杜本神社|大阪|名神大社|藤原氏に縁の深い神社で家運上昇を祈る
杜本神社(もりもと)は大阪府羽曳野市駒ヶ谷にある神社。
延喜式神名帳に記載ある「河内国安宿郡(あすかべぐん) 杜本神社二座 名神大」の論社となっている。
柏原市にも同名の神社があり、そちらも式内社の論社となっているが、どうやら当社の方が優勢なようだ。
たしかに、小高い山に鎮座し神宮寺を従えるその様は、名神大社としての風格を感ずる。
また、境内には楠正成の墓所や、藤原永手の墓碑、謎の隼人石などもある。見どころたっぷりの神社である。
杜本神社について
杜本神社 概略
- 所在地 大阪府羽曳野市駒ケ谷64
- 電話番号 072-921-2711
- 主祭神 経津主命・経津主姫命
- 創建年 不詳
- 社格 式内名神大社・村社
- 公式HP なし
杜本神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄南大阪線「駒ヶ谷駅」 徒歩5分
駐車場
- あり(無料) 微妙につき、本文を参照頂きたい
杜本神社の祭神
現在の祭神は、経津主命と経津主姫命の夫婦神。
経津主命(ふつぬし)
日本書紀によると、葦原中國平定(出雲の国譲り)において、大国主命に国を譲らせるために高天原から遣わされた軍神二柱の内の一柱。もう一柱は武甕槌命で、両神とも藤原氏の氏神とされる。 |
しかし平安時代は、百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖神を祀る神社だったと、羽曳野市のHPにあり。
百済永継(くだらのながつぐ)
男のような名前だが、実は安宿郡(あすかべぐん)を本拠とした飛鳥戸氏出身の女性である。 藤原内麻呂(贈従一位:左大臣)の妻となり、真夏(従三位:参議)・冬嗣(贈正一位:太政大臣)を生む。 その後、内麻呂と離縁し桓武天皇の後宮の女官になり、天皇の寵愛を受けたという。 |
藤原内麻呂、藤原冬嗣は、藤原北家の嫡流。政権中枢のトップに昇り詰めた冬嗣の母親であり、天皇の寵愛を受けた女性であるからして、神として祀られたのも納得である。
ちなみに、藤原北家とは藤原四家で最も栄えた家系で、藤原道長・頼道を排出する名家。
飛鳥戸氏(あすかべ)祖神
飛鳥戸氏は、雄略天皇の御代に、人質として百済から渡来した百済王族の昆伎王の末裔。 であるからして、飛鳥戸氏の祖神となれば昆伎王となろうか。 |
祭神の候補は他にもあるようだ。
- 「河内志」には、山神・水神
- 「河内国式神私考」には、句々廼智命・氷谷坐彌豆波乃売神
- 「神社明細帳」には、事代主命・経津主命
- 「地名辞典」「神祇志料」では、桓武天皇王子の室・当宗氏の祖神
- 「地理志料」によると、当宗忌寸租神
そのような変遷を辿ったのかもしれない。
しかし、この杜本神社が名神大社であるならば、すなわち国家的祭祀を行う神社であったならば、
時の権力者藤原氏に関係する経津主命とその妻の二座、あるいはこちらも藤原氏に大いに関係する百済永継と飛鳥戸氏祖神の二座の方が、似つかわしいと感ずる。
杜本神社の創建
創建年代は不明である。
一説には、10代崇神天皇の御代に、経津主命の14世の孫の伊波別命(いわわきのみこと)が、祖神・経津主神の陵墓のある地に住み、経津主神を祀ったのが起源であるという。
となれば、創建は紀元前1世紀のこととなる。
羽曳野市の発表の通り、こちらの祭神が百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖神を祀る神社だったとすると、百済宿袮永継が亡くなってから延喜式制定までの間に創建されたか、あるは祭神変更されたということになる。
すなわち。平安時代の極々初期となろうか。
杜本神社 参拝記録
近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅を降りると、駅前に梅酒で有名なチョーヤ梅酒の本社がある。
チョーヤ梅酒の前の交差点を渡り飛鳥川を渡る。川を渡るとすぐ右へ。そしてすぐに左斜めに入っていく。
細い道だが国道166号線だ。そしてこの道が竹田街道。古代からある難波と大和を結ぶ幹線道路である。
この道をしばらく進むと左側に開けた場所が見えてくる。そこが杜本神社の入り口である。
駐車場のように見えるが「駐車禁止」の看板がある。非常に微妙な感じだ。
駐車場について
このように、社頭には微妙な空きスペースがある。ここに駐車してもいいのかもしれない。
もう一つの方法としては、神社の裏側を通る「柏原駒ヶ谷千早赤阪線」という道路沿いに「杜本神社」という大きな看板がある。看板の上部に矢印が付いている。
矢印の方向に入ると、廃墟のような公民館がある。そこにも「無断駐車禁止」という看板があるため躊躇するのだが、、、
参拝者であれば問題無いのではなかろうか。とも思う。いずれにしても微妙なのだ。
一の鳥居
さて、話を戻そう。
軽く石段を昇った所に一の鳥居がある。一礼してくぐろう。
金剛輪寺
少し左にそれるとお寺があった。金剛輪寺だ。
