筥崎宮|福岡|戦わずして勝つ!敵国降伏の文字に日本国そして天皇の在り方を見た!
筥崎宮は、福岡市東区箱崎にある八幡宮である。
延喜式神名帳に記載ある式内社の中でも名神大社に列する、極めて霊験あらたかな古社で、博多にある住吉神社と並んで筑前国の一之宮であった。
明治維新後は官幣大社に列し、現在でも別表神社に指定されている。
宇佐神宮(大分)、石清水八幡宮(京都)とともに、日本三大八幡宮に数えられる。
筥崎宮に替わって鶴岡八幡宮を三大八幡宮のひとつとする説もあるが、私個人としては、その創建年代・存在意義などから、筥崎宮を推したい。これはあくまでも主観であるからして、議論の余地はないのである。
境内には、元寇にまつわる史跡だとか、いくつかのパワースポットが存在する、境内散策が楽しい神社とも言えよう。
筥崎宮について
筥崎宮 概要
- 所在地 福岡市東区箱崎1丁目22−1
- 電話番号 092-641-7431
- 主祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命
- 創建年 923年頃
- 社格 式内名神大社・筑前国一之宮・官幣大社・別表神社
- 公式HP https://www.hakozakigu.or.jp/
筥崎宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- 地下鉄「箱崎宮前駅」徒歩3分
- JR鹿児島線「箱崎駅」徒歩8分
駐車場
- あり(有料)
筥崎宮の祭神
応神天皇
八幡大神ともいう。14代仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた15代の天皇である。
お腹の中にいるときに、住吉大神から「将来この国を統治するべき皇子」とのお墨付きをもらったというによって「胎中天皇」と称されたり、生まれた時から腕に矢を射るための武具「ほむた」のような盛り上がりがあったことから、「誉田別命」(ほむたわけのみこと)と呼ばれたりする。
多くの妃との間に多くの御子をもうけたが、その中の一人が仁徳天皇。応神天皇陵(羽曳野市)と仁徳天皇陵(堺市)は、日本史上群を抜いて巨大な古墳であり、その強大な権力が見て取れる。
またこの頃に、朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて帰化した。その中心が秦氏。実は応神天皇本人も新羅からの渡来であるとする説もある。
ってなわけで、いつのころからか応神天皇は秦氏が奉じる八幡神(ヤハタ神)と習合した。現在、八幡大神といえば応神天皇と考えるのが至極一般的である。
神功皇后
14代仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母。応神天皇を身籠りながらも三韓征伐を敢行した女傑と言える。
日本史上、海外へ軍事進出した記録は、この神功皇后の三韓征伐が最初である。
がゆえに神功皇后は、大陸との接点である玄界灘を望む国防の地に祀るにふさわしい神と言えよう。
一方、三韓征伐から凱旋後、筑紫の宇美の地で無事に応神天皇を生んだことから、安産の神としても名高い。
玉依姫命
初代神武天皇の母であるところの玉依姫命とされる。海の大神であるところの大綿津見神の娘。よって、海の神といえる。
姉の豊玉姫命が生んだ子「ウガヤフキアエズ尊」の養育係を担当し、その「ウガヤフキアエズ尊」と結婚して神武天皇をもうけた。
玉依姫命は、他にも存在する。たとえば、、、
- 上賀茂神社の祭神「賀茂別雷大神」の母神も玉依姫命。
- 事代主命あるいは大物主神の妃も玉依姫命。
- 神武天皇の皇后も玉依姫命。
そもそも、玉依姫は「玉(魂=神)が依りつく姫」、すなわち巫女。神と交信する能力を持つ、他者とは代え難い特別な姫というような意味合いかと。
何故、特別な姫なのかというと、古代において祭祀と政治は同体だったからである。よって、政治を「まつりごと」という。神託は絶対だったのだ。
