細屋神社|寝屋川|田んぼの真ん中に怪しげな小さな祠。秦氏伝来の星辰信仰の基地であった!
細屋神社は、大阪府寝屋川市太秦桜が丘にあった神社である。、延喜式神名帳の「河内国茨田郡の細屋神社」に比定されている。
細屋神社は式内社には似つかわしくない立地にある。というのも、総じて式内社とされる古社は、山頂、山中、山麓、川に近い場所にあっても小高い丘に鎮座することが多いのだが、この場所は打上川の河原ではなかったかと思われるぐらい、低地の湿地帯であったであろう土地だからである。
子供の頃、この神社の回りは田んぼであった。冬になるとよく凧揚げをして遊んだものだ。
誰かから聞いたのか自分の思い込みだったのか記憶が定かではないが、この河原にある森と祠は、水害除けのための人柱を供養するための祠であると聞いたことがあった。
その認識は誤りであろうが、そう思わせるような雰囲気を持っていた神社であることは間違いない。
ただし、現在は川向の八幡神社境内に遷座している。よって、以下の記事内容は遷座する前の参拝記録であることを申し上げておこう。
細屋神社について
細屋神社 概要
- 所在地 大阪府寝屋川市太秦桜が丘26(八幡神社内)
- 電話番号
- 主祭神 不明(星を祀ったとか)
- 創建年 不明
- 社格 式内社
- 公式HP
細屋神社 アクセス
MAP(現鎮座地)
MAP(旧鎮座地)
最寄り駅
- 京阪本線「寝屋川市駅」からバスで10分。「観音橋バス停」徒歩5分
駐車場
- なし
細屋神社の創建
創建は不明である。
前述のとおり、延喜式神名帳には「河内国茨田郡の細屋神社」とある。現鎮座地の住所「太秦桜が丘」は旧讃良郡である。
そこで、
茨田郡門真三番村細屋に鎮座していた式内社「細屋神社」が洪水によってご神体が流され、秦村の住民がそれを拾ってこの場所に祀った。
という伝承があるわけだ。
そうであれば、式内社とされた頃の鎮座地は別場所であったということになり、現鎮座地が式内社に似つかわしくないという疑問も解決する。
しかしこの地は門真よりも上流に位置する。洪水で流されてきたというのは、どうも解せないのである。
寝屋川市は、ほぼほぼ「打上川」途中から「寝屋川」を境界線として北側が茨田郡、南側が讃良郡となっていたようだ。現在地の太秦桜が丘は、讃良郡と茨田郡の境界にある。
この鎮座地は打上川の中にあるようなものだから、初めからここに鎮座していたのかもしれないとも言えなくもない。
さらに昔にさかのぼると、北河内一帯は茨田郡だった可能性もある。であるから、創建当初の鎮座地のままという考え方が現実味を増してくるのだ。
しかしそうなると、式内社がこのような低地に鎮座している違和感は解消されないままとなる。
そこで考える。平地に創建する理由があったのでは?と。
細屋神社の祭神
これもまた不明である。
一説には、「天神」「星辰」「星天宮」とされ、先祖からの天体崇拝の原信仰をここに伝えているのだという。
天体崇拝、すなわち太陽や月や星に対する信仰は自然信仰の一つである。天の恵み、天への畏敬の念という側面もある。
さらには、日の出の位置、月の満ち欠け、星座の位置などの観測による「農暦」が作成できるのである。これすなわち、農作スケジュール管理だ。
古代における高度文明社会において、農耕の発展には「暦の発達」は不可欠であったはず。
秦氏と暦、と言えばヘブライ(ユダヤ)暦が思い浮かぶわけだが、ここでは割愛しよう。
天体観測と農耕管理と水利管理を行う中心施設が「細屋神社」の役割であったのでは?と考えたとき、この場所である意味が理解できそうな気がしてきた。
低地ではあるが、高度な治水土木技術を持つ秦氏のこと。万全の堤防を築いていたはずだ。さらに、ここは空が広く、観測の目印となる小山に三方を囲まれている。
そして回りに田畑が広がっていて、田畑の周囲に集落がある。まさに、秦村・太秦村の中心であり、コミュニティマネジメントに最適な場所だったのかもしれない。
この鎮座地が、もともとの鎮座地であったのだろうと、私なりの結論に達したのであった。。。
細屋神社 参拝記録
秦氏由来の八幡神社の参拝を終え、打上川の堤防から見下ろすと、家庭菜園や田んぼが広がる低地の中にこんもりとした森が見える。あれが、細屋神社の社叢である。
式内細屋神社と刻まれた石柱から、下に降りていく。
子供のころは怖くて近寄ることすらなかった神域に、今日まさに足を踏み入れるのである。手に汗を握るほどの緊張感に包まれる私。
なんだ、この鳥居は。妙にバランスが悪い。土台部分が長すぎるのだ。土台を手で隠すとちょうどいいバランスになる。もしかしたら昔は背の低い鳥居だったのかもしれない。
寝屋に伝わる昔話に登場する「鉢かづき姫」が案内板を持っている。
これによると、「この境内の木を切ったり、草を刈ったり、小川の小魚をとると腹が痛くなる」という言い伝えがあるという。しかも、「秦・秦村の人々だけはその限りにあらず」らしい。なんと閉鎖的なことか。なんというナショナリズムだろうか。まるでトランプ氏。
近くの小川で魚は取ってないが、ザリガニ釣りをした記憶が蘇ってきた。腹が痛くなったかどうかは覚えていないが。
小さな祠である。式内社とされた時代はどんな姿だったんだろうか。
最後に
小さくはあるが、ちゃんとお祀りされているようで安心した。神域も気持ちがよい。変な気は感じられない。ここで、私の人柱供養説と妙な緊張感は、どこかに飛んで行ったのであった。。。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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