大阪城|上町台地の先端は大阪最強のパワースポットだ!
本丸へと向かおう。
「桜門」から「本丸」を縦に突っ切って「山里丸」へ、「極楽橋」から二の丸、外堀に出て再び「大手門」から入城するという変則的なコースだが、このコースが一番効率がいいと思われる。
まずは、本丸は空堀にかかる橋を渡り「桜門」から進入する。
本丸エリア
桜門
この桜門の両側には巨石が使われている。右側が「龍石」、左側が「虎石」と呼ばれる。江戸時代には、雨に濡れると、それぞれに模様が浮かび上がったという言い伝えがあるが、どうなのだろうか。
ちなみに、風水では東の神獣を青龍とし、西の神獣を白虎とする。それにちなんで、桜門を守る東西の神獣の名を付けたのだろう。
銀名水の井筒
門を入ってすぐの左手に、大阪城内の5つの井戸の内の一つ「銀名水」の井筒がある。これは移設されたもので、ここには井戸は無い。水道水がひかれている。
蛸石
桜門をくぐった正面。こちらの巨石は大阪城で最も大きな石「蛸石」である。表面積が約60平米。重量は108トンらしい。電車3両分の重さということになる。これを運ぶのは大変だっただろう。
石面左手に酸化第二鉄の茶褐色の模様が浮かび上がっている。それが蛸のようなので「蛸石」と名付けられたようだ。
他にも、先の「龍石」「虎石」や「振袖石」(場内3番目の大きさ)など、桜門枡形には巨石が多く使われている。
この「桜門枡型」の建設担当は、備前岡山藩の池田忠雄。さすがは池田氏である。
この枡形を抜けると、いよいよ本丸だ。
現在は売店が立ち並ぶ広場になっているが、かつてはこの広場に御殿があった。ここからの天守閣の眺めが一番迫力があるのではないだろうか。
天守閣
実は、改修後に天守閣を間近に見るのは今回が初めてだ。よく見ると、瓦のひとつひとつに金箔が押されている。実に美しい。
鉄筋コンクリート造りで、中は博物館。最上階からの展望は素晴らしいが、それだけのこと。
天守閣内へは別途料金が必要である。大人600円。入場口に大行列が出来ていたため、今回は入場を見送った。
金明水
今回は入場を見送ったのだが、入場し階段を上がったすぐ左手の小天守台には「金明水」がある。
かつて秀吉が、井戸の水の毒気を抜くために金の延べ棒を放り込んだと伝わる井戸である。
しかし、どうやら現在の井戸は江戸時代に徳川によって掘られたもので、秀吉時代のものではない。よって金の延べ棒も発見されるはずもないのである。
金運のパワースポット 金蔵
本丸御殿広場の東側。案内所の裏手に「金蔵」がある。現存する唯一の徳川幕府の金庫である。ここに、現在の価値にして500億円を超える金銀が保管されていたと聞く。
金運上昇パワーがあるやも!
あやかりたいとの思いから、ついつい重厚な扉と錠前に手を触れてしまった。分別ある大人のすることではなかったと反省している。
天守台の石垣
天守台の石垣を見てまわろう。すると、北東角の石垣が少し崩れているのがわかる。
これは、大阪大空襲における爆撃によるものらしい。このすぐ前に着弾したらしい。直撃していたらひとたまりもなかっただろう。よくぞ残ってくれたと思う。
さて、本丸を後にして、天守閣の北側にある山里丸へと進もう。
豊臣家終焉の場所 山里丸
「本丸」の北側に「山里丸」がある。この山里丸にあった「糒櫓」で、秀頼公と淀殿は自害したと伝えられている場所だ。
しかし、そもそも豊臣時代の大坂城は地中に埋まっているはず。。。まあいい。
本丸より一段低く、二の丸より一段高い位置にある。
隠し曲輪
本丸から山里丸に降りる手前には枡形がある。その横手に、その幅一間の狭い隙間がある。その奥が「隠し曲輪」。
攻めてきた敵が枡形に手こずっている横から、隠し曲輪に潜ませておいた城兵が攻めかかり敵方を粉砕しようという魂胆である。
淀君、並 殉死者三十二名忠霊塔
隠し曲輪の前から来た方向をみると、内堀の石垣の上に朱色の垣根が見える。山里丸の北西角だ。そこが「淀君、並 殉死者三十二名忠霊塔」。ひっそりと。
淀殿をはじめとする32名の殉職者を祀っている。殉職者32名には、大野治長、速水時之、毛利勝永、真田大助などの歴々が名を連ねる。
石塔と観世音菩薩像が安置されており、周囲には石仏なども安置されている。一目見て、一般市民有志の手によるものとわかる。ちなみに観世音菩薩像は天守閣の方向を向いているようだ。
しかし、正面からの撮影は、私には無理であった。ここに長居も厳しい。とてつもなく悲しい気が漂っていた。
刻印石広場
山里丸には、全国から大阪城築城のために運び込まれた石材が置かれているスペースがある。「刻印石広場」だ。
石材には、どの藩の石なのかがわかるよう「刻印」が刻み込まれている。
豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
山里丸の東側に「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の石碑がある。
先ほど、「山里丸にあった糒櫓で秀頼公と淀殿は自害したと伝えられている。」と述べたが、それも数ある中の一説に過ぎないのだ。
豊臣家滅亡という一大事件である。その記録が、どうも曖昧模糊としているのだ。古代の出来事ならまだしも、江戸初期の出来事である。どうも、おかしい。
もしかして、生き延びた?天草四郎?
極楽橋から外堀へ
極楽橋と天守閣
山里丸から「極楽橋」を渡って二の丸に出る。このアングル、人気の撮影スポットとなっている。
この「極楽橋」は豊臣時代にもあり、さらには石山本願寺時代にもこの辺りに橋が掛っており、本願寺参拝の参道になっていたという。これが「極楽橋」という名の由来と言われている。ここに、かつての石山本願寺の名残があったのだ。
ここから、再び天守閣方向に戻って大手門から出るコースを採用してもいいだろう。今回は、極楽橋から京橋口へ抜け、外堀外周を歩くコースを選択した。
京橋口から大手門まで、外堀と石垣の雄大な景観を楽しみたいからだ。そしてもうひとつ。乾櫓があるからだ。
乾櫓
大手前の交差点あたりから見る「乾櫓」。城の北西にあるから「乾(戌亥)櫓」である。なんとこの櫓は、1620年の建築で、大阪城内最古の建築物である。
さらに、外堀沿いに南に進むと、正面玄関「大手門」の手前に櫓がある。
千貫櫓
大手門を守る櫓「千貫櫓」。
かつて、石山本願寺時代にもこの辺りに櫓があり、その櫓の威力で織田勢は攻めあぐね、信長をして「あの櫓を落とした者に、金千貫を与える」と言わしめたという。
その名誉ある名が、豊臣時代から徳川時代まで受け継がれたとのこと。
大手門
大阪城の表玄関「大手門」。1628年の建築である。正面玄関ではあるが、門そのものは小さい。
この小さい門があるため門の前に攻め手の軍勢が足踏み状態となる。そこを、横の千貫櫓から射撃するという戦法を想像した。
多門櫓
大手門をくぐるとそこは、大きな枡形。門の正面は高い弊。その両側に巨大な多門櫓。三方から銃弾を受ける格好だ。(北側の多門櫓は今は無い)
大手門と広い枡形と巨大な多門櫓。これだけでも徳川の威信を誇示するに足ると思われる。
大阪城のレポートはここまで。
最後に、ここだけは訪れたかったという場所へ行こう。
生國魂神社 御旅所跡
ここが、生國魂神社の御旅所跡である。向こうに千貫櫓と大手門が見える。
夏祭りの船渡御のために昭和7年に建設された。前述の通り、生國魂神社はもともと大阪城内の地にあった。
古い絵図によると、石山本願寺の東側に描かれているもの、南に描かれているものなどがあり、正確な位置は分からない。よって、この御旅所跡がすなわち旧鎮座地とは言いきれないのであるのだが、そんなことはことはいいのである。
さあ、大阪歴史博物館を見学してから帰るとしよう。
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同じく、大阪城築城によって遷座した神社に「坐摩神社」がある。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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