野中神社|大阪|野中宮山古墳の頂上に鎮座する古社
野中神社は、藤井寺市野中にある、野中村の産土神として地域の信仰を集める神社である。
この神社の珍しいところといえば、古市古墳群を構成するひとつ「野中宮山古墳」の後円部頂上に鎮座しているというところだろう。
さて、どんな雰囲気を持つ神社なのか。興味深く参拝してみよう。
野中神社について
野中神社の概要
- 所在地 大阪府藤井寺市野中2丁目1
- 電話番号 072ー955ー0945
- 主祭神 彦国葺命・素戔嗚尊
- 社格
- 公式HP なし
野中神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄南大阪線「古市駅」徒歩15分
車でのアクセス・駐車場
- 駐車場は無し
- 古墳の西を走る外環状線の高架下にコインパーキング「アメニティパーク」あり
アメニティパークに駐車して徒歩3分程度なので、そちらを推奨したい。
簡単な道順を記しておこう。
野中神社の祭神
現在の祭神は、彦国葺命と素戔嗚尊の二柱とされている。
彦国葺命
第5代孝昭天皇皇子の天足彦国押人命の三世、または四世孫ともいわれている彦国葺命は、奈良県天理市の櫟本あたりを本拠として各地にその勢力を広げた巨大豪族「和珥氏」の遠祖。10代崇神天皇の御代に勃発した武埴安彦と妻の吾田媛の反乱を平定した功績がある。
この彦国葺命の祖先である天足彦国押人命の後裔に「野中氏」があり、当地が野中であることから、当社の祭神を彦国葺命に求めたというのが現在の神社の考え方であるが、本当のところは定かではない。
いずれにしても彦国葺命を祀る神社は多くはない。そういう意味でも珍しい神社といえよう。
素戔嗚尊
伊弉諾尊が筑紫の日向の小門の阿波岐原で禊祓を行った際に、最後に生れ出た三貴神のうちの末っ子。姉は天照大御神で兄が月読尊。
中世の神仏習合・本地垂迹の考え方の中で牛頭天王に習合。疫病退治の神として信仰を集める。
当社に祀られる由縁は、、、当地にあった満願寺の鎮守神として祀られていたのが牛頭天王だったからだという。
当地にあった満願寺?鎮守神とて牛頭天王が祀れていた?ここは野中神社ではなかったのか?
野中神社の歴史
野中神社を誰がいつ創建したのか、そして祀った神についても、まったくの不明である。
史実として登場するのは「日本三代実録」。
貞観17年(875年)8月戌寅に、、、
「河内國正六位上野中神 従五位下」
と記されていることから、それ以前の創建であることは間違いない。
野中神社の当初の鎮座地は?
時は流れて江戸時代の河内国名所図会によると、
野中神祠・・・野々上村(羽曳野市)にあり、今は亀池弁財天と称す。三大実録によると貞観17年に従五位下を授かった
とある。
ここに記されている「三大実録にある貞観17年に従五位下を授かった神と」いうのは「野中神」であることは言うまでもなかろう。
そして野中神祠のある野々上村には「野中寺」がある。
この野中寺、聖徳太子創建と伝わるが、古代の渡来系氏族「船氏」が白雉5年(690年)に創建した氏寺だともいわれている。
これらから、野中神社は渡来系氏族「船氏」が創建した船氏の氏神である可能性が高いと想像する。
一方、野中宮山に関して河内名所図会は、
薬師如来を本尊として拝む野中山満願寺があり、牛頭天王を鎮守とする。聖徳太子の建営の地なり。
というような意味のことが記されている。野中神に関する情報は一切記されていない。
これらのことから、江戸時代においては野中神社は亀池弁財天の場所にあったと認識されていたと考えて間違いないだろう。
産土神社が野中神社に比定
明治に入ると廃仏毀釈運動が巻き起こり、明治5年に満願寺は廃寺とし、その跡地に、鎮守神であった産土神社の祭神を牛頭天王から素戔嗚尊に神名変更して祀ることとなった。
亀池弁財天に比定されていたものを、なんでまたこの産土神社に比定し直した理由はわからないが、この明治5年もしくは明治25年に産土神社は野中神社に比定されたようだ。
弁財天では具合が悪かったのか、小祠では具合が悪かったのか、新たな事実が判明したからなのか???
