式内楯原神社|喜連|この神社には十種神宝が現存するという。起死回生のパワースポットを参拝しよう!

2019年6月24日

楯原神社は、大阪市平野区喜連6丁目に鎮座する式内社である。

平野区は大阪市の南東の端にあり、東は八尾市、南は松原市と接する。いわば大阪市内でも田舎の部類に入ると言えよう。中心部の平野郷は空襲を免れたこともあり、江戸時代の街並みを今に残す歴史ロマンあふれる地域である。

楯原神社のある喜連地域は、平野郷の南に位置し、かつては「伎人郷(くれのさと)」と呼ばれ、中国呉国(くれ)からの渡来人が居住した地域で、「くれ」が訛って「きれ」と呼ばれるようになったという説がある。

この喜連郷は、平野郷や久宝寺寺内町と同じく、周囲を堀「環濠」で囲まれた自治区の様相を呈していたという。

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楯原神社について

楯原神社の祭神

現在の祭神は、武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真公、赤留比売命である。

武甕槌大神

国譲り神話に登場する武力の神。抵抗する建御名方命を圧倒し、諏訪の地に封じ込めた。

その後、大国主命あとをついで、さらに全国を平定していく神となるのでる。

まさしく「武神」「軍神」である。藤原氏の守護神として鹿島神宮や春日大社などに祀られている。

大国主大神

国津神の代表的存在。国譲り神話で天津神に国を譲った、国譲りの神として有名である。

大国主命、大己貴命、八千矛神、大物主神、大国魂神などなど、別名を多く持つ。京都の下鴨神社では、それぞれの神名でそれぞれの別の社殿に祀られている。

スサノオの子とも、6世孫ともされているが、大国主とは役職名であるという説もあり、なかなかもってややこしいのである。

一般的に、縁結びの神として祀られることが多い。

それは、毎年10月に全国の神々が出雲大社に集結して縁結びの会議が行われるからだとか、正妻の須世理姫命以外にも多くの妻を持ち多くの子を設けたからだとか。。。それだけ、国を広く平定し、各地の有力氏族と血縁関係を結んでいったという証なのだろう。

そういう意味で、武力の神、軍神として祀られる場合もある。この楯原神社は、まさに「軍神」の色合いが強いと思われる。

孝元天皇

第8代天皇であるが、記紀には業績の記述がない、いわゆる欠史八代の一人である。

菅原道真公

日本三大怨霊の一人。地方出身者としては異例の出世を遂げたが、政変に敗れて大宰府に左遷され、中央に戻ることなく死去。その後、平安京に様々な厄災が巻き起こり、道真公の祟りであるとされた。その厄災の最たるものが、「清涼殿落雷事件」である。

この事件で死亡した藤原清貫が大宰府における道真公の監視役であったということで、祟り説が決定的となり、道真公を雷神として厚く祀ることになったという。それが北野天満宮である。

極めて優秀な頭脳の持ち主であったため、後年には学問の神として全国に祀られるようになった。

赤留比売命

古事記には、阿加流比売命と記述されている。

古事記によると、応神天皇の時代に新羅において、太陽をあらわす赤いメノウの玉から生まれた女神。

新羅王の子である天之日矛の正妻となったが、夫のDVに耐えられず、新羅を脱出し日本の難波に逃げてきた。そして、比売語曾社の神となったとしている。

比売語曾社の神となったとされる阿加流比売命であるが、延喜式神名帳には、比売語曾神社の祭神は下照姫命と記載されており、阿加流比売命は住吉郡の赤留比売神社の神名として掲載されている。

ちなみに、赤留比売神社では水の神として祀られているようだ。

楯原神社の創建と歴史

崇神天皇の御代の創建とされるが、楯原神社の歴史は、少々ややこしく、そして大層である。社伝によると、、、

祀りの起源

武甕槌大神が大国主大神が国を平定するに使用した国平(クニムケ)の鉾を持って天下を平定した後、この地に留まった。

武甕槌大神は、子孫の大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりとして、また国平の鉾を大国主大神の霊代として斎き奉るように」と遺言を残して天昇り隠れた。

