仁徳天皇陵|堺|世界文化遺産|上町断層の南端に位置する御陵は、浄化と癒しのパワースポットである。

2017年2月7日

仁徳天皇陵は、大阪府は堺市にある前方後円墳である。現在は「大仙古墳」という名称になっている。教科書にも、そう載っている。しかし、我々の年代には「仁徳天皇陵」がしっくりくるのだ。

何故、名称が変わったのか。それは「仁徳天皇の御陵」ではない可能性が出てきたかららしい。

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仁徳天皇陵について

百舌鳥古墳群

「仁徳天皇陵」や「履中天皇陵」「反正天皇陵」の3基を中心として、その周囲に築造された方墳・円墳・前方後円墳など合わせて大小44基の古墳が集中するこのエリアを「百舌鳥古墳群」とよぶ。

追記:令和元年7月 「百舌鳥・古市古墳群」として世界文化遺産に登録された。

「百舌鳥古墳群」は、大阪の大龍脈である上町台地・上町断層の南の端に位置する。

箕面方面から、曽根崎、大阪城、難波宮、四天王寺、阿倍野王子、住吉大社と流れてきた龍脈が「百舌鳥古墳群」にたどり着くのだ。そして断層は海へと折れ曲がっていく。

被葬者

被葬者は定かではないが、宮内庁は「仁徳天皇」として管理している。

16代仁徳天皇は、15代応神天皇の御子。すなわち、神功皇后は祖母にあたる。名は「大雀命」(おおさざきのみこと)。

仁徳天皇の即位に際して、ひと悶着あったようだ。

父の応神天皇は頭脳明晰な弟の「菟道稚郎子」(宇治神社の祭神)を皇太子と定めていた。

しかし、その段になると、弟は兄に皇位を譲ると言い出した。大雀命は「先帝が決めたことゆえ、それはならん」と辞退する。このような譲り合いによる皇位の空白が3年も続いてしまう。

「これでは国政が危うい」と、弟は兄のために自害するのである。

というのが、一般的に知られる逸話なのだが、実は、仁徳天皇による暗殺説がまことしやかに噂されているのだ。

京都の宇治神社・県神社に伝わる奇祭「暗闇祭」を見るにつけ、その噂は真実ではないかと思わせる。

詳しくは、こちらの記事をどうぞ!
➡ 宇治上神社 世界文化遺産に封印された「宇治の神様」の真実とは?

ともあれ、「仁徳」という諡号でもわかるとおり、仁徳店の治世は仁政であったとされており、「民のけむり」という逸話が、それを物語っている。

難波の高津宮から見渡すと、夕食の支度の時間なのに米を炊ぐ煙が見えない。「民の生活は困窮しているのでは?」と気が付いた仁徳天皇は、3年に渡り税の徴収を免除した。その間は節約のため、宮殿の屋根の葺き替えも行わなかった。

治水工事に積極的に取り組んでいる。

  • 河内湖と大阪湾を結ぶ水抜き用運河「堀江川」の開削。
  • 淀川の治水「茨田の堤」の築造。
  • 平野川?の治水「横野の堤」の築造。

これらは、日本初の大規模土木工事とされている。これで河内平野の洪水の被害が減少したのだろう。

また、農耕地の拡大のための灌漑用水の確保にも尽力した。

  • 京都城陽あたりに、灌漑用水を敷設。
  • 茨木あたりに、灌漑用水をを敷設。
  • 奈良市?あたりに、和珥池(わにのいけ)を築造。
  • 河南町あたりに、灌漑用水を敷設。

これらの工事には、秦氏が大きく関与していたことは言うまでもない。

規模

  • 外郭の大きさは、およそ縦840m、横654m。
  • 墳丘の大きさは、およそ縦525m、横245m。
  • 墳丘の面積、体積とも、日本最大
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仁徳天皇陵 参拝記録

大阪中央環状線を鶴見・八尾方面から堺方面に走る。堺市街の手前にさしかかると左手に仁徳天皇陵が見える。見えるがこちらからは近づけない。

古墳が見えてしばらくすると、側道と高架が見える。側道に入って頂きたい。すぐに「一条通り」交差点があるだろう。これを左に曲がる。

しばらく走ると、「御陵通」交差点がある。左角のファミリーマートが目印だ。そこを左折。

駐車場

そのまま真っすぐに走ると、仁徳天皇陵の前方部に出る。前方部のちょうど中央あたりに駐車場がある。10台程度は止められるであろうか。ここがいい。と思う。

追記:世界遺産に登録されて以降、参拝者が急増しているため、車でのアクセスは極めて不便と考えられる。公共交通機関のご利用をお勧めする。

すぐ正面に表玄関がある。

画像ではわからないが奥行き感というか立体感というか、神社参拝ではあまり出くわさない感覚である。

外郭に入り、一つ目の掘りを渡る。

外堀

真っすぐである。Google Mapなどの航空写真を見て、よく思うのだ。よくもまあ、これだけ真っすぐな直線、きれいな円、左右対称に造れるものだと。

拝所遠景

素晴らしく清々しい。全てが整っていて、そして清らかである。

手水舎

もちろん、ちゃんと手水舎がある。質素ではあるが、趣きのある手水舎だ。

横に井戸もある。この井戸の水なのだろうか。

鳥居と墳丘

この砂の「見事な筋目」をご覧いただきたい。我々も、このように筋目正しくありたいものだ。

んっ、途中で僅かに、ほんの僅かに湾曲している。せっかくここまでビシっと決まっていたのに、筋目の湾曲はあまりにも残念だ。

「でもね。実際、この線を引くのに毎日大変なご苦労をしてるんだよ。」と聞こえた気がした。反省。

線引き係の方に感謝しつつ、国の安寧と、今日ここに来ることができたことへの感謝を込めて、二礼二拍手、天津祝詞×3、二拍手一礼。。。

清々しい。清々しく、解放的。しかし、ここは古墳。すなわち古い墳墓。お墓である。お墓でありながら、この清々しさはなんなんだろうか。

しばらく、ここに立ち、余韻に浸る。誰もいない。誰も来ない。邪魔するものは何もない。気持ちのいい場所で一人っきり。こんな贅沢な時間は、そうそうない。

椅子があれば、もっと長居できるのだが、ボチボチ膝が痛くなってきた。

車に戻ろうと振り返ると、道の向こう側に公園があるのだが、古墳が見える。

孫太夫山古墳

小振りな前方後円墳である。仁徳天皇の陪臣が埋葬されているらしい。

堀端に一羽の鷺が。

以上の通り、今回訪れた仁徳天皇陵は、浄化と癒しのパワースポットであると言えよう。

▼初代神武天皇陵の記事はこちら

▼15代応神天皇陵の記事はこちら

▼仁徳天皇を祀る神社の記事はこちら

▼難波宮跡の記事はコチラ

難波宮

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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