生根神社|大阪住吉|上町断層に鎮座する奥の天神は無病息災の神社
生根神社は、大阪市住吉区住吉にある神社。延喜式神名帳に「摂津国住吉郡 生根神社 大 月次新嘗」と記載ある、いわゆる式内大社。霊験あらたかなのである。
住吉大社の摂社であるところの大海神社の北200mほどの場所に、南向きに鎮座する。当社も江戸時代は住吉大社の摂社だったが、今は独立している。
住吉大社・大海神社・生根神社と由緒ある神社が並んでいるが、このラインは上町断層に沿っている。それは、いずれも西側に生じている段差の存在で確認することができよう。
古代においては、この下段がまさに海岸だったそうだ。そのような古代の景色に思いを馳せつつ、生根神社の見どころをご紹介したいと思う。
ちなみに、西成区玉出にも生根神社があるが、そちらは当社からの勧請社なのでお間違えなきよう。。。
生根神社について
生根神社の概要
- 所在地 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目3−15
- 電話番号 06-6671-2964
- 主祭神 少彦名命
- 社格 郷社
- 公式HP http://ikune.a.la9.jp/history/index.html
生根神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 南海本線「住吉大社駅」徒歩7分
- 阪堺電軌上町線「住吉駅」徒歩4分
- 阪堺電軌阪堺線「住吉鳥居前」徒歩6分
車でのアクセス・駐車場
- 道幅、若干狭し
- 境内に駐車スペースあり(南側の注連柱からの乗り入れ)
注連柱の手前すぐのところにコインパーキングがあるので、そこに駐車するべきかと存ずる。
生根神社の祭神
生根神社の祭神は少彦名命となる。
記紀に登場する神代の神。
海の彼方からガガイモの殻に乗ってやって来た渡来神で、大己貴命(大国主命)の兄弟の契りを交わし、農耕や医療を広めて大己貴命の国造りに協力した。特に百薬の長といわれる酒造りが有名。
国造りの道半ばで常世の国に行ってしまった。
古事記ではカミムスヒの子、日本書紀ではタカミムスヒの子と異なるが、いずれにしても造化三神の子である。がゆえに特別視されて、「天神」と言えば少彦名命と解されるようになったようだ。
当社の祭神を少彦名命とする理由は、
- 当社で醸された酒が住吉三神に献上されたとする社伝
- 神功皇后が宴会で「この酒は少彦名神が歌い踊りながら醸した酒だ。さあ残さず飲め飲め!」と謳ったこと
などが上げられる。
一方で、江戸時代に編纂された神名帳考証は当社の祭神を活津彦根命だとしている。
天照大神と素戔嗚尊の誓約で誕生した「五男三女」の4番目の男神。
記紀では、誕生のシーン以外に登場することはない。活津彦根命を祖とする氏族が見られないことから、その実在性を疑問視する向きもある。
イクツヒコネが生根に似ていることから当社の祭神と判断したか。
生根神社の創建
創建年代は不詳。社伝では「住吉大社の創建以前にあった」としている。
平安時代の法制書「新抄格勅符」に「生根神 一戸 大和国」と記載されている。これは「神戸を一戸 大和国から充てる」という意味。
延喜式神名帳に「 摂津国住吉郡 生根神社 大 月次新嘗 」と記載されている。
これらから、平安時代初期あるいは奈良時代には既に存在していたことは明らかと言えよう。
奥の天神
生根神社は、俗称「奥の天神」という。
これは、1472年に天満宮が祀られたことにより、住吉大社の奥にある大海神社のさらに奥にある天満宮であることから、そのように呼ばれるようになったといわれている。
一方で、少彦名命が天津神の中でも特別に「天神」と呼ばれたことから少彦名命を指すとする説もある。
その説は、少彦名命が海の彼方からやって来たことから「沖の天津神」といわれていて、天津神の天津は「てんしん」と読めることから、「おきのてんしん」→「おくのてんじん」に変化したというのだが。。。語呂合わせっぽいのが気になるところ。
個人的には、天満宮説が有力と感ずるし、自然であろう。
生根神社のご利益
当社のご利益は、以下の通り
- 少名彦名のご神徳により、病気平癒・健康増進。
- 天満宮のご神徳により、学業向上
また、絵馬をご覧いただいてもお分かりと思うが、厄払いの祈願に訪れる人々が多そうだ。よって厄除けのご利益も頂けると信ずる。
ちなみに、厄除け絵馬の「厄」という字はくり貫かれている。「厄を取り除く」という意味があるのだろうと推察した。なかなかに洒落ているではないか。
生根神社 参拝記録
電車で訪れる場合は、各線の駅が徒歩5分内外にあるので便利である。
車で訪れる場合は、どこに駐車するのがいいか迷うところ。