かつての神宮寺が廃寺となったあと再建されたものだと聞く。
二の鳥居
もとに戻って坂道を上ると二の鳥居が見える。さらに登ろう。
拝殿
これが杜本神社の拝殿。少々寂れた感があるが、綺麗に掃除はされている。
二拝二拍手一拝。
藤原氏ゆかりの神社であるからして、出世を祈願するのがよかろうと思う。
また玉の輿を願うのもいいのではないだろうか。
本殿
拝殿横から山の斜面を這いずり登って撮影。なかなかに立派な反りの屋根である。
隼人石
本殿の左右に一基ずつ、隼人石と呼ばれる石板が立つ。
全く持って見えないのだが、この石板には「頭が獣で体が人」の絵が彫られているらしい。
隼人とは、長らく朝廷に恭順しなかった南九州の部族。朝廷により征服された後は、畿内に連れて来られ宮廷の警備を任ぜられた。
門の左右に立って、そこを出入りする人々に対して犬が吠える声を発して穢れを祓うというもの。特別な呪力も持っていると信じられていた隼人ならではの警備手法である。
これが狛犬の起源だという説もある。
こちらの本殿の左右に立てられた隼人石も、神殿警備の意味があったであろうことは想像に難くない。
拝殿左側の境内社
拝殿に向かって左側の斜面にズラリと並ぶ境内社。
拝殿に近い方から、、、
天満宮
一番拝殿に近い祠が天満宮。菅原道真公が祀られているはずだ。学問の神様である。
光圀大明神
その御隣が、お稲荷さん。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)だろう。光圀大明神と名付けられている。商売繁盛、衣食の神様だ。
猿田彦神
猿田彦神と刻まれた自然石。おそらくどこかの分かれ道に祀られていた道祖神であろう。
集落の入り口や分かれ道にいて、疫病や邪悪なモノを祓い除ける役割を持つ。
光吉大明神
お稲荷さんだ、こちらの神様は光吉大明神と名付けられている。お稲荷さんであるからして、商売繁盛、衣食の神様だ。
皇大神宮
皇大神宮の祭神は、天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)。日神であり、伊勢の神宮内宮の祭神であり、皇室の祖神であり、日本国民の総氏神だ。
拝殿右側の境内社
藤原永手の墓碑
藤原永手は、前述の藤原北家の貴族で、北家の祖である藤原房前の子。藤原不比等の孫である。
親の威光左大臣(現実的な行政トップ)まで出世。
当社の祭神だったとされる百済永継の夫である藤原内麻呂とは叔父と甥の関係。
維日谷稚宮
ドン突きに、維日谷稚宮(いびやわかみや)が鎮座。
こちらには、反正天皇・伊波別命・遠登売命が祀られている。
反正天皇(はんぜいてんのう)
第18代天皇である。16代仁徳天皇の御子。
河内国丹治(羽曳野市一円)に宮を置いた天皇であり、即位前にもこの地には縁が深い天皇なのである。
反正天皇には、次のような逸話がある。少々長くなるが、、、
仁徳天皇が崩御された後、御子の履中天皇が皇位を継ぐことになったのだが、それを不服として同母兄の住吉仲皇子が叛乱を起こした。
弟の水歯別命(反正天皇)は、その近習である曽婆訶理(隼人)に「そなたの主人を殺したら大臣にしてやる」と嘘を言って利用し誅殺させた。
それを報告するために石上神宮に隠れていた履中天皇の許に、その曽婆訶理(隼人)を連れていく時、大坂の山の入り口で一泊することにした。
その時、
「曽婆訶理は私のために、大功を立てた。しかしながら自分の主君を殺すのは人の道に非ず。だからと言って、大功に報いないのは信条に反する。しかし約束を守って大臣にしても、曽婆訶理は忠誠心を保つだろうか。そうだ、功に報いた後に、曽婆訶理には死んでもらおう。」
と考えた。
「今日はここに泊まり、まずは今ここで、お前に大臣の位を授ける。そして、明日、大和へ行こう。」
と言って、従者には曽婆訶理に大臣に対する礼をさせ、これを以って大臣の位を授けたことにし、大酒盃を持たせて酒を飲ませた。
大酒盃で視界が奪われた所を、座布団の下に隠していた剣で曽婆訶理の首を斬り殺害した。
そして、翌朝になって大和に入った。
これが、地名「あすか」の由来だという
(古事記より)
伊波別命(いわわきのみこと)
前述の通り、経津主命の14世孫で当社の創祇者である可能性がある。
遠登売命(おとめのみこと)
よくわからない。
履中天皇が石上神宮へ逃げる際に、ここらへんで乙女に出会い、「この先は兵がたくさんいるから當麻道から行った方がいいですよ」と教えてくれたという話がある。
これが遠登売命だろうか。。。
南木神社
南木神社は、河内の悪党にして英雄、そして南朝の忠臣であるところの「正一位橘朝臣:楠木正成公」を祀る社である。
横っちょに五輪塔が少し見える。これが正成公の首塚だという。
神戸の湊川で自刃した正成公の首を、ここに隠して埋葬したという伝承がある。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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