筥崎宮の創建
創建年代は定かではないが、社伝や宇佐神宮託宣記などによると、西暦921年(延喜21年)に醍醐天皇の「敵国降伏」の宸筆を下され社殿の造営が始まる。
当時、新羅との関係が怪しい時代であったがゆえの事と推察する。
2年後の923年(延長元年)に、神のお告げにより福岡県飯塚市大分(だいぶ)にあった筑前大分宮から遷座したとされる。
大陸や半島の脅威からこの国を守護する目的で鎮座するからして、当然ながら玄界灘に面した立地である。
蒙古襲来の際には、社殿が焼失したものの、八幡大神の神力と神風のお蔭様で蒙古軍は撤収したという。
蒙古軍の圧倒的な軍勢で日本軍は博多湾から逃げ去った。
その夕刻過ぎ、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが、出火した筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて蒙古軍に矢を射掛けた。
恐れを慄いた蒙古軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出した。
海から怪しき火が燃え上がり、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船二艘が現われて、蒙古軍に襲いかかり討ち取った。
沖に逃れた者も大風に吹きつけられて敗走した。
朝鮮半島に睨みを効かせる筥崎宮
海に向かって真っすぐに伸びた参道が実に印象的な光景なのだが、この参道は何処を向いているのだろうか。
GoogleMapで、筥崎宮のこの参道から延長線を引いてみると、志賀島の南をかすり、玄海島の南をかすり、壱岐島の北をかすり、対馬の南をかすり、朝鮮半島まで到達する。
これは、まさに筑前と朝鮮半島を結ぶ航路だ。対馬→壱岐→玄海島→志賀島→博多港。このルートを通って蒙古軍と高麗軍の連合艦隊がやってきたのである。
筥崎宮のご利益
ご祭神のご神徳により、武運長久、勝運向上のご利益がいただける。蒙古軍撃退の由来をもって、奇跡あるいは起死回生のご利益も期待できそうだ。
他にも、境内社やパワースポットなど、ご利益を頂けるスポットが点在しているので、追ってご紹介申し上げようと思う。
筥崎宮 参拝記録
筥崎宮へは、JRよりも地下鉄箱崎線「箱崎宮前」の方が近いと思う。ちなみに、地名や駅名はすべて「箱崎」。「筥崎」ではない。これにも理由があるが、それは後程。。。
二の鳥居
まずは二の鳥居。一般的に、神社の鳥居は参道の入り口から数えて一の鳥居・二の鳥居というが、筥崎宮は逆。本殿に近い順に一の鳥居・二の鳥居というのだ。理由はわからない。
筥崎鳥居
これが一の鳥居。国の重要文化財である。黒田長政の奉納。
石造りで三分割できる仕組みのようだ。極太で根元の方がさらに太い柱。笠木と島木は一本の石材で作られていて反りが入り、笠木と貫の長さが同じという特徴を持つ。
他に例を見ない様式なので、筥崎鳥居と呼ばれる。
大きく、衛生的な手水舎である。蛇口から水が常時流れている。結構な水道代と思われる。
と、八幡宮ゆかりのある生き物が、、、
なんと縁起の良いことか。今日の商談は成立間違いなしと感じる。
金運のパワースポット 銭洗いご神水
手水盤の本殿側の辺に、銭洗ご神水コーナーが設えてある。
- 籠(でぼ)にお金を入れてご神水で洗う。
- 持ち帰ったお金は使うことで、巡り巡って福を授かることが出来る。
というシステムだ。
運気上昇のパワースポット 湧出石(わきでいし)
玉垣に囲われた中に、石の頭が出ている。
この石を「湧出石」と呼ぶ。これに触れると運が湧出てくるとのこと。
運気上昇・招福開運を祈願しながら石に触れると良いらしい。
やってみると、意外にも結構遠くにある。腰痛持ちの方は、注意が必要だ。
ちなみに、この湧出石、
「国家に一大事があるときには、この石が湧き上がってきて全貌を現す」
