石清尾八幡宮|香川|高松の氏神さん
石清尾八幡宮(いわせおはちまんぐう)は、香川県高松市宮脇町にある神社。
高松市の中心部に横たわる石清尾山の北麓に東向きに鎮座する古社で、かつては高松城の鎮守として武家の信仰を集め、今では高松の鎮守「高松の氏神さん」として高松市民から親しまれている神社だ。
境内の裏手には、珍しい「髪の毛の神様」を祀る祠がある。こちらにも是非参拝頂きたい。
石清尾八幡宮について
石清尾八幡宮 概要
- 所在地 香川県高松市宮脇町1丁目30−3
- 電話番号 087-862-5846
- 主祭神 足仲彦命・誉田別命・息長帯姫命
- 創建年 918年
- 社格 県社
- 公式HP https://iwaseo.com/
石清尾八幡宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- JR高徳線「栗林公園北口駅」徒歩10分
駐車場
- あり(無料)
石清尾八幡宮の祭神
祭神は、足仲彦命、誉田別命、息長帯姫命の三柱である。
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
14代仲哀天皇である。記紀には、熊襲征伐の途中で神様から「朝鮮半島に金銀があるから攻めよ」という神託が降りたが、それを疑ったがために神の力によって死んでしまった可哀想な天皇として描かれている。
その神とは、住吉大神である。
誉田別命(ほむだわけのみこと)
15代応神天皇である。母は神功皇后。天照大御神とともに皇祖神としての廟を持つ天皇だ。
一説には、応神天皇は朝鮮半島から渡来した王で、実は応神天皇こそが現在の皇室の祖ではないかなどと囁かれている。
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
14代仲哀天皇の皇后で、15代応神天皇の母。神の力によって亡くなった夫に代わって、身籠りながらも三韓征伐を敢行。凱旋と同時にお腹の子を生んだ。それが応神天皇である。
石清尾八幡宮の創建と歴史
創建は延喜18年(918年)に遡る。
讃岐国香川郡箆原(高松市)の赤塔山に八幡大神が顕われたため、その山頂に八幡大神を祀ったのが始まりとも、
あるいは、平安京の守護神「石清水八幡宮」のご分霊を香川郡箆原荘の亀尾山の山頂に祀ったのが始まりとも伝わる。
後者の方が現実的であろう。「石清水」と「亀尾」を合体させて「石清尾八幡宮」だ。いいではないか。
時は流れて南北朝時代。細川頼之が足利方の将軍として四国へ派遣された時に、戦勝祈願を行い武具を寄進したとの記録が残る。
また、豊臣時代には生駒親正が讃岐の国主として赴任した時に、神域が広げられ高松の鎮守となった。
江戸時代初期には、初代高松藩主の松平頼重によって山頂から現在地に遷座し荘厳な社殿が造営され、さらに社領が増やされた。
高松を代表する神社と言えよう。
石清尾八幡宮のご利益
仲哀天皇と神功皇后、そしてその御子神である応神天皇の三柱の家族を八幡大神様として祀っている。よって、縁結び・夫婦和合・子孫繁栄のご利益を頂くことができるだろう。
また、神功皇后は安産の神としても有名だ。
石清尾八幡宮 参拝記録
今日はあいにくの雨。本来なら雨天の参拝は控えるのだが、高松へ来るのは年に1回か2回。この期を逃すと、いつになるかわからない。というわけで雨天決行である。
高松市街にポッカリと浮かぶ小島のように聳える石清尾山の北麓、天狗の鼻のように突き出た半島の先端に「石清尾八幡宮」は鎮座している。
駐車場
鳥居の左奥に駐車場がある。40台ほど駐車場可能。正月や祭りでもなければ大丈夫だろう。
鳥居
八幡鳥居ではない。神明系の素木鳥居の形状でありながらも石造りというユニークな鳥居である。
神橋と随神門
随神門の前には濠があり、神橋が架かっている。神域への入り口だ。
下拝殿
幅広の石段の先に、大きな立派な下拝殿が聳え立つ。
近づくと、その唐破風の巨大さに圧倒される。
この下拝殿は舞殿も兼ねるのだろうか。床面積が広い。
二拝二拍手一拝。商談の成功を祈る。
しかし、雨はイヤだ。
上拝殿と本殿
下拝殿から一段高い場所に上拝殿がある。その奥に少しだけ屋根が見えるのが本殿だ。本殿は上拝殿よりもさらに一段高い場所にある。
ちなみに上拝殿へは、我々のようなお賽銭だけの一般人は行くことができない。ご祈祷料を支払ってご祈祷して頂く場合のみ入ることができる。(と思う)
境内社のご紹介
奥から、、、
高良社
祭神は建内宿禰命。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖とされる人物。
記紀には、12代景行天皇・13代成務天皇・14代仲哀天皇・15代応神天皇・16代仁徳天皇の歴代天皇に仕えた重臣として登場する。特に、当社の主祭神の時代に大活躍した。
これだけの天皇に仕えたとなると、いったい何歳まで生きたの?という疑問が当然のように湧き上がる。
いろんな文献にいろんな説が記されている。360歳とも280歳とも。伝説上の忠臣と言われるのも当然だろう。
長寿の神として祀られることも多い。
御先社
祭神は、天之宇受売命と猿田彦命。