その子孫の大々杼彦仁は、神武天皇東征のおりに熊野において大熊に悩まされていた時、武甕槌大神のお告げにより剣を献上したところ、天皇は大熊を切り伏せ無事に熊野を抜けることができた。

その後10代崇神天皇は、さらに子孫の大々杼名黒に「あなたの家に祀っている武甕槌大神と大国主大神を同じ社で祀ることは畏れ多い。別々に神殿を造り、別々の社名を称しなさい」と命令する。

そこで、字楯原の地を選んで社殿を建立し、十握の剣を「楯の御前社」、国平の鉾を「鉾の御前社」として祀ることにした。

この時点を創建とするのだろう。

ちなみに、崇神天皇の下りは、「天照大神と大国魂神を同じ宮中で祀ることは畏れ多い」という理由で宮中外に出した逸話とそっくりである。

さらに古事記では、熊野において武甕槌命の指示によって神武に神険「布都御魂」を渡したのは、「高倉下」とされている。

高倉下は饒速日尊の子である天香語山命が下降した後の名であるとも、天香語山命の子である天村雲命の弟であるとも言われているが、こちらの説では武甕槌命の子孫ということになっている。

楯の御前社が楯原神宮へ

仲哀天皇の時代。三韓征伐に向かう神功皇后に、大々杼名黒が両御前社のお告げを伝えたところ、軍事がうまくいった。そこで神功皇后は住吉にこの2社を祀ることにした。これが、住吉大社の第三・第四本殿の両サイドに鎮座する「楯社」「鉾社」である。

さらに神功皇后が楯の御前社に参拝した際に、楯の御前社を楯原神宮に改名し、二柱の大神を祀るよう指示したとされる。そして、大々杼名黒は息長の氏を賜ったという。

これが、第二の創建となろうか。しかし、息長氏とは神功皇后の出身氏族といわれている。よほど名黒を気に入ったのであろう。

ちなみに、住吉大社の楯社、鉾社の祭神は、それぞれ「武甕槌命」「経津主命」であり、「大国主命」は祀られていない。

奥の院「龍王社」の創祀

時は流れて、桓武天皇の御代。平安時代の始めの800年ごろ。この地域に風水害が続いたので、赤留姫命を祭神とする一五の龍王社を境内神社として合祀し、奥の宮と称した。

文明一三年。応仁の乱が終わったころ。旧鎮座地の字楯原から現鎮座地の近くに遷座。

元和年間。大阪夏の陣を経て、幕藩体制を強固なものにしていったころのこと。兵火によるものか暴風雨のためか、社殿が壊れたため、現在の地に新たに遷座された。

このあたりまでは、よかったのだが。。。

母屋を獲られて天満宮に?

大坂夏の陣の兵火によって焼失した頃から、赤留姫命を祀る龍王社が誤って楯原神社と呼ばれるようになった

さらには、本来の楯原神社は、付近にあった天神社を合祀し、さらには菅原道真を合祀したころから、天神社または天満宮と呼ばれるようになっていた

なんと、楯原神社は、龍王社に社名を奪われ、祭神は赤留比売神。つまり、赤留比売神を祀る楯原神社の誕生だ。

そして、二柱の大神を祀っていた本来の楯原神宮は、菅原道真公を祀る天神社(天満宮)と呼ばれるようになったのである。そうなると、祭神は?二柱の大神は?忘れ去られてしまったか、端に追いやられたか。。。

そんなことで明治維新後、赤留比売神を祀る楯原神社は、無格社となり、天神社(本来の楯原神宮)は村社となった。

明治40年。一村一社の政策のために、天神社に楯原神社が合祀される。なんとなんと、由緒ある社名すら消えてなくなるわけだ。

しかし、氏子さんの努力によって、社名を再び楯原神社に変更し、楯原神社は復活を遂げるのである。

楯原神社 変遷略図

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楯原神社の御利益

武の神、勝負の神、縁結びの神、水の神、学問の神が祀られている。

また、あとでご紹介するが、十種神宝が祀られていることから、病気平癒、起死回生の御利益もあるとすることが出来よう。