という言い伝えがあるという。出てきてもらいたくない。
災厄よけ お潮井
これは「お潮井」と称する真砂である。
表参道を真っすぐ進むと海に出る。そこが「お潮井浜」。そこの砂である。
この砂を籠(でぼ)に入れて家の玄関に配置しておき、外出時は身に振りかける。災厄からのがれられるという。
ほかにも、家屋の新築の際に敷地を清めるのに使ったり、田畑に撒いて害虫よけあるいは豊作を祈るとよいらしい。
手水舎裏の様子
唐船塔と夫婦石
これは、ここに伝わる、ある中国人のお話に由来する。
日本にとらわれた唐の人「祖慶官人(そけいかんにん)」が、なんやかんやあって、筥崎宮の大宮司に仕え、日本人の妻を娶り二人の子をもうけて暮らしていた。
やがて唐に残した子供二人が、はるばる迎えに来た。大宮司はこの子供たちを憐んで、日本で生まれた子も連れて唐に帰ることを許した。
故郷には帰りたい、しかし日本人妻との別れが、、、なかなかもって複雑な胸中であったに違いない。
さて、迎えに来た子が「父がもし、日本で死んでいたら建てよう」と持ってきた供養塔が、この塔といわれている。
また、祖慶官人と日本人妻とが別れる時に腰かけて、名残を惜しんだといわれる一対の石がこれらしい。「夫婦石」と称する。
大楠
おとなりに「大楠」。樹齢は800年。画像では伝わりにくいが、幹がエゲツなく太い。この神木に圧倒的なパワーを感じたのは私だけではなかろう。
しかし、樹齢3000年という大楠「川古の大楠」が佐賀県にあると聞いた。それに比べればまだまだ若い?
元寇防塁跡と碇石
大楠の前に、元寇関連の史蹟があった。
元寇防塁跡とある。この石積みが当時の防塁なのだろうか。レプリカなのだろうか。確認を怠った。
石積の前に置かれている長細い石が、元の戦艦の碇(いかり)に使われていた碇石。筥崎宮前の海中に沈んでいたものらしい。
本殿前の様子
絵馬殿
筥松
楼門のそば、朱の玉垣で囲まれた松は「筥松」。「標(しるし)の松」とも呼ばれるご神木だ。
応神天皇の御枹衣(胎盤)を「筥」に納めて白砂青松の清浄なる岬に埋めた。埋めた標として松を植え「筥松」と名付けられて以後、筥松のある岬ということで「筥崎」の名が起こったと伝わる。
「筥」の文字は天皇に由来し畏れ多いとして、人々の営みの場では「箱」の文字を用いたという。
楼門(重要文化財)
これが筥崎宮のシンボルともいえる「楼門」。伏見桃山時代の1594年(文禄3年)、小早川隆景公によって建立された。
とにかく檜皮葺きの屋根がデカいのである。不安定感極まりないのだが、三手先組(みてさきぐみ)といわれる枡組によって、がっちりと支えられているのである。
そして、有名な額。
敵国降伏
そもそも、醍醐天皇によって「敵国降伏」のご宸筆が納められ、ここに八幡宮が創建されたことは前述した。
それ以降も、何人かの天皇によって「敵国降伏」のご宸筆が下されてきたが、この額の筆跡こそが、蒙古襲来時に下された「亀山上皇」のご宸筆に他ならないのである。
小早川隆景が掲げた最初の額は、宝物館で保管されていて、この額は二代目とのこと。
敵国降伏に込められた思いとは
福岡が生んだ論客として全国に有名な福本日南が、その代表的著書『筑前志』のなかで、次のように述べている。
『敵國降伏』と『降伏敵國』とは自他の別あり。敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。敵國を降伏するは力に由る。覇者の事なり。『敵国降伏』而る後、初めて神威の赫赫、王者の蕩々を看る
「敵国降伏」は漢文である。
「敵国を降伏させる」という意味で書く場合は、「降伏敵国」と書くのが正しいらしい。
そこをあえて「敵国降伏」と書くからには、その意味は「敵国の降伏」すなわち「敵国が自ら降伏してくる」と解釈するべきだという。
よって、敵国降伏の祈願とは、
「日本国のミカドたるもの、敵国を武力で制圧するのではなく、「王道」すなわち神威と徳に敵国が畏れて靡いてくることを望む」
ということだと解釈するのである。
