の急死が相次ぐ。上皇の祟りであるとされた。

その後、天皇の権力は衰退し、平清盛から源頼朝、北条、足利、、、などなど、鎌倉幕府の開幕から明治維新まで続く長い長い武家の時代が到来するのである。

さらに、戦後においては天皇は國の象徴」なのである。

なんと、実ともに「主権は民にある」のだ!

これで、崇徳上皇の怨念は晴らされたのであろうか。。。

大物主大神

大物主大神
言わずと知れた、三輪山・大神神社の主祭神であるが、こちらの大物主神は讃岐の金比羅宮からの分霊である。

これは、崇神上皇が讃岐へ流罪となったとき、仏教に勤しんだ際に参籠されたのが讃岐の金毘羅宮であり、讃岐にも大物主神の相殿神として「崇徳上皇」が祀られていることに由来するのであろう。

実は、大物主大神も本来は祟り神であるとされる。毒をもって毒を制する。「崇徳上皇」を封じる役割なのかもしれないと勘繰ってしまうのは私だけであろうか。

源頼政公

源頼政公
平氏全盛期にあって、源氏過去最高の従三位まで昇進した。よって「源三位」と呼ばれる。平清盛の信頼も厚かったのだが。。。平清盛の横暴にキレた頼政と以仁王が挙兵。惨敗するも、その後の源頼朝の挙兵につながる、いわば武家の時代の到来を決定づけるターニングポイントとなった。

平清盛の横行著しく、後白河法皇を幽閉。ついには清盛は自らの子(安徳天皇)を皇位につける。これに反発したのが、後白河法皇の第三王子の「以仁王」と「源頼政」である。

二人は平氏討伐のクーデターを画策する。「以仁王」が全国の源氏と有力社寺に対して平氏討伐の令旨を発する。

しかし計画が事前に露見してしまい、準備不足のまま挙兵せざるを得なくなった。多勢に無勢。ほどなく追い詰められ、宇治の平等院に立てこもって奮闘した源頼政であったが、最終的には自害となるのである。

なぜ、崇徳上皇と合祀されているのだろうか。

頼政公は若いころの一時期、讃岐での奉公があったらしく、香川県には頼政公に関するいくつかの伝承が残されているのだが、讃岐つながりか?

以仁王の代わりに頼政公を祀ったのか?

保元の乱の際「頼政公」は、「崇徳上皇」を最も苦しめたであろう「美福門院」の側近として「後白河派」に所属していたはずである。

私には、頼政公も崇徳上皇の怨霊封じのための一柱に思えるのである。

つまり、大怨霊である崇徳上皇の強力な霊力を、同じく祟り神の大物主神と源頼政公とで封じ込めているというわけだ。

京都の縁切り”安井金毘羅宮のご利益

さて、安井金毘羅宮のご利益は「縁切り」と「縁結び」である。

人との縁だけではなく、あらゆる縁や欲、例えばタバコ・酒・ギャンブル・色事などとの縁も切って頂けると、全国各地から多くの人々が訪れる、日本屈指の縁切り祈願所となっている。

関東の方でも「最終手段は京都の安井金毘羅宮!」なんて言われているようだ。

崇徳上皇が讃岐の金毘羅宮で参籠されたとき、一切の欲を断ち切って修行されたからだとか。親子の縁や夫婦の縁、兄弟の縁までも切られた崇徳上皇であるからこそのご利益なのだろう。

私個人的にも、最強の縁切りパワーだと思う。

実際、私も祈願した。一般論として倫理に悖るような内容の祈願であった。

大阪家庭裁判所で離婚調停中であった。結果は、急転直下の形で調停離婚が成立。見事に願いは叶ったのである。弁護士からは「奇跡」と言われた。しかし、同時に子供との縁も切れるのである。覚悟の上であったが。。。

今は、幸せかつエキサイティングな家庭を築き、平穏かつスリリングな生活を営んでいるのである。

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次のページでは、安井金毘羅宮の参拝作法について、強力な縁切りパワーの「縁切り縁結び碑」を中心にご紹介していきたいと思う。是非、ご一読頂きたい!

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