記紀では、この二柱は夫婦となったような。猿田彦命は導きの神として祀られる。天之宇受売命は芸能の神として祀られることが多い。
廣瀬龍田社
祭神は、級長津彦命・級長津比売命・若宇賀能売命・少彦名命・大年命。
大和国の廣瀬大社と龍田大社が合体した社名である。両大社からの勧請だろう。
級長津彦命・級長津比売命
伊弉諾尊と伊弉冉尊の神生みで、噴出した息から生まれた風を司る神。生命を司る神とも。
大和盆地の西、河内平野へ出る龍田街道を押さえる要所に鎮座する龍田大社の祭神「天御柱命と国御柱命」と同一神と言われている。
若宇賀能売命
穀物の神。伊勢の外宮に祀られる「豊受大神」、あるいは稲荷社に祀られる倉稲魂命と同一神と言われている。
大和盆地を流れる河川の大半が合流する要所に鎮座する廣瀬大社の祭神も若宇加能売命である。一文字違い。同一神であろう。
龍田も広瀬も、天武天皇が政敵への抑えとして、すなわち軍事拠点として造営した神社と捉える向きもある、古代ヤマト王権の国家経営に欠かせない、重要な神々である。
少彦名命
薬の神、酒の神、温泉の神など、様々なご神徳を持つ神。大国主命の相棒として国造りに一役買った神だ。
日本神話における最高神ともいわれている高皇霊産神の御子であることから「天神」と称され、「天神社」に祀られる。
平安時代以降、菅原道真公の祟りを鎮めるために天満宮が全国各地に祀られるようになってからは、天満宮が天神にすり替わってしまった。
だから、現在の天神社の祭神は、菅原道真公とともに少彦名命が祀られている場合が多い。お近くの天神社の祭神をご確認いただきたい。
大年神
穀物の神。須佐之男命の御子。妹に同じ穀物神の宇迦之御魂神がいる。
北口霊社
友安刑部霊、友安治部霊を祀る。祖霊社のようなものか。
友安刑部さんは、初代高松藩主松平頼重によって社殿が造営された時の宮司さんのようだ。竣工したのちに罷免されたとの記録が残る。
さて、上拝殿と同じ段に、二つの祠がある。
神明社(左側)
祭神は、天照大神・住吉三神・藤原鎌足公とのこと。神明社の祭神としては、あまりない構成である。
若宮社(右側)
祭神は、16代仁徳天皇。当社主祭神の御子であるからして「若様」。だから若宮社ということになる。
蜂穴神社
本殿域から右へ坂道を降りていく。降りると小川沿いに左へ。およそ250mほど歩くと山裾に社標が見えるだろう。
ここを右へと昇っていくと、、、
祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)。三嶋大明神ともいう。
言い伝えによると、
先の細川頼之が四国平定に下向し伊予の河野氏と戦った時に神夢を見た。よって、戦勝凱旋の後に石清尾山麓に伊予の三島明神を勧請して奉斎した。 |
とのこと。
河野氏は伊予国の豪族で、河野水軍を組織していた。村上水軍も河野水軍の一派だったようだ。
その河野氏が崇敬したのが、三島神社の総本社である伊予の「大山祇神社」。
髪授神祠
蜂穴神社の前に鎮座するのが髪授神祠。昭和31年に創建された新しい神社である。
飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)と藤原采女亮政之公(きたのこうじうねめふじわらのまさゆき)を祀る。
髪授神祠の祭神
飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)
日本神話に登場する神。
古事記では以下の通り。
黄泉の国から還ってきた伊邪那岐命は、身に付いた穢れを祓うために禊を行うことにしました。まずは、身に着けていた衣服を脱ぎ捨てます。その脱いだ冠から飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)が成りました。 |
冠から成ったので、髪の毛の神ということなのだろう。
ちなみに、日本書紀では「褌」から開囓神(あきぐひ)が成っている。同一神だという。日本書紀を採用したら髪の神とはならなかったところだ。
藤原釆女亮政之公(ふじわらのうねめのすけまさゆき)
鎌倉時代のこと。京都御所の警護役だった父親「藤原晴基」が宝刀を紛失してしまい、その責任を取って浪人となる。 「政之」は父とともに宝刀を探す旅に出た。時まさに元寇。全国各地から武士が集まっていた下関で、刀を探すために武士相手の髪結所を開設した。 結局、刀は見つけることができなかったが、髪結の腕は上がった。 鎌倉に移住した後も、髪結い技術を評価され、幕府からは引っ張りだこだったとう。 |
こんなことから、理美容業の祖と称されるようになったとのこと。
ちなみに、その髪結所の床の間に亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから「床屋」と呼ばれるようになったとか。
髪授神祠のご利益
乳児の産毛を供えて祈願すると、その子は一生美髪に恵まれ、若禿、白毛にならず、体毛の発育にもよいと言い伝えられている。
となれば、、、私はもう無理だということになろう。残念でならない。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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