王道
これこそが日本国のありかたであり、聖徳太子が隋(中国)に送った「日出処の天子、日没する処の天子に致す。つつがなきや…」から始まる書簡が象徴する、日本外交の基本姿勢なのである。
世界の中で日本が日本として独立を保ち続け得たのは、島国であることに加えて、この考え方「王道」が根底にあるが故と考えるのである。
筥崎宮の拝殿(重要文化財)
拝殿までは進めない。楼門下からの参拝となる。1546年(天文15年)、大宰大弐大内義隆が建立したもの。
柱に掛けられた火王・水王のお面が、すこしばかり大陸的な印象を与える。
二拝二拍手一拝。ここでは個人的なお願いは避けたほうがよかろうと思う。
亀山上皇尊像(木像)
楼門で参拝ののち、左側にある「亀山上皇尊像」を見学する。この木像は、博多の東公園に立つ「亀山上皇銅像」の原型として彫られたものだそうだ。
亀山上皇は、第90代の天皇で、院政を開始するやいなや、文永の役(1274年)が勃発し、続いて弘安の役(1281年)が勃発。2回に渡る蒙古襲来(元寇)、まさに国難を経験した上皇である。
そのとき、政治と軍事を司る幕府すなわち北条執権家は、、、軍勢を配置して襲来に備える。
弘安の役の際には、博多湾沿岸部に防御土塁を20キロにも渡って築いたという。
そして、祭祀を司る朝廷すなわち天皇(上皇)は、、、神仏に敵国降伏の祈願する。
いわゆる調伏である。このとき亀山上皇は
「我が身をもって国難に代わらん」
と宣言したという。
神の子が「自分が身代わりになるから、この国難を鎮めていただきたい」と祖神に願い出たわけだ。この重みは凄い。
およそ歴代天皇はすべからく、この気概でミカドの責任を全うしようとしていたと聞く。昭和天皇もしかり。
博多の、いや日本国を守った英雄の一人と言えよう。
本殿裏の境内社
本殿の裏手には、東西に合祀殿が造営されている。
西末社
こちらに、五つの末社が祀られている。
奥から
- 龍王社・・・「綿津見神」 海と空の守り神
- 若宮殿・・・「仁徳天皇」 芸能文化の守り神
- 仲哀殿・・・「仲哀天皇」 家族の守り神
- 厳島殿・・・「市杵嶋姫命」 旅行安全の神
- 民潤社・・・「民潤神・埴安神」 日除の守り神
- 綿津見神・・・本殿祭神の玉依姫命の父神。
- 仁徳天皇・・・応神天皇の御子。16代の天皇である。
- 仲哀天皇・・・応神天皇の父。14代の天皇。
- 市杵嶋姫・・・宗像三女神の一柱。
- 民潤神・・・わからない。
東末社
こちらにも五つの社が祀られる。
奥から
- 池島殿・・・「宗像三女神」 手足の守り神
- 武内社・・・「武内宿禰命」 不老長寿・健康の神
- 乙子宮・・・「菟道稚郎子」 子育ての神
- 住吉殿・・・「住吉三神」 海上交通の守り神
- 稲荷社・・・「宇迦之御魂神」 商売繁盛・田畑の守り神
- 宗像三女神・・・宗像大社の祭神であり、宇佐神宮の第二殿に祀られる比売大神。
- 武内宿禰命・・・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇などに仕えた大臣。神功皇后と男女の仲ではなかったか?との噂がある。
- 菟道稚郎子・・・応神天皇の皇子で仁徳天皇の異母弟。もともとは、こちらが皇太子であったが、仁徳天皇に皇位を譲ったとされるが、一方で、仁徳天皇によって暗殺されたのでは?との伝承が、京都の宇治地方に伝わる。
- 住吉三神・・・神託を疑った仲哀天皇を一瞬にして死に至らしめた神であり、神託を信じた神功皇后の三韓征伐を助けた神であり、そのお腹にいた子を天皇になるべきとお墨付きを与えた神。
- 宇迦御魂神・・・稲荷神の代表選手。伏見稲荷大社に祀られるのは、この神である。
この中で、池島殿の前には沢山の小さな草鞋が奉納されていたのが印象的であった。
そして、いずれの社も扉が開けられていた。珍しい光景である。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません