太融寺|梅田|なにわ七幸めぐり「無病息災」
太融寺は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の「準別格本山」である。正式名称は「佳木山宝樹院 太融寺」。
光源氏のモデルとされる「源融」(みなもとのとおる)ゆかりの寺院としても有名。
新西国三十三箇所第2番札所など、いくつかの札所に指定されている。昨今は「なにわ七幸めぐり」企画のひとつに数えられ、ご利益は「無病息災」としている。
立地は、大阪最大の繁華街「キタ」の外れ。風俗ビルやラブホテルが立ち並ぶ猥雑とした雰囲気の中にあって、この一角だけが異質なもののように感じる。本来は、逆のはずだが。。。
太融寺について
太融寺 概要
- 所在地 大阪府 大阪市北区太融寺町3−7
- 電話番号 06-6311-5480
- 山号 大源山
- 院号 諸仏護念院
- 主祭神 千手千眼観世音菩薩
- 創建年 821年
- 社格 新西国三十三箇所第2番など
- 公式HP http://www.taiyuji.com/
太融寺 アクセス
MAP
最寄り駅
- 地下鉄谷町線「東梅田駅」徒歩7分
- 地下鉄・阪急「梅田駅」徒歩10分
- JR環状線「大阪駅」徒歩12分
駐車場
- あり
太融寺の創建
821年(弘仁12年)、嵯峨天皇の勅願により弘法大師によって創建された。
その後、嵯峨天皇の皇子であり嵯峨源氏の祖「左大臣源融公」(みなもとのとおる)が、境内を拡張し七堂伽藍を建立。大寺院となる。
(ちなみに、太融寺の融は、源融の融である。)
以来、難波の名刹として多くの参詣客で賑わったという。
菅原道真公も、左遷の旅の途中に参詣。
船の艫綱をとぐろのように丸く敷き詰めて座を作り、太融寺の梅を愛でたという伝承がある。
すぐ北の「神山町」に鎮座する綱敷天神社の創建由来である。
太融寺のご本尊
ご本尊は、嵯峨天皇の念持仏であった「千手千眼観世音菩薩」。脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の二体も安置されている。
千手千眼とは、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。
これは、「どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さ」を表しているという。
太融寺のご利益
かつての広大な境内は失われたとはいえ、それでも都心の寺院としては広い。その境内にはいくつかのご利益スポットがある。
- なにわ七幸めぐり企画によると、本堂にて「無病息災」。
- 「ぼけ封じ観音霊場」の7番札所となっている。
- 後述する「不動明王」のご利益として「一願成就」。
- 弘法大師像のご利益として「厄除け」。
- 太融寺の梵鐘のご利益として「金運」。
この4つは押さえておきたいところである。
この4つは押さえておきたいところである。
太融寺 参詣記録
西日本最大の繁華街キタ。梅田駅から地下街「ホワイティ梅田」を歩くこと5分。ドン突きが「泉の広場」。
エレベーターで地上に上がると、「曽根崎東」の交差点に出るはずだ。
そこから東へ200mほど進むと太融寺の北口が見えるのだが、私は南側の正門に回り込むのである。
太融寺 西門
本堂が南向きであるがゆえに、正門は南門と思っていたのだが、どうやら西門が正門のような雰囲気がある。
一旦、南門から入ろうと決めたからには、初志貫徹したいではないか。通りすぎて南門へ。。。
太融寺南門
ちなみに、こちらが南門。微妙な門である。
一礼して境内に入り本堂に近づくと、ほんわかとあったかい空気に包まれる。
本堂
屋根の翼を広げたような反りが素敵である。
ここに、気になる寺紋を発見。
これは、毛利家の家紋に相違ない。何故、太融寺に毛利家の家紋?と考えるのが普通であろう。
少し調べた。
まずは、香炉にある紋は「一文字三星」という。
大江氏およびその一族が使用した。一般的には大江氏末裔の毛利氏の家紋として有名である。
一は「勝」、三星はオリオン座の三星=「将軍星」。武勇長久を祈念した家紋と言える。
一方、よく似た家紋に「三星一文字」と称する家紋がある。
これは、渡辺家が使用する家紋である。
よく似ている。
そして、この渡辺氏のルーツを遡ると源融にたどりつく、、、
嵯峨天皇には23人の皇子がいた。これだけの皇子とその家族を養うのは苦しい。よってこのうちの17人を臣籍降下し、源という氏を与えた。嵯峨源氏の始まりである。
臣籍降下した皇子の一人「源融」(みなもとのとおる)の孫「源仕」(みなもとのつこう)が相模国の箕田(巣鴨あたり)に土着し箕田氏を名乗る。
その子が「箕田源次宛」(みたげんじのあつる)。そしてその子が「箕田綱」(みたのつな)。
綱は清和源氏系の養子となり、摂津国渡辺に移住。「渡辺綱」と名乗るようになった。
さて、寺紋の謎に戻ろう。
何故、渡辺氏の家紋ではなく毛利氏の家紋が使われているのか。
答えは「わからない!」
結論が「わからない」とは、申し訳ない限りであるが、それはそれとして、取りあえず線香を立て参詣しようではないか。
太融寺の本堂内部
神社の参拝とは勝手が違う。私の動きは、少しくぎこちない。
一拝 合掌 般若心経 一拝
扁額
「大悲殿」と書かれてある。
鐘楼
これが、太融寺の鐘楼。この梵鐘はいわくつきの梵鐘である。
太平洋戦争末期、この梵鐘は金属類回収令により供出するために降ろされていた。
そこに大阪大空襲。伽藍のすべてが焼き尽くされた中、この梵鐘は残った。
鐘は残った。カネは残った。
「お金が残る梵鐘」というわけだ。
白龍神社
境内の北西の角あたりに白龍を祀る社がある。
榊、神鏡、御幣、小さながらもお社もある。
まさに、神祀りの様式だ。
この真裏にご神木がある。そこに棲む白蛇神を祀っているのだろう。
淀殿之墓
白龍神社の左奥に「淀殿之墓」があった。
大阪城にて自害めされた淀殿は、はじめ弁天島(現:京橋ビジネスパーク)に埋葬され、そこに淀姫神社が創建された。
明治に入り城東練兵場を建設するにあたり、淀姫神社を生国魂神社境内に遷座するのだが、その際に埋められていた遺骨を、ここ太融寺の境内に埋葬しなおしたという。
ぼけ封じ観音
白龍社の右側にぼけ封じ観音像が立っている。
ここが、「ぼけ封じ三十三観音霊場」の第七番札所だ。
ぼけ封じをはじめ、病気平癒にご利益ありとされる。
さて、この前を右に進むと本堂の下をくぐる通路がある。そこを抜けると「一願堂」だ。
一願堂
薄暗い中に不動明王が仁王立ちしている。「一願不動」だ。
たった一つ「どうしても叶えたい願い」を胸に、お百度を踏むのだ。一願不動が叶えてくれるという。
すなわち、ご利益は「一願成就」だ。
逆光であるがゆえにシルエットだけとなった不動明王像。
そして、取り囲むように浮かぶ、提灯やロウソクや蓮花のボウとした灯りが相まって、幽玄な雰囲気を醸し出している。
一願堂奥の院
奥の院は、一願不動のさらに奥。明るい場所だ。
滝が落ち、水盤で跳ねる。
岩穴に祀られるは、戦前まで祀られていた不動明王、すなわち先代の一願不動である。
よって、こちらのご利益も「一願成就」と言えよう。
榎木稲荷
奥の院の左に、とってもかわいいい「榎木稲荷」が鎮座する。
榎木稲荷といえば、すぐ近くにある堀川戎神社の境内社も「榎木稲荷」だったはず。
北野弁財天
榎木稲荷の左に「北野弁才天」
厄除け弘法大師
一願堂から出て左へ。本堂の横に立つのは「厄除け弘法大師」。
地面には、、、
四国を刻んだ石板が埋め込まれてある。
ここに立つと四国八十八箇所巡礼をしたと同じご利益がいただけるとか。
ご利益は、厄除け・延命長寿である。
境内には他にも「大師堂」「護摩堂」「豆八大明神・高繁大明神・繁高大明神を祀る祠」などがあり、じっくり見学するとなると一時間ぐらいは必要だ。
次の予定がある私は、境外にある「龍王大神」に向かうことにした。
龍王大神
太融寺の南門を出て、東へ歩く。140mぐらい歩くと大通りに出るだろう。スーパーマーケット「ライフ」が見えると思う。
龍王大神はライフの前、大通りの中に鎮座している。
移設したいが移設できない理由がありそうな雰囲気がある。それもそのはず、、、
この銀杏の古木には白蛇が棲みついていた。
あるとき、この一帯が区画整理されることとなり、この道路の拡張工事が計画された。となれば、この銀杏の木も伐採されることになるのは必定である。
しかし、工事が始まり銀杏を伐採しようと木を切っていたときに事故発生。伐採していた人たちはこの事故がもとで、相次いで亡くなっていったという。
白蛇の祟りであるとし伐採計画は中止。龍王大神を祀る祠を設置し祟り鎮め祈りを捧げた。
このような蛇神様・龍神様の祟り伝説は日本各地に残る。
「そんな祟りなんてバカな!」などと言う人もいる。では、何十年も伐採されずに残っているのは何故?府の予算が付かないからか?
誰も伐採する勇気がないのであろう。
これこそが、日本人の心の根底に神の存在を肯定する精神文化が宿っている証拠だと、私は思う。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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