個人的には、住吉大社の駐車場を利用して、住吉大社、大海神社、生根神社をセットでご参拝頂いたらどうだろうと思うところである。
南の注連柱
境内の南にある入り口。鳥居はなく 注連柱のみが出迎えてくれる。鳥居は西側の崖下にある。
西の鳥居
本来はこちらが正面玄関なのだろうが、車での参拝や大海神社からのアプローチだと注連柱の方が圧倒的に便利である 。
この高低差が断層が動いた証拠だ。
大昔は、ここらへんが海岸線だったのだろう。
拝殿
桃山時代の建築様式を残す重厚で豪華な拝殿。翼のような屋根の反りがカッコよい。
昭和十一年に新築したもので、総木曽檜造り。こだわった建築物である。
今はまだ数十年の歴史しか刻んでないので評価されていないが、当社としては「この拝殿の美術的な真価は、後世に重要視されることになるだろう」と自信をのぞかせている。
拝殿内部
神前に置かれた大小2つの金幣(御幣)。
これは、本殿に二柱の神が祀られていることを示唆するものだろうか。わからないが。。。
二拝二拍手一拝。。。
本殿
大阪府の有形文化財に指定されている本殿は、豊臣政権の末期に淀君の命令で寄進されたもの。桃山時代の建築様式で、極彩色の豪奢な建築物である。
塀が高く、屋根しか見えないのが残念極まりない。がしかし、屋根を見るだけでも、その存在感に圧倒されること間違いなしである。
境内社の御紹介
当社の境内社は、注連柱の近くにある一社を除き、その他は境内の北側に境内社が並ぶという配置っとなっている。
拝殿前から時計回りに巡ってみよう。
天満宮
境内の北西角に天満宮が鎮座している。「奥の天神」と称される由縁となる天満宮である。
この社殿内には室町時代に制作された菅原道真公の坐像が安置されているらしい。
摂社の位置付けだけあって、他の境内社とは一線を画す佇まいだ。
私は、拝殿にあった二つの金幣から、道真公はこちらと本殿の2か所に祀られていると想像する。
龍王社
本殿の右奥、すなわち境内の北東側に3社ある内の一番左が「龍王社」。彦龍神・姫龍神・保食神が祀られている。水を司る神と食物を司る神が祀られているわけだ。
であるからして、農耕を守護する神と言えよう。
明治40年の神社統合政策により万代から大領にかけてのどこかから遷座されたものらしい。万代池には今も古池龍王社があるが、同じように農業用池を守り田畑を潤す神だったのかもしれない。
塞神社
塞神社は、粉浜村の中在家と今在家の2か所から遷座されたそうだ。
塞とは、悪霊や疫病や外敵など、村人の生活を脅かすものの侵入を防ぐための「砦」を意味する。なかなかに武骨な社名だが、その由来はというと、、、
平安末期に起こった保元の乱で負けた源為義・為朝軍の将兵8人と一族郎党が摂津の住吉に逃げてきた。低湿地帯の葦原を開拓し4年後には立派な村に作り上げ粉浜村と名付けた。その8人の武士を氏神として祀るとともに塞神も合祀して村の平和を祈った。
8人の武士とともに合祀されている塞神とは、八衢比古神と八衢比売神だそうだ。
魔除けのご利益を頂くことができよう。
種貸神社
種貸神社は、敷津村上神殿からの遷座。ご祭神は宇賀鬼神というが、宇賀魂神の間違いではなかろうか。
というのも、お隣の住吉大社にも種貸社があり、そちらの祭神が宇賀魂神だからだ。
であれば、宇賀魂神は一般的には宇迦之御魂神と同一とされることから、五穀豊穣の神・稲荷神と解してもよいだろう。
稲荷社
4社並んだ一番右にあるのが稲荷社。こちらは帝塚山からの遷座である。
となりの種貸神社も稲荷神であるからして、稲荷社が2社並んでいることになるが、境内にはもう一社の稲荷社がある。
それが、注連柱横の稲荷社だ。
天浄稲荷社
こちらが天浄稲荷社。ご祭神は天浄稲荷大神と名付けられた宇迦之御魂神である。
であるからして、五穀豊穣・商売繁盛・金運上昇がご利益となろう。
ご神木
社務所の前に聳え立つご神木は「もちの木」。樹齢500年を超えるという。500年前となれば西暦1500年ぐらい。
長曾我部国親、織田信秀、松永久秀、立花道雪、真田幸隆、尼子治元、北条氏康、今川義元などなど、後に戦国武将として大活躍する人々が生まれた頃に、このもちの木も芽を出したということになる。
そう考えると、人の一生なんてちっぽけなものだと、感慨深く思っていたが、、、
もちの木の向こうにある木が妙に気になった。
なんと、木が太くなってしまって、屋根に食い込んでしまっている。このまま100年ほどたてば、家が壊れてしまうのではなかろうか。
これを見ても、樹木の生命力の強さを思い知るのである。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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