宇治上神社|世界文化遺産に封印された「宇治の神様」の真実とは?

2016年8月22日

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世界遺産「古都京都の文化財」を構成する「宇治上神社」は、京都府宇治市にある式内社である。平等院の対岸にある仏徳山の麓「宇治神社」のすぐ上段に位置する。この2社は対の関係とされている。

宇治では、平等院が圧倒的に人気。宇治茶のお店も多くあるため、川向こうはいつも大盛況だ。

一方、こちら側は世界遺産とはいえ平日の人出は多くなく穴場感がある。

世界遺産に指定された要因は、とりもなおさず「本殿」の存在であろう。現存する日本最古の神社建築物であり国宝であるということだ。神社の創建年代ではなく建築物が最古であるという価値である。

造営はなんと1060年。950年余り前の木材がいまだに腐ることなく存在するとは、まさしくイヤシロチである。

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宇治上神社について

宇治上神社 概要

  • 所在地   〒611-0021 京都府宇治市宇治山田59
  • 電話番号  0774-21-4634
  • 主祭神  磐長姫命
  • 創建年      不詳
  • 社格   式内小社・村社
  • 公式HP    なし

宇治上神社 アクセス

MAP

最寄り駅

  • 宇治神社から100m

駐車場

  • あり(有料)

宇治上神社の祭神

その本殿内部には、左殿・中殿・右殿が造営されている。それぞれの祭神は以下の通り。

左殿・・・主祭神である菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)を祀る。

『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と記載されている。応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の弟である。学問・儒教を極めた頭脳明晰な御子であった。皇太子に立てられたものの、兄である大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したという美談の持ち主。儒教の教えを忠実に守らんがための身の処し方だったのだろう。とされているが。。。

中殿・・・応神天皇を祀る。

第15代天皇で、主祭神「菟道稚郎子命」の父である。八幡大神となり全国の八幡宮の主祭神である。

右殿・・・仁徳天皇を祀る。

第16代天皇で、主祭神「菟道稚郎子命」の異母兄にあたる。仁徳天皇の母は、仲姬命(なかつひめのみこと)。「菟道稚郎子命」の母は、和珥氏族系の宮主宅媛命(みやぬしやかひめのみこと)である。

宇治上神社の御利益

宇治神社と同じく、学問を極めた祭神にあやかって、学業向上・受験合格の御利益である。

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宇治上神社 参拝記録

前回の記事で紹介した「宇治神社」を裏口から退出した。なぜ裏口から退出したのか。それは「宇治神社」の裏の風景が遠目から古墳のように見えたからである。

しかし、そこは変電所であった。がっかりしたわけだが、そのときである。足元を小さな蛇がクネクネと。。。久しぶりに見た。子供のころは森に入ればゴロゴロといたのに。なつかしさを覚えた。

一の鳥居

それはさておき、さわらびの道を少し上ると「宇治上神社」の立派な石柱と鳥居が目に飛び込んでくる。横長の神額が珍しい。

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鳥居をくぐると、極めて短いが、それはそれで風情のある参道である。落ち着く空間だ。

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山門と石橋

参道を歩き、山門の手前に小さな石橋がある。

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下には川が、、、と思いきや水たまりである。この澱みは少々いただけない。

山門をくぐる。世界遺産にしては人出が少ない。しかし世界遺産でなければもっと少ないのであろう。

国宝「拝殿」

境内に入るとすぐ目の前正面に、拝殿が横たわっている。その両端には清めの砂が円錐形を呈している。

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この拝殿は鎌倉時代の建築だ。拝殿の両脇に独立した部屋が設えてあるらしい。神社建築でありながら住宅建築の仕様が採用されているところが珍しい。なんとこれも国宝である。

こちらは、本殿前で参拝できるタイプの配置になっているので、拝殿は鑑賞するだけにとどめる。

というわけで、本殿へ向かう前に手水舎で清めないと、、、見慣れた手水舎をイメージしながら探すが見当たらない。

それもそのはず、ここは一般的な手水舎ではなく、現存する唯一の宇治七水である「桐原水」で清めるシステムになっているのだ。

浄化のパワースポット「桐原水」

「泉」を守るように小屋が建てられていた。

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作法がよくわからないが、とりあえず石段を下りて湧き水を右の壁に掛けられている柄杓ですくい手を清めた。

どうやらこの柄杓は足元に転がっているジョウロでタンクの水を汲むためのものであって、清める作法としては柄杓を使わずに直接手を浸すのがいいらしいと後で聞いた。

そしてちゃんと「手水舎」と書かれてあった。

この小屋の中は独特な世界が広がっている。まずは暗い。そして涼しい。水が足元に満ちているが暗くて底が見えるようで見えない。奥はなおさらである。何かが潜んでいてもわからないというスリルを体験することができる。

(露出を上げて撮影するとこのように見えるが、肉眼では暗くて見えない。。。)

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しかし小屋を出ると心がスッキリしているのがわかる。不思議なものだ。身も心も清められる、浄化のパワーウォーターである。

上古代のパワースポットか?「岩神さん」

さてと、桐原水の隣にあるのが「岩神さん」である。

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社殿跡を踏まないように大岩を置いているとの説明であるが、一説には、仏徳山を神奈備とする磐座信仰の跡であるとも。

こちらが、春日神社と本殿の間にある「岩神」さん。

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こちらもたくさんの石が置かれてある。が、落とされた石もたくさん。。。

この岩神さんの上に願いを込めながら小石を置く。その小石が落ちなければ願いが叶うなどと言われている。お試しあれ。

他人の小石を落とさないように!

国宝「本殿」

拝殿の裏の高見には国宝「本殿」が、その厳粛な雰囲気を醸し出している。

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この本殿は「覆殿」で、3つの内殿を覆っている。覆っているだけなら普通なのだが、こちらの覆殿は、内部にある左殿・右殿の側面と屋根を利用して全体を覆っているという構造で、非常に珍しいものであるとか。

摂社「春日神社」

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本殿右には摂社の春日神社がある。こちらも国の重要文化財である。鎌倉時代後期の建造物で本殿と比較すると力強さを感じる。祭神は、建甕槌命と天児屋根命。藤原氏の影響力の強さをうかがわせる。

他の摂末社としては、

住吉社・・・祭神:住吉三神
香椎社 ・・・祭神:神功皇后、武内宿禰神

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武本稲荷社・・・祭神:倉稲魂命

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厳島社・・・祭神:市杵島姫命

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宇治上神社は、山のパワーだろうか、境内全体に癒しのパワーがあるように感じた。そしてそのパワーの根源は「岩神さん」

宇治は藤原氏栄華の象徴。平安の「雅」を今に伝える平等院とは対照的に、素朴かつ厳粛な佇まいをみせる「宇治上神社」は、古代からの重厚な歴史の積み重ねを今に伝える、まさしく世界遺産であると感じた。

最後に、平等院を見学して帰ることにする。

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こちらは、平等院の鳳凰堂。

縣神社

宇治駅へ戻る帰り道、宇治橋付近で大きな石の鳥居を発見。「縣神社」という。立ち寄りたかったが時間がないため、今回はあきらめた。

あきらめたが、どんな神社なのか調べることにした。概略としては、、、

  • 祭神は木花開耶姫命。平等神の鬼門を守る守護神とされる。
  • 家運隆盛、結婚、良縁安産のご利益があるとも。
  • 毎年6月5日に「暗闇の奇祭」と呼ばれて有名な「縣祭」が行われるとのこと。

この「縣祭」を調べると。。。

すると、なんとなんと、この「暗闇の奇祭」が、「菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)と大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)の皇位譲り合い美談」」の真相を物語るものであるかもしれないことがわかったのだ。

繰り返しになるが、「皇位譲り合い美談」については、日本書紀に、およそこのような内容で描かれている。

「菟道稚郎子命」は、応神天皇の御子であり、仁徳天皇の弟。幼い頃より勉学に励み儒教を極めたとさるほど頭脳明晰であったようだ。父の応神天皇は、兄弟の中で年少の「菟道稚郎子命」を皇太子に指名する。末子を後継者にするのは当時の慣習でもあったらしい。

しかし儒教を極めた「菟道稚郎子命」は、「長兄が継ぐべし」という考え方。よって兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲ろうとした。兄の大鷦鷯尊は逆に、古来の伝統を重んじて「年少が継ぐべし」と考え、即位を拒むのである。この譲り合いは3年間続いた。

最終的に、弟の「菟道稚郎子命」は、兄に皇位を譲らんがために自殺をする。

ちなみに、古事記にはこのような記述はない。

これを読んだ私は直感的に「そんなことあるわけないやろ~」と思った。「仁徳天皇が皇位欲しさに皇太子である弟を殺したに違いないわっ!」と。

縣祭とは

県神社の神事で、6月5日の深夜から6日にかけて行われる。明かりのない暗闇の中で、梵天(ぼんてん)渡御と呼ばれる儀式があり、町内の男たちが梵天と呼ばれる神輿を担ぐ。この神輿の通過する間は、家々も明かりを落として、それを迎えるため「暗闇の奇祭」と呼ばれている。

引用:Wikipedia

「梵天」とは、竹串に奉書紙を玉ねぎのように幾重にも貼り付けた球体のようなものを乗せた神輿のことである。神移し後に繰り広げられる「ぶんまわし」と呼ばれる「神輿の暴れる様」が見物客のお目当てとなっているようだ。ものすごい人出らしい。

さて祭りの一連の行程はというと、、、

  1. 宇治神社御旅所を出発した神輿「梵天」が県神社に到着する。
  2. 依代である「梵天」に、神に降臨いただく。(神移)
  3. 神輿「梵天」を宇治神社御旅所に担ぎ込む。(渡御)
  4. 「梵天」の奉書紙が引きちぎられる。
  5. 宇治神社御旅所から県神社に神輿「梵天」を戻す。すなわち神様が県神社に戻ってくる。(還幸祭)

ちぎられた奉書紙には、安産の御利益があると言われている。

さて、この祭りの不思議なところは、かつては梵天の担ぎ手が氏子ではなかったということ。「奉賛会」という県外の「講社」の人々であったということである。今でも地元の人々は、この「県祭り」を「宇治の祭りやない。他所者の祭りや」などと言うらしい。

その講社とは、下記のとおり

盾津講・京橋講・姫路講・守口講・見山講・東栄講・京橋東組・県光講・枚方講・御影講・鳥飼組・御幣講い組・神楽河内組・菊一講・萱島講・野江講・奈良御鏡講・大津信心講

「県外」とはいうもののほとんどが「河内国」である。淀川沿岸および河内湖沿岸部ともいえる。淀川を遡れば宇治には近い場所である。そして、仁徳天皇の本拠地は「河内」である。

これらから、以下のようなストーリーが浮かび上がっている。

応神天皇は伝統に習い、末子「菟道稚郎子命」を継承者(皇太子)とした。しかし、兄の大鷦鷯(おおささぎ)皇子(仁徳徳天皇)はその決定を不服としていた。 応神天皇が崩御されたのち、「菟道稚郎子命」は、天皇に即位したと思われる。在位は3年。
※播磨国風土記に「宇治天皇」の記載がある。大鷦鷯(おおささぎ)皇子の命を受けた18組の軍団が(もしくは18人の猛者)が、河内国から「宇治天皇」のおわす宇治へ暗闇に紛れてやってくる。県神社で「宇治天皇」を誘い出し、殺害に及ぶ(御旅所で梵天が引きちぎられる様)。屍を県神社へ戻す。

御由緒にある「美談」を読んで感じた私の違和感は、これで説明がつくのである。というよりは、これで納得がいくのである。

真相はわからない。今も深い暗闇の奥に隠れている。。。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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