ところが、明治後期になると神社合祀政策が発令され、その影響で明治41年に近隣の辛国神社に合祀されてしまった。
昭和25年、氏子の皆さんの強い要望と寄進により当地に復社され、現在に至る。
野中神社の御利益
現在の野中神社は、満願寺の鎮守であった産土神社の御神徳を引き継ぐものと心得る。
がゆえに、素戔嗚尊(牛頭天王)のご神徳により、「疫病除け」「病気平癒」「健康増進」など心身健全に係るご利益が頂ける。
この御神徳は、廃寺となったとはいえ満願寺時代にご本尊として祀られていた薬師如来の功徳とも合致するところであるからして、その神威はあらたかであると想像する。
野中神社 参拝記録
野中神社は外環状線(国道170号線)の「野中交差点」のすぐ近くにある「野中宮山古墳」に鎮座している。
古墳周辺には駐車場がなく、道路幅の狭い生活道路しかないため路駐は厳禁。外環状線の高架下にあるコインパーキングに駐車頂きたい。
コインパーキングの場所と、古墳への道案内は前述の図のとおり。
歩いていくと、古墳の前方部のヘリを通って南西角に到着する。
当古墳の周濠の半分は埋め立てられ、公園や畑として利用されていた。
この公園が周濠を埋め立てたもので、この公園の左手が前方後円墳の前方部分だ。
公園の左手から前方部分へ上がる。だんじり庫?の前に広い平なスペースがある。かつてはここに満願寺があり、それが小学校となり、直近では幼稚園だったと聞く。
ここに駐車できるんじゃないの?と思われる方もいらっしゃるであろう。
しかし、私が参拝した日は作業の方々が軽トラを乗り入れていたものの、日常的に開放されているかどうかは定かではないし、
ここまで車で入るには「この道に入るの?」と思うぐらいのかなり狭い道を通行しないといけない。通行するだけでもお住まいの方々の迷惑になるであろうからして、是非ともコインパーキングに駐車していただきたい。強く望む。
一の鳥居
平に削られてしまった前方部から後円部を望むと、野中神社の一の鳥居が見える。
春には桜がきれいだそうだ。
稲荷社
一の鳥居から右に回り込むと、稲荷社がある。私は近寄ることができなかった。
よって、○○大神とか○○大明神といった祭神名は未調査だが、宇迦之御魂神であることには変わりなかろうと思う。
拝殿
鳥居に戻って石段を上ると、そこが後円部の頂上で、野中神社が鎮座する聖域。
温和な雰囲気である。大きな穏やかな何かで包み込まれるような空気を感ずる。
二拝二拍手一拝。ちょっとしたお願い事を申し上げる。そして天津祝詞。
体が前後に揺れだして、そよ風が吹いてきた。そしてコオロギの音。
本殿
鉄柵の中に、さらに玉垣に守られた、小振りではあるがしっかりした印象の本殿を構える。
氏子さんたちが、私財や地域の土地を売って作った資金で再建したという社殿。
このような、氏子さんたちの気持ちが籠った神社には、何か特別な力を感ずるが、我々のような余所者にも御神徳を授けていただけるだろか。。。
遙拝所
遠隔地にある神社を遙拝することができる拝所。これを遙拝所と呼ぶ。
伊勢の神宮を遙拝、橿原神宮の神武天皇を遙拝、神奈備山や奥宮を遙拝などが多いが、こちらは何も書かれていない。
よってこれは、どこを遙拝しても構わないということだと理解してしまおう。
瑠璃殿
本殿域から、向かって右手に後円丘を降りていく参道がある。
そこを降りると、、、
左側の覆屋には小祠が祀られ(祭神不明)ており、右の覆屋には仏像が安置されていた。
これが「瑠璃殿」と呼ばれるお堂で、安置されている仏様は、なんと「薬師如来」だそうだ。
廃寺にされてしまった満願寺に安置されていた薬師如来像かどうかは定かではないが、こうやってここにまた薬師如来が祀られていることに感動を覚える。
廃寺の混乱時に、関係者がこっそりとご本尊をお守りして隠し持ち、しかるべき時にお返しした。
そんな経緯を想像するのは私だけであろうか。
さらに、よく見ると、薬師如来専用のお百度石がセットされているではないか!
地域の人たちの満願寺への篤い信仰心を感じることができて、得も言われぬ幸せな感情が沸き上がってきた。
周濠
古墳の北側だけに残った周濠沿いに歩いて帰ることにしよう。
まとめ
1200年の歴史を持つ野中神社。しかしその創建年代や目的は不明。いやそれ以降もずっとその実体は明らかではない。悪く言えば素性のよくわからない神社。
しかし、実際に参拝してみると、対象となる神仏が薬師如来であろが牛頭天王であろうが、この場所で長年にわたり多くの人が多くの祈りを捧げたという事実を感じることができた。
となれば、この場所には大きな神霊が存在するであろうことは間違いないなかろう。もはや、野中神社が本当はどこにあったかなどはとるに足りない